仮面の営業スタッフ

知り合いか自分のどちらかが、この男たちに対応されていたらと思うとぞっとする。「顧客の立場から考え振る舞う」などとキレイごとを教えても、無意識世界の人間の本性は変わらないし変えることができないかもしれない。そんな絶望感に襲われる。

日曜日の昼下がり、とある商店街で買物を済ませ帰路についていた。その商店街に何度か通った整形外科がある(美容整形ではない)。そこからわずか20メートル、交差点角の調剤薬局で薬をもらったのを思い出す。見れば、その薬局はない。そこは賃貸住宅の営業所になっていた。外からよく見えるガラス張りでスタッフが数名いる。交差点で信号待ちしていると、そこから男性スタッフが二人出てきた。ランチに出掛ける様子だ。

信号を渡る。彼らはぼくのすぐ右前を急ぎ足で歩く。二人のうち年上の三十代半ばのほうが、向こうから歩いてきた若い男に声を掛けた。「さっきの親子、どうやった?」 若い男は照れるように首を横に振り、左右の手でバツのジェスチャーをした。「何しとんねん、つかまんかい!」と年上の男。ぼくの前をさらに急ぎ、男二人は商店街から脇道にそれ大衆食堂に入った。不況忍び寄る不動産業界よ、「何言うとんねん、誠意見せんかい!」


 壁に耳あり障子に目あり。耳と目は壁や障子の向こう側だけにあるとはかぎらない。顧客の耳と目はそこらじゅうにある。耳と目はぼうっとしていることも多いが、ここぞというときには聞き耳を立て目を凝らす。そのことに気づいていない売り手はやがて二枚舌を暴かれ、表と裏、ホンネとタテマエ、天使と悪魔のいずれであるかを見破られる。

通りの角をお客が曲がって消えるまで見送り続ける料亭の女将。見送り届けた直後のことば遣いを聞き、表情を見てみたい。そこに落差ありやなしや。あるとすればどんな落差か。上客におべっかを使ったと思えば、帰った客の金遣いの悪さにチェッと舌打ち。従業員の不手際を怒鳴り散らした直後に、ささやくような声で平身低頭で詫びを入れる。

電話中と電話を切った直後の態度とことばの落差。得意先訪問中と社屋を後にした直後の態度とことばの落差。講演直後には褒めちぎられたものの、パスした懇親会でボロクソの欠席裁判。時々そんな悪夢を見る。だいたいにおいて、異様なほど過分に褒められているなと感じたときは、褒めた連中が陰に回ってから悪口を楽しむだろうと推察していい。


ある駅に降り立った。徒歩10分ほどの位置にあるホテルがよくわからない。駅前にある賃貸オフィスは、接客中でないにもかかわらず、場所を尋ねるぼくに「知らない」と軽くあしらった。その土地の顧客になりえない出張族への接し方一つで人と店の質がわかる。真剣にこちらが対峙すれば、粉飾された束の間の誠意を見破るのはさほど難しくない。ふだんの習性は、たとえ必死にカモフラージュしても、ことば遣いと立ち居振る舞いに滲み出るものだ。

舞台の上と楽屋での言動を完全一致させることはないし、そんなことは無理な話だろう。しかし、感謝や誠意や親切などは「時と場合に応じて」というものではない。「精神的お辞儀の角度」は表でも裏でも同じだからこそ尊いのだ。営業スタッフよ、むくれた顔になりたくなければ、即刻仮面を外したまえ。

「よく言うよ、あんただって他人批判をよくしているじゃないか」という声が聞こえてきそうだ。たしかにぼくも本人のいないところで毒舌を吐く。しかし、本人がいるところでも同じように毒舌を吐く。相手が無理難題を突きつけてきたとする。泣く泣く持ち帰って陰で悪態をつかない。その場ではっきりと自論を述べる。若い頃は他人の仮面を剥がそうとしてできず、よく失望した。ここ数年は自分自身の仮面と闘っている。仮面は他人に向けられた詐術だが、欺かれる第一の犠牲者は自分自身である。

土曜午後の書店、アマノジャク

今日は土曜日。ゆっくり本を読もうと思っていた。買いだめしている本から読めばいいのに、気になる本が一冊あったのでぶらぶらと本屋まで歩いた。徒歩10分のところに有名な大手の書店がある。気になる本と他に3冊買ってしまった。用が済めばさっさと帰るのが流儀だが、今日はめずらしく小一時間立ち読みに耽った。本の論点らしき箇所を探して検証したりアマノジャクに反駁したり……。


ある本には「正論ばかり唱えていると人が離れていく」と書いてあった。

心当たりはある。民心というものは、そうであって欲しくはないと願えば願うほど、明らかに怪しげな方向に流れていく。しかしだ、そもそも何が正論で何が邪論かはよくわからない。ぼく自身、「それ、正論ですよ」と言ってもらうこともあれば、「変わってる」とも言われる。自分なりには、ややアマノジャクながらも本質を衝いているのではないかと思っている。いや、ぼくだけではなく、誰もが多かれ少なかれ自分の意見は正論に近いと自覚しているに違いない。

