事は思惑通りに進まない。モノどうしは勝手に釣り合いを取ってくれない。都会の風物も同じ。計画通りに統合されることはほとんどなく、部品が寄せ集められたかのようなカオスの様相を呈する。都会の極大化に人の頭脳が追いついていないのである。一極集中化した東京を見ればよくわかる。分業化された専門を足し算しただけの組織には、全体を、未来を構想する人が不在である。新国立競技場の顛末、豊洲市場の現在がそれを物語る。
西洋のように、教会と広場を前提として住居や道路が構築される街は、部分が全体に通じ、全体が部分と調和する。そこで暮らす人々、訪れる人々は、異種雑多な風物に取り囲まれながらも落ち着きを感じる。この国では、行政的な意味での都市の計画はあるのだろう。しかし、暮らしや文化の要素がどこまで計画に組み込まれているのか。当面の必要性を優先しては平気で建物を壊し樹齢何十何百年という木を伐採する。
一人の生活者の工夫ではいかんともしがたいのが都会の暮らしである。他人と共生するのはもちろんのこと、バランスを無視して気ままに足されていく諸々の断片とも折り合いをつけねばならない。都会の断片が生活者に、散策人に歩み寄ってくることはない。こちらから近づいて、断片の存在を知り寛容に接することが求められる。接するのが嫌なら、黙って通り過ぎるしかない。都会に暮らしながら、都会の断片を無視するとは何という生き方なのだろう。
大阪の、最近高感度と格付けされているエリアを歩いてみた。颯爽とストリートを歩き、街角に佇む若い男女はファッション雑誌のモデルと比較しても遜色ない。カフェやレストランは四季の節目単位で模様替えしているかのようである。しばらく足を踏み入れないと、迷宮のさすらい人になりかねない。
通りを一本変えてみた。突然、存在の意味を即座に理解しかねる一画に出くわす。その断片が何であるかを、おそらく敢えて隠蔽する空間である。ふつうは誰の目にもわかるように身元を明らかにするはずなのに、巨大な組み木の塀の向こう側に姿を隠す。ここはクリニック。誰もこんなふうに塀を設えていることを不思議に思わないのか。そうだ、これは歩行人に足止めさせるための仕掛けなのだ。なるほど、謎解きは愉快なのかもしれないが、都会の脈絡とつながらない、忽然とした現れに断片の断片たるゆえんを感じるのみ。
しばし歩を進める。断片空間から役割を終えた廃棄物の溜め息が聞えてきた。どうやら再利用される見込みのない残骸らしい。常時入れ替えているような気配がない。それが証拠に、物流用のパレットがどしりと置かれている。人目につかない場所に格納されていていいはずの断片が剥き出しになっている。クリニックの隠蔽性とは対照的だ。
都会で暮らすとは膨大な量の断片との共生を意味する。人もまた環境適応動物である。ありとあらゆる明暗を雑然と内蔵する都会にあって、生活者は自らの五感を研ぎ澄ましておくしかないようである。