手元に『あいまい語辞典』なるものがあり、時々ひも解く。「そこそこ」や「ちょっと」などと並んで、「つもり」が収録されている。実は、「つもり」について書こうと思い、この辞典におそらく載っているだろうと思って繰ってみた。案の定である。見出しに続く説明の冒頭、次の二文が出ている。
「私はA社と取引を開始するつもりです」
「社長はA社と取引するつもりだろうか」
最初の文は話者自身の予定を語り、二つ目の文は自分ではない他人の思惑を推測している。自分の行為に関して本人が使う「つもり」には不確定ながらも意志が込められている。たとえば、ぼくが「今夜は和食にするつもり」と言えば、発言時点でその気があることを意味している(気や事情が変わって和食を食べないかもしれないが……)。他方、他人の行為に関して「彼は今夜焼肉を食べるつもりだろう」とぼくが言うのは、他人の思いを推測したもので、そこに彼の意志は潜んでいない。
つもりは「積もり」であって、予想を立てるとか推し量るという意味。見積もりがわかりやすい例である。見積もり通りに最終金額が決定することは稀で、たいてい見積もりは「はずれる」。お金の予算があれば、心の予算もある。心の予算のことを「心算」という。頭で勝手にこうだろうと考えることだから、心算は「狂う」。胸算用や皮算用も「つもり」の仲間である。
人は、自分の思いを語る時も他人の思いを汲む時も「つもり」を使う。先にも書いたが、自分のことを語る場合のほうが確証が強そうではあるが、確信しているのなら「つもり」などとは言わない。ましてや、他人のことを勝手に考えてこうなるだろうなどという「つもり」は当てにならない。曖昧語の常で、厄介なのだ。「つもり」を含む言には用心しなければならないのである。
● 「先方にはきみの考えは伝わっている?」
■ 「……というつもりですが」
● 「伝えはしているのだね」
■ 「一応……」
● 「伝わったかどうかを確認した? たとえばさりげなく質問したとか……」
■ 「質問はしていませんが、伝わっていると思います」
仮想会話だが、実際によくあるやりとりである。■の応答に「つもり」は一度しか出てこないが、「一応」も「思います」も「つもり」の亜種である。相手が自分の考えを理解したという確証などない。それ以前に、伝えたという自分の行為についてすら認識不十分である。●の質問がさらに続くと、「たぶん」「おそらく」「もしかすると」という具合に■の推測は揺らいでいく。「つもり」が雪のように積もって真相の地肌が見えなくなり、ことばの木々は枝折れする。
「つもり」を多用する人と話をしていると、ごっこ遊びに付き合わされているような気分になる。仕事しているつもり、わかっているつもり、学んでいるつもり、等々。確信に近い「つもり」もあるけれど、曖昧語に逃げる人間の「つもり」に実感は不在。つまり、甘い見通しでごっこしているにすぎない。だが、本人は気づかない。推測だけでことばを間に合わせるいるうちにことばが心から切り離されていくのを自覚しない。曖昧語を常用すると、ことばが不鮮明になるばかりでなく、人格が変わってしまうのである。