まあいい。ぼくが自他ともに認める「正論吐き」だとしよう。そうすると、知人も友人も塾生もどんどん離れていくということになる。なるほど、少し当っているような気がする。ここ数年、人脈ネットワークが小さくなっているし、人付き合いもめっきり減ったし、ゆっくり会って飲食して対話を楽しみたい「この人!」も少なくなってきているかもしれない。この分だと、最後の晩餐は一人でメシを食う破目になりそうだ。

だから、それがどうしたというのだ。人が離れていってもいいではないか。小手先の術を使わず、正論漬けで結構だ。モテない男がホンネを捨ててでもモテる作戦を立てるのには賛成するが、この齢で、今さら邪論を唱えて人離れを防ぐ気にはなれない。


別の本は「情報を一元化してまとめる」をテーマにしたベストセラーだ。たしか情報編が先に出て、第二弾は読書編だと思う。

ぼくは情報一元化を自ら実践してきたし、一冊のノートに見聞きした情報やひらめいたアイデアをメモするように勧めている。面倒臭いけれど、読書をして印をつけた用語や傍線部分や欄外コメントも、後日抜書きするのがいい。この本には基本的には賛成だ。

しかし、「情報を一冊にまとめる」の「まとめる」が少し気に入らない。「まとめるテクニック」は著作業や企画業などアウトプットを仕事にしている人には役立つ。たとえば、ぼくの場合。お粗末ながら著作経験があり自前の研修テキストを年間何十と執筆編集する。企画・執筆・講演をつねに意識しているので、活用のためのまとめは重要な作業だ。そういう仕事と無縁であるなら、ノート上のまとめや分類や活用のためのインデックスなどに凝ったりこだわったりすることはない。

情報はテーマページでノートにメモすればいい。読書の抜書きも同じノートでかまわない。インプットする情報がすべてそこに書いてあるということに価値がある。そして、週に一回ほど、そのノートをめくって記憶を新たにし、何か気づいたことがあれば書き加えればよい。まとめることを意識などせず、まずはノートに書く習慣になじむことだ。これまで何もしてこなかった人なら、その習慣だけで思考とコミュニケーションスキルは見違えるようになる。

誤解なきよう。ぼくのように「情報一元化の習慣」を単刀直入に勧めて「ハイ、おしまい」では一冊の本は出来上がらないのだ。文庫であれ新書であれ、おおむね200ページの体裁が本の最低条件。だから、幹以外に枝葉が必要になってくる。裏返せば、自分の仕事や状況や現在のスキルに応じて枝葉を適度に剪定せんていするように拾い読みする――こんな読書の方法にも理があることがわかる。    

「ケースバイケース」はずるい

国語辞典を引いていて、調べている語句と違う箇所にふと視線が落ちて無関係な情報を拾ってしまうことがある。昨夜は、【来る】ということばに目が行ってしまい、「このコロンボときたら(=という人は)、本当に警部かどうかさえ疑いたくなる人相・風体だ」という例文に出くわした。探してきたのか作ったのかはわからないが、なかなか愉快な文例ではある。

愉快ではあるが、初対面時に限定された用法だ。刑事コロンボをよく知るぼくとしては、あの人相・風体ゆえに魅力を感じるわけである。数々の難事件を最終的には必ず解決するのだから、警部かどうかを疑うなんてとんでもない。

「この〇〇ときたら、本当に政治家かどうかさえ疑いたくなる人相・風体だ」とするほうが、思わず膝を打ちたくなるほどぴったりくるではないか。「〇〇」に実名を入れたい政治家は五万といるが、大事なのは人相・風体よりも能力だ。

政治や政治家の話は公言しない主義だが、昔の話なら少しはいいだろう。

「大臣、もし~のような事態になれば、どんな対策を立てられますか?」と記者が尋ねた。紳士的でまっとうな質問である。これに対して、時の大蔵大臣はこう応じたのである――「仮の話には答えられない」。平然と言いのけたその姿の向こうに、この大臣の、ひいてはその他大勢の政治家たちの想像力の限界をしかと見届けた。

「この問題をどう解決するのか!?」という詰問は直截的で厳しい。しかし、上の例では、大臣が気を遣わずに答えられるよう、わざわざ「もし~ならば」と仮定で記者は質問したのだ。考えを発展させるとき、「仮にこうだとしたら」という前提を積み重ねていく。未来のことを推論するのだから、何かを前提として結論を下すのは当たり前である。


「仮の話には答えられない」という応答がいかにひどいか。「もし大雨になれば、どうされますか?」に対して、「雨が降っていないので答えられない」、「雨が降ってから考える」と対応するのに等しい。これは間抜けである。「大雨」を「大地震」に置き換えても、間抜けの論理が変わらないから、「君、そんな質問は大地震が起こってからしたまえ!」と苛立つのに違いない。危機管理能力が低いと評する前に、絶望的なまでの想像力の無さこそを嘆くべきだ。

