「いちょう」でも「ぎんなん」でもローマ字入力すれば、「銀杏」が出てくる。漢字で表わすと読み手が戸惑う。ここでは銀杏は「ぎんなん」のつもり。樹木のほうは「イチョウ」と表記する。
生まれてから二十歳過ぎまで大阪市民。その後は少々転々した後に二年ほど大阪市に住み、もう一度転出。大阪市民として定住を決めたのは十年前だ。市民生活は人生の半分ということになる。自慢できるほど大阪のことをよく知っているわけではない。大阪市のシンボルと定められている木がサクラ、花がパンジーであることを知ったのは十年前に引っ越してからだ。イチョウ並木の印象が強く、それまではイチョウが大阪のシンボルだと思っていた。
イチョウの木には雌雄の別がある。雌のイチョウの木に銀杏の実が生る。この時期になると、銀杏の実が路上に落ちる。すべての木の下に落ちているわけではないので、雄と雌がバランスよく植わっているのだろう。ぼくの住まいの近くに大通りがあり、御堂筋ほどではないが、イチョウ並木の形が整い、まずまず様になっている。木は土の植え込みから伸びている。ところが、植え込みは舗道と車道の間のわずかなスペースのみ。大半の銀杏は舗道と車道に落ちる。
落ちた銀杏の上を人が歩き、車が通る。落ちた直後の銀杏はやわらかい。踏んづけられた銀杏はペシャンコに潰れる。それが舗道のブロックやタイルの目地に刷り込まれ、あの銀杏独特の匂いが通勤路にたちこめることになる。匂いだけならまだいい。雨が降ってもきれいさっぱりと流されることもなく、半月、一ヵ月もの間、舗道は見た目に心地よくない状態が続く。人がどんどん歩いて靴底にくっつけて取り去るのを待つしかない。
銀杏落下が終われば、次は黄葉である。おびただしい枯葉が辺り一面に散乱する。土の上に敷き詰められるのなら放置しておけばいい。しかし、アスファルトや舗道の葉は人の作業が入らないかぎりなくならない。突風が吹いても、消えてなくならない。どこかへ落ち場を変えるだけである。
樹木は都会の喧騒をやわらげてくれる。しかし、樹上の緑があれば事足りるわけではない。樹木には土の受け皿を用意したいものである。アスファルトや舗道との棲み分けは可能だろう。銀杏の歩道を抜き足差し足で歩くのは優雅ではない。このことを銀杏のせいだけにするわけにはいかない。都市計画では取るに足りない話に違いないが、景観というのは一つの小事が大事を台無しにしかねないのである。