「ダメなものはダメ」のダメ

言い分が通るはずがないことは明らかなのに、性懲りもなく「ダメなものはダメ」で場をしのごうとする見苦しさ。苦し紛れの言い逃れだと自覚しているならまだしも、これで論理が通っていると確信しているから厄介だ。「ダメなものはダメ」で突っ張る弁者は、「これほど自明な理屈がきみにはわからんのかね」という調子で、自らの話法のメッキが剥がれていることにまったく気付いていない。

「ダメなものはダメ」のような表現形式を論理学では〈トートロジー〉と呼ぶ。ダメということばを繰り返すから同語反復。言い分はこの一文内に閉じてしまい、これ以上の発展性はない。こんな似非論理でも、閉じてしまうと案外強いもので、本人は自論が完璧だと自信満々だ。それが証拠に、尋ねてみればいい。「なぜダメなものはダメなのか?」 きっとこう答える、「だってダメなんだから」。

今は亡き女性政治家T.D.は「ダメなものはダメ。無理なものは無理。筋を通したい」と言った。筋を通したいとは論理的でありたいに等しい。その論理の前に、ダメダメと無理無理を置いたのが奇妙である。ところが、この奇妙な話法に再反駁する側が相手の土俵に上がってしまう。そして、「ダメなものはダメという主張はおかしい」と言い返すのだが、これが腰砕け。「おかしい」などというのも真摯な議論にはふさわしくない表現なのである。


ダメなものはダメである

トールミンのオーソドックスな三角ロジックに当てはめてみる。通常、証拠と論拠に基づいて主張を唱える。「今日は夕方から雨が降る」という天気予報は、当たるか当たらないかはともかく、自分の意見ではなくて証拠である。この証拠から「折り畳み傘を持って出掛けよう」と考えることに無理はなく、主張として一応成り立つ。

こんな当たり前の推論においても論拠を編み出せる。たとえば、「オフィスに置き傘がないから」でもいいし、「出先に雨宿りできそうな地下街はないから」でもいい。証拠と主張と論拠には同じことばが反復されない。「Aである。ゆえにBである。なぜならばCだから」と説明しようとする。ところが、「ダメなものはダメ」は「Aである。ゆえにAである。なぜならばAだから」という推論構造になる。よく分からないAを分かるためにAを手掛かりにするしかないないのである。

「うまいものはうまい」や「美しいものは美しい」も苦し紛れの言い回しだ。それでも、「ダメなものはダメ」ほどの不条理を感じないのはなぜか。うまいも美しいも個人的な感覚であり、二者の異なる感覚を葛藤させても意味がないからである。また、「うまくない」「美しくない」と反論してけりがつくわけでもない。料理のうまさや女性の美しさを競うコンテストがあるが、審査員にどう評価されようと、自分の料理はうまい、私は美しいと思っていればそれで済む。なぜそう思うのかと聞かれたら、「うまいものはうまい」「美しいものは美しい」と自惚れておけばよい。

「ダメ」は自分の価値観とは異なる対象に向けられている。つまり、ダメだとケチをつけた方が他人の価値観や意見にノーと言ったのである。ノーは責任を負うことにほかならない。一般的には言い出した者が立証責任を負うのだが、立証不十分を喝破しようとする側にも反証のマナーが求められる。「うまいものはうまい」「美しいものは美しい」という幼い主張に対して、「うまくないものはうまくない」「美しくないものは美しくない」と反論しても切り返しになっていない。単に幼さにお付き合いしたにすぎない。引き分けどころか、無理筋の自滅である。と言うわけで、「ダメなものはダメ」と言われたら黙殺しておけばいいのである。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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