先送り、慎重に検討、状況を踏まえて判断、よく精査など「潔くない逃げ口上」がはびこる。批判側も論争不器用につき、このような言い逃れを封じることができない。ぼくはこうした逃げ口上の大親分が「ケースバイケース」だと睨んでいる。

個々の場合や事例に応じて考えたり、そのつど柔軟に振る舞うようなニュアンスがあるため、「ケースバイケースで行こう」に目くじらを立てる人は少ない。しかし、これほど性悪しょうわるなことばはない。どのケースかを特定しない点では「仮の話に答えられない」に通じる。ケースが明白になってから考えようというのは「先送り、棚上げ」そのものである。

自分自身の経験を振り返ってみればよい。ケースバイケースで済まして、うまくいったためしがどれだけあっただろうか。このケースならこうして、あのケースならああしてと緻密なシミュレーションなどしていないのだ。いざケースに直面しても対策の施しようがない。実際に問題が発生したとき、「大臣、ケースバイケースで行こうとおっしゃったでしょ? どうするんですか?」と聞いてみればいい。きっと大臣はこう答える――「よし対策を練ろう。ケースバイケースで」。そう、ケースバイケースバイケースバイケース……ケースを携えた旅は延々と続く。 


辞書を引いていて偶然コロンボに出くわし、それが政治家のアタマと語彙へと移ろった。知らず知らずのうちに、ぼくの意識の中で昨今の政治文脈が張り巡らされつつあるのだろう。

ネガティブマニュアルを解体せよ

今週の月曜日、昼にうどんを食べに行った。午後1時前、すでに賑わいのピークは過ぎているはずなのに、カウンターは満員。「お一人ですか? そちらのテーブルでお相席願えますか?」 示されたテーブルには女性が一人。そこに進みかけた矢先、別のテーブルが空いたのでそちらに座った。「お相席になるかもしれませんが、よろしいですか?」と念押しされてから、注文を聞かれた。

注文してからおよそ5分、うどん定食がきた。ランチタイムは客が引き潮のように消えていく。店に入ってからわずか10分ほどの間に、カウンター席も6つあるテーブル(各4席)も半数は空き、一つのテーブルに一人か二人が座っている状況になっている。誰が見たって、がらんとしている。

にもかかわらず、入店から食事を終えるまでの20分間、ぼくはホールを仕切るオバチャンの「お相席でお願いします」と「こちらのテーブル、お相席お願いするかもしれませんが、よろしいですか?」という声を少なくとも5回耳にした。ピークを過ぎてもお客さんは一人、二人と来る。そのつど、このオバチャンはそう声をかけるのである。他のテーブルが空いているのに、「こちらのテーブルで相席お願いします」と誘導し、知らん顔されて空いているテーブルに座られると「こちらのテーブル、お相席お願いするかもしれませんが、よろしいですか?」

このオバチャン、もはやうどん屋であることを忘れている。ピーク時の満席をどうやりくりして席を割り振るかに必死だ。これは、店長にきつく叱られたトラウマか。おいしいうどんをゆっくり食べてもらうどころではなく、限られた時間に何人捌くかがオバチャンの仕事になっている。未だ来ていない客との相席を当面の客に乞うのはネガティブ接客である。閑散とした時間帯にまでいちいち「相席」云々はないだろう。正直言って、うどんを食べた気はしなかった。落ち着かないこの店には二度と行かない。


「エスプレッソのほう、こちらの小さなカップでごく少量のコーヒーになりますが、よろしいでしょうか?」 エスプレッソを注文すると、5店舗のうち3店舗でこう確認される。飲んだことのないエスプレッソを注文したのはいいが、出てきた小さなカップを見てイチャモンをつける客が月に一回か二回かあるのだろう。そんな客対策としてマニュアルに「エスプレッソ注文時の確認事項」が追加されたのに違いない。

注文カウンターでアイスだのホットだの、レギュラーだのカフェラテだのと書いてあるメニューを見つめること数分、迷いあぐねて「エスプレッソ」と注文する客には、臨機応変を条件にそのように確認してもいいだろう。エスプレッソを知らない可能性があるからだ。だが、小銭をポケットから取り出しながら、メニューも見ず一秒たりとも逡巡せずに「エスプレッソ!」と威勢よく注文する客に断りはいらない。その対応は、喫茶業としては野暮である。

百円硬貨を二枚カウンターに差し出して、「ごく少量の濃いコーヒーの入った小さなカップのエスプレッソをください」と客のほうが先手で攻めたら、カウンターの向こうのアルバイトの女子、どんな反応を見せるのか。「エスプレッソのほう、ダブルにもできますが……」と対応するようマニュアルには書かれているかもしれない。 


リスクを未然に防ぐことは重要である。しかし、必要以上にクレームの影に怯えることはない。怯えて構える「転ばぬ先の杖」が目立ちすぎて逆効果だ。こうして編集されるマニュアルを「ネガティブマニュアル」とぼくは勝手に名付けている。正社員・パート社員は「後で文句を言われないための単純ハウツー」を徹底的に仕込まれ、まるで機械のようにワンパターンで反応する。こんな書き方をすると、人間に失礼? いやいや、センサーで状況判断できる機械に失礼だ。

思い上がるカスタマーや理不尽クレーマーが激増する昨今、ネガティブマニュアルによる自己防衛に走らざるをえない心情も察する。だが、行き過ぎだ。商売の本来あるべき姿から逸脱している。一握りの消費者への過剰対策が多数の良識ある消費者の気分を損ねることだってある。そのことに気づくべきだ。 

なかなか整合しない、主題と方法

社会的意義のきわめて小さいニュースをお伝えする。昨日(12日)ぼくが代表を務めるプロコンセプト研究所が創業21周年を迎えた。一日遅れで取り上げることによりタイムリー価値も低減した。だからこそ、「済んだ話」として照れずに書ける。いや、記念日についてあれこれ書いてもしかたがないか。

過去21年間「理念は何ですか?」とよく聞かれた。聞かれるたび「ありません」と答える。まっとうな企業人や経営者が聞いたら呆れ果てるに違いない。おおっぴらに理念を掲げて公言することを躊躇するぼくだが、企業理念らしきものがないわけではない。世間で言う理念に相当するのは「コンセプトとコミュニケーション」なのだが、理念とは呼ばない。それを目的や目標や夢とも呼ばない。「コンセプトとコミュニケーション」は「コンセプトとコミュニケーション」であって、わざわざ理念という冠をつけることはない。

創業以来、ぼくはコンセプトとコミュニケーションを仕事にしてきたし、顧客のコンセプトづくりとコミュニケーション活動のお手伝いをしてきた。だから、理念ではなく、問い(主題)であり現実的な答え(方法)なのである。


先週も少し書いた「問いと答え」。この二つを対比するからこそ答えの有効性を評価できる。「無理なくダイエットして痩せたいですか?」――ある広告の問い(主題)である。しかし、無戦略的に太ってしまった意志薄弱な顧客を前提にしているのだから、「毎日10分のダンスエクササイズ」という答え(方法)は有効ではない。試練を乗り越えねばならないのは、テレビの向こうの杉本彩ではなく、デブっとしたテレビの前の消費者のほうなのだ。

新聞でも紹介されていたので知る人も多いだろう。緑茶とコーヒーが癌のリスクを減らすという話。日頃そこそこ飲んでいるのに、抗癌作用にすぐれていると聞いて回数を増やした人がいる。緑茶とコーヒー合わせて一日十数杯飲み続けた。ちょっと動くたびに腹がチャポンチャポンと音を立て、食事も受けつけないほど胃が満タン状態。主題に対する方法の有効性はいつ証明されるのであろうか?

おなじみのテレビショッピング。マッサージチェアの通販である。これだけ多機能、しかも、お値段はたったの(?)89千円! と例の調子でやっている。「疲れをとりたい、癒されたい」という主題に対して「お手頃価格のマッサージチェア」という方法の提案だ。触手が動きかける消費者の踏ん切りどころは「大きさ」である。そのことを承知している広告は、「半畳サイズに収まるのでかさばらない」かつ「お部屋の雰囲気を壊さない」と映像でアピールする。しかと映像を見るかぎり、確実にかさばっているし、和室もリビングルームも完璧に雰囲気が壊れてしまっている。主題を説くまではいいのだが、方法が弱い、答えが甘い!

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美しい理念を掲げながらも、現実には理念通りに行動できない企業。看板に偽りありだ。見事なテーマで企画提案書が練られていても、そこに一発解答の提案はない。広告の甘いうたい文句に誘惑されて手に入れた商品は何も解決してくれない。問題提起は威勢がいいが、いざ答えの段になると消費者の着払いというケースがおびただしい。「口先ばっかり」と言われぬように、自分への警鐘としておく。

閑古鳥がおびただしい

「閑古鳥」とはカッコウのことらしいが、言い得て妙である。さびれている様子がにじみ出ている。貧乏神と同じく閑古鳥は招かれざる客なので、そこかしこで毎日毎日啼かれては困る。ところが、この閑古鳥、最近目立って繁殖しているようなのだ。ぼくの住むマンション近くにはどこからか追いやられてきたムクドリが群れているが、オフィス街に棲息しはじめた閑古鳥の数はムクドリの比ではない。

週末に大阪の目ぼしい繁華街を散策し、デパートや専門店にも立ち寄って人出や賑わいをチェックする。不景気や金融不安などどこ吹く風、どんどん皆さん買っているし飲食している。心斎橋の有名ブランド店の一つなど、百均ショップではないかと見間違うくらい混んでいた。ニーズ(必要性)を満たすために消費しているとはとても思えない。緊急性などまったくないウォンツ(願望)がコンスピキュアス・コンサンプション(見せびらかし・目立ちたがりの消費)へと加速している。

このように景気をまったく気にせずにせっせと消費できる人々がいつの時代にもいる。どのくらいの人口比なのかは知るすべもないが、ぼくの周辺では五人に一人というところか。この20%の人たちは必ずしもセレブばかりではない。収入の多少や肩書きの上下や消費額の大小とは無関係に存在する。誰一人として景気と無縁に暮らせる者などいないはずなのだが、不思議なことに、この連中は景気に鈍感であり続けることができる。五人のうち景気に敏感な残りの四人はどうしているのだろう。迫り来る不況の影に怯えながら財布を握りしめタンスの引き出しを押さえているのだろうか。


一昨日の夜8時頃、自宅へ帰る途中にオフィス街の飲食店を外から覗き見して歩いた。想像以上に閑古鳥の占拠地帯が広がっていた。しゃぶしゃぶの店、中華料理店、イタリアン、フレンチ、寿司割烹など軒並みチェックしたが、惨憺たる状況だった。オフィス近辺で午後8時前後に客がいないようならその日はほぼアウトだ。飲食業ではないものの、「明日はわが身か……」と現実を直視する。

夏以降、続々と店が閉店に追い込まれて、わずか一ヵ月ほどすると別のオーナーがそっくり新装してオープンする。最初の数ヵ月は新しさ・珍しさゆえ、口コミで人が人を呼んでくれる。だが、昔に比べて選択肢が圧倒的に多い現在、その店でなければならない理由などそう多くはない。週一回や月二回と足を運ぶには他店と一線を画する決定的な差異が必要だ。そんな特徴的な店にはめったに出くわさない。

夜、どこかで飲食する。どなたにも行きつけの店があるだろう。しかし、そこが満員であれば別の店でも代用がきく場合が多いのだ。ぼくなど常連になるのを好まないし、常連ゆえに求められる立ち居振る舞いが面倒なので、行きつけの店でもせいぜい年に6回まで。二、三ヵ月空くことになるから、次回行くときには新参者。ゆえにめったなことでは顔なじみにまでは至らない。


他方、閑古鳥とは無縁の一握りのエリート店がある。「行列の並ぶ店」とか「なかなか予約の取れない店」と聞いて、さあどうする? ここが食にまつわる消費行動の岐路である。

「一度でいいから、何時間並んでも行って見たいし半年先でも予約しておきたい」と思う。実はこんな人たちは少数派なのだが、マスコミがこぞって取り上げるために、「世の中、そんな連中が多いんだなあ」と思い込まされるのである。どんなにうまい焼鳥屋であっても、2時間も3時間も待つことなんかない。近場を探せば、遜色なくてリーズナブルな店が必ずあるものだ。どんなに有名でミシュランガイドで取り上げられていようとも、予約してから半年間も待ち続けることなどない。

ぼくの店選びはとても簡単である。いい店なら客を待たせてはいけない。これが顧客満足というものだろう。「行列ができる」というのは世間の評価であって、ぼく自身にとってはまったくありがたくない現象である。さっきまで並んでいた客が入店する時、後ろに列をつくっている客たちに投げかける、あの「勝ち誇ったような一瞥」の嫌らしさはどうだ。「予約のむずかしい店」など論外である。そんな店はぼくの中では存在しない。その店をなかったことにしておいて何一つ困ることなどない。

弱者発想のぼくとしては、人気店の動向にはあまり関心がない。それよりも、オフィス街でランチを提供してくれている、無名だが一工夫があってリーズナブルなお店を潰しては気の毒だと思う。だから、グルメガイドに頼って遠方まで出掛けず、近くの店を食べ歩きしてみる。気に入った店にはちょくちょく通ってあげる。こうして一羽でも閑古鳥を減らしてあげたい。

とか何とかキレイごとを言いながら、ぼく自身、最近めっきり外食機会が減った。年齢のせいだけではないだろう。わざわざそこに行かねばならないという情熱も薄らぎ、魅了してやまない特徴的な店も少なくなった。何よりも、忍び寄る不機嫌な時代の空気に知らず知らずのうちに備えているのかもしれない。   

牛肉の口当たりと値打ち

どうでもいいことを真剣に考察してみたいと思う。そして、この考察は、ぼくの数ヵ月間のブログ記事史上もっとも賛否が際立つ争点になるだろう(ちょっと大げさか)。このテーマを取り上げたきっかけは次の二点。

昨今、テレビのグルメ番組では上等の焼肉やステーキへの最大級の賛辞が「おいしい、やわらかい、とろけそう」であり、耳にタコができるほど繰り返される。「おいしい」は人それぞれなので何とも言えないが、はたして「やわらかい」と「とろけそう」は褒め言葉なのだろうか。これが一つ目の動機。

もう一つは、今年の2月から3月にかけてパリとローマでアパート暮らしをし、市場で安い肉を買って自炊の日々を送ったこと。人生で初めて半月にわたって毎日欠かさず牛肉、豚肉、羊肉を食べた。塩・胡椒・ハーブで肉を味付けし野菜を添えてオーブンで焼くという、ワンパターンなレシピだ。どの肉も多くの日本人が好むような「やわらかさ」に乏しく、ぼくの了解を得ずに肉が舌の上で勝手にいきなり溶け出すこともなかった。


よくテレビで紹介される100グラム5万円か10万円の幻の大田原牛。噛まなくてもいいほどやわらかくて、口の中に放り込んだ瞬間サシの部分から溶けていくらしい。栃木にはよく行くし知人も多いが、未だご馳走してくれた人はいないので、ぼくにはそのやわらかさと口どけ感は知る由もない。しかし、グルメタレントは異口同音に「おいひぃ~、や~はか~い、とほけそ~」と変体ハ行活用してコメントする。たぶんお説の通りなんだろう。

一枚200グラムのステーキに10万円~20万円の値打ちがある? 一切れ20グラム1万円の肉が秒単位で溶けるのですぞ! 「どのくらいやわらかい肉?」と聞かれたら、「やわらかさ毎秒2,000円、とろけ度毎秒4グラム」とでも答えるか。そこにはゆったりとした深い滋味などない。なにしろすぐに溶けてしまうのだから、「秒味びょうみ」なる造語がぴったりだ。

ねたみや負け惜しみではない。なぜなら、そこまで値は張らないけれど、きれいなサシの入ったロースやバラの焼肉はほどほどに食べるし、たしかに他の部位の肉にくらべてやわらかいと思う。サシの入った肉の刺身が醤油とワサビといっしょに舌の上で溶けるからといって、「けしからん」と腹を立てるわけでもない。ぼくの論点はただ一つだ。口当たりがやわらかくてとろける肉がなぜここまで絶賛を浴びるのか――それが不思議でならない。

農耕民族だからアゴの筋肉も噛む力も弱いからなのか……。肉をブロックで調理せず、薄く切ってすき焼きにしたり、こま切れにして野菜炒めにしたりしてきたから、やわらかい肉を食べ慣れているのか……。あるいは、「肉と言えば赤身」の時代がずっと続き、それが当たり前だったが、近年になって「禁断のサシ」の味を覚えてこっちのほうがうまいぞという固定観念が刷り込まれてしまったのか……。よくわからない。

パリとローマで毎日いろんな市場や肉屋に足を運び、半月間肉三昧をしてよくわかったことがある。おいしい肉の価値が日本と決定的に違うのだ。日本で高級な肉が手頃な値段であり、日本で安い肉が想像以上に高価なのである。日本で好まれるサーロインのようなサシ入りステーキなら一枚200グラムで150円~200円だろう。それに比べて赤身は上等である(これは肉にかぎらない。パリの市場ではマグロも高い赤身から売れ、安いトロが残っている。日本人居住者や留学生にとってはありがたい話である)。なお、高いとか安いとか言っているが、フランスやイタリアでは肉類は無茶苦茶安い。ユーロ高に苦しんだ今年の3月であっても驚くほど安かった。


歯ごたえをアゴで感じ、噛めば噛むほど広がる肉独特の風味を久々に楽しんだ。来る日も来る日も。風土になじめば肉食が続いてもまったく問題はない。野菜少々であっても決して偏食とは思わない。野菜さえ食べていれば「ヘルシー」なんていうのは欺瞞とさえ思えてくる。牛肉だけではない。豚肉も羊肉も日本で食べるよりもワイルドな匂いと味がする。サシの入ったロースを日本独特の「精緻なる工芸品」と称するならば、あちらの国の肉はちと粗削りだが「野趣あふれる天然もの」だ。

美味への飽くなき追求心には文句はない。牛肉に対する日本人独特のこだわりが世界でも稀な肉食文化を形づくっているのも悪くはないだろう。だが、「やわらかい」と「とろけそう」という賛辞によって「やわらかくてとろけそうな肉」を最高品質に祭り上げるのは発想の貧困である。もっとも、口内滞在時間数秒の肉に対するコメントはむずかしいだろうと同情はする。

粒の大きい胡椒と相性がよく、独特の臭みがほんのりあって、噛んでいるうちにアゴがだるくなり、そろそろ飲み込もうとするその前にもう一度喉元で重厚な肉汁を確かめる。アゴも歯もいらない肉との差異も噛みしめる。肉を頬張ったパリとローマの日々、ぼくはテーブルに向かう狩猟民になっていたのかもしれない。以来、ぼくの中では「うまい肉」の価値は確実に変わっている。  

少々の不便との共生

数日前に発明発見の話を書いた。人類の飽くなき便利への歴史。便利の恩恵で自分の生活が成り立っているとつくづく思う。他方、どこまで行けば気がすむのだろうと危惧もする。

ぼくは同年代あるいは次世代の人々の中にあって、間違いなく一つ珍しい不便を受容してきた。自家用車を所有したことがないのである。と言うか、運転免許すら取得していない。これまでの人生のほとんどを公共交通機関の充実した都心部に暮らしてきたことも大きな要因ではある。だが、実は、二十歳になる前から車を必要としない生き方をしようと決意していた。人的な他力依存はともかく、物的な他力依存は極力避けよう、なるべく負荷を背負い込むのはやめようと考えてきた。

どこへ行くにも徒歩か自転車か地下鉄か電車である。こんなとき車があればなあという場面にしょっちゅう出くわした。二十代後半から三十代前半にかけて、遅まきながら免許を取ってみるかと思ったこともある。しかし、耐えた。不便を受け入れた。そして、今に至っている。

その時々に不便を感じてはきたが、今から振り返ってみれば、まったく後悔などしていない。車を持つことによる諸々の気がかり、たとえば駐車場の確保、ガソリン代の高騰、交通渋滞のイライラ、税金・ローン返済などとはまったく無縁でいられたのだ。車にまつわる手かせ足かせがまったくなかった分、ぼくはいろんな趣味に手を染めることができたし、電車の中で本をよく読むことができた。気づきにくいものを徒歩目線で観察することもできた。ライフスタイル的には収支は大幅プラスだと思っている。


身の回りを文明の利器で固めれば固めるほど、身動きが取れなくなる。便利は人間を快適にするかもしれないが、甘えかしもする。甘えれば知恵を使わなくなる。便利が度を越すと、手先も不器用になり、アタマを働かせる出番も少なくなる。

人の暮らしを便利にするために生まれたコンビニエンスストア。その便利なお店は便利な街には存在するが、不便な土地では激減する。便利な自動販売機のおかげで商売人は客とのコミュニケーション機会を放棄した。便利と引き換えに失うものは決して少なくない。

こんなことを思い巡らせていたところ、新商品「手の汚れない納豆」を見つけた。発泡スチロールに収まった納豆と上蓋の間のシートがない。醤油出汁の袋の代わりににこごり状のタレが容器の角のくぼみに入っている。容器を開けて、お箸でタレをつまみ、納豆のほうに移してかき混ぜればよい。手はまったくネバネバにならず納豆を食すことができる。

納豆は食べたい、でも手が汚れるのが嫌な人が多いのだろう。しかし、もはやこれは便利の度を越している。慣れれば、あのシートは中央部分をつまんでくるめれば手を汚さずにすむ。タレも切り口のところに溜まっているのを少し押し下げておいたら、切ってもこぼれない。「いや、そんなにうまくはいかんだろう」と言われるかもしれないが、仮に汚れたからといって何が問題であり不便なのか。濡れフキンでひょいひょいと手を拭けばすむことではないか。

納豆があまり好きでない人にはいいかもしれない(そんな人が、こんなに便利になったからといって突然好きになるとも思えないが……)。さて、ここまで便利に生きてきたわれわれだ。いきなりの大いなる不便はつらいだろう。だが、納豆を食べる際の少々の不便くらいには目をつむるべきだ。手が汚れる不便くらい納豆といっしょに飲み込んでしまえばいい。

もし~がなくなったら……

いま手元にエドワード・デ・ボノ編『発明発見小事典』という、初版が昭和54年の古い本がある。本棚の整理をしていたら見つかった。愛読書というわけではないが、マーケティングの講義で製品事例を取り上げるときに時々参照していた。巻頭で監訳者が、この本の原題にもなっている「ユリーカー!」について書いている。一部だが、そのまま引用してみよう。

「この王冠は純金なのかそれともにせ物なのか」という王の質問にたいし、アルキメデスは、湯ぶねにつかったときからだが浮き上がった瞬間に正解を得たのであった。そのとき彼の叫んだ言葉が「ユリーカー!」である。「わかった」とか「できた」とかいう意味で、アルキメデスは、はだかのまま「ユリーカー! ユリーカー!」と叫びながら王宮にむかって駆け出したという。

水中の物体はその物体が押しのける水の重量だけ軽くなる」という、よくご存知の〈アルキメデスの原理〉の誕生秘話である。これは発明ではなく発見ということになるのだろうか。なお、この「ユリーカー」ということばは、正確に言うと「私はそれを見つけた」という意味で“eureka”と綴られる。発音は諸説あって、「ユリイカ」「ユーリカ」「ユーレカ」をはじめ、そのままローマ字読みする「エウレカ」というのを目にしたこともある。

人類史上最初の発見ではないが、ユニークな発見として語り継がれてきた。その後の発明発見の歴史の華々しさと加速ぶりには目を見張る。ことごとく紹介すればキリがないが、同書のア行の「あ」で始まるものだけで、アイスクリーム、アーチ、圧力釜、編み機、アラビア数字、アルミニウム、安全カミソリ、安全ピンが揃い踏みする。


発明されてから今日に至るまで現存し進化してきたものは何らかの必要性に裏打ちされている。おそらくその他の無数の発明品は需要されなくなり、見向きもされなくなり、やがて消えてしまったのだ。昔はあったけれど今では一般家庭とは無縁になった品々を博物館や古物展などで目にすると、ちょっとしたノスタルジーに浸ってしまう。

ぼくが小学生のとき、祖父は煙管きせるに煙草を詰め、一服しては火鉢の枠をカンカンと叩いて灰を落としていた。その煙管、今では時代劇にのみ小道具として登場し、鉄道の切符の料金をごまかす「キセル」ということばとして残るのみ。切符や定期の電子化にともないキセルという概念も消える運命にあるのだろう。実際、このことばを使って、「それ、何ですか?」と聞かれたことがある。

さて、煙管がまだ日常的であった時代に遡って、うちの祖父らに「もし煙管がなくなったら、どうでしょう?」と尋ねたら、「そりゃ困るよ」と答えたに違いない。徐々に使用頻度が低くなりやがてなくなってしまうのなら困らない。しかし、必要性の絶頂期に毎日使っているモノが忽然と消えてしまっては不便この上ないだろう。

「もし~がなくなったら」と、「~」の部分に愛用品を入れてどうなるかを推測してみる。今この部屋にある携帯電話、PCUSBメモリ、メガネ、壁時計、カレンダー、居酒屋のポイントカード、広辞苑、ペーパーウェイト、のど飴……。すぐ目の前の窓の外には、自動車、コンビニ、ラーメン店、自動販売機、交番、信号、いちじくの木……。なくなったら困るものもあるが、当面少しの不便さえ我慢すれば消失に慣れてしまえそうなものもある。「もし~がなくなったら」と問いかけて、「少し不便だが別に困らないかも」と思えるものを近いうちに身辺から一掃してみようと考えている。

「もし~があったら」という願望を叶えるために発明されてきた文明の利器に感謝を示しつつも、「ユリーカー!」と叫ぶことばかりに躍起になってきた生活スタイルも見直すべき時が来た。なくても困らないものを見直し、少々の不便に寛容になる生き方を学習してみたい。

マンネリズムとの付き合い方

いつの頃からか「継続は力なり」が金言のようにもてはやされるようになった。

何の工夫もなく新鮮味もなく一つのことをずっと続けたって力になんかならない、という皮肉った見方もできる。いやいや、それとは逆に、何の工夫もなく新鮮味もなくひたすら一日のうち小一時間ほど会社と自宅を徒歩で往復すれば、車で通勤する人よりも足腰に力がつくだろうし、ガソリン代を浮かせて年末には手元に小銭を残せるかもしれない。

「継続は力なり」。言い換えれば、「マンネリズムとの共生」である。マンネリズムとは「ある一定のやり方をいつも繰り返すだけで、新鮮味がまったくないこと」。こんな辛いことに専念できること自体、すでに強靭な神経の持ち主であることの証明だ。ある意味で、マンネリズムと仲良しになれる人は「力のある人」かもしれない。

ところが、「石の上にも三年」の辛抱が実ることもあれば、三年も同じところに留まっていては昨今の急速な時代変化に取り残されることもある。「転がる石には苔がつかない」という意味のイギリスの諺 “A rolling stone gathers no moss.” は、古来、日本人の価値観に近い。職業を頻繁に変えたり次から次へと新しい場に活動を求めていたりすると、蓄財はもちろん功績も残せない、という意味だ。

しかし、この諺にはまったく別の解釈もある。「転がっている石ほど苔みたいな変なものはつかない」、つまり「どんどん新しい方面に活動していれば、地に墜ちることはない」というとらえ方だ。


気になることや思いついたことを日々ノートにしてきた。もうかれこれ30年になる。『発想ノート』と題して続けてきた。今の仕事に、日々の着眼に、人との対話に有形無形のプラスになっていると自覚している。まさに「継続は力なり」を思い知る。

しかし、同時に「日々新た」でなければ、ノートをとるという同じ行動を続けることなどできない。執拗なまでにあることを継続するためには、目先を変え新しい情報を取り込み、昨日と違う今日を追い求めていかねばならないのだ。まさにマンネリズムとの格闘でありマンネリズムの打破である。逆説的だが、飽きることを容認しないかぎり、人はひたすら継続することなどできない。そう、飽き性は物事を成し遂げる上で欠かすことのできない「空気穴」なのである。

「継続は力なり」を検証もせずに座右の銘にするのは考えものである。最大級の賛辞で飾ったり金科玉条として崇めたりするのは危険なのだ。継続が惰性になっていては力になるどころか、単なる脱力状態だ。マンネリズムに飽きる――これが継続へのエネルギーであることを忘れてはならない。