🚫ステレオタイプ

ものを考えるのはあくまでも個人的な知的作業。そもそも集団的に同じことを考えるのは無理がある。アイデアを出す時、たとえば5人でいろいろ考えて一つにまとめると、誰の思いや願いでもない案に落ち着きかねない。いいアイデアというのはたいてい誰か一人が考えるのであって、あまり折衷操作が混じらないものだ。

こなもん、串カツ、コテコテ、おばちゃん、通天閣などという、明らかに誇張された大阪らしさは、大阪人全員がよってたかって作り上げたステレオタイプではない。また、異口同音にみんなが一斉に声を上げたわけでもない。マスコミか芸能関係者か、広告代理店だか知らないが、最初は誰かが言い出したのである。そして、自虐と自嘲を了解しながらおもしろがって増幅させていったのである。

大阪らしさを誇張するために、大阪弁がわざとらしく使われることがある。幕張メッセのようなメッセは見本市のことだが、これを「食のマッセ」などのようにダジャレにして名付ける。「商売してまっせ」のまっせをメッセに重ねるのだ。「ええやん大阪」などのスローガンを掲げ、「ミナミは愉快」で済むところをわざわざ「ミナミはおもろい」と言いたがる。ここに行政が乗り掛かる時もある。芸人も素人も何かウケることを言わねばならないという強迫観念に苛まれている。そうして生まれる笑いはナチュラル感に乏しい。


大阪のインフルエンサーが「ヒョウ柄衣装の大阪のおばちゃんを世界遺産に」と本気で唱える。他方、それではいけない、もっと洗練されたイメージに刷新しようというチャレンジャーがいる。しかし、彼らもまた垢抜けしないコテコテの大阪が現状の姿であるととらえてものを考えている。

2017年、ニューヨークタイムズ紙は「今年行くべき世界の場所」の一つに大阪を挙げた。ネオンの看板が水面に映る道頓堀の写真が添えられ、「食を楽しめる街」だと紹介された。大阪通のインフォーマントの情報が提供されたに違いない。しかし、同時期に英国の旅行ガイド出版社も旅すべき世界の10都市の一つに大阪を選んだので、偏見を捨てて冷静に見れば、魅力ある都市として格付けされつつあると言えなくもない。

こういうニュースが流れてからまもなく23年が経つ。この間、海外からの観光客は相変わらず勢いよく押し寄せている。違和感はかなり薄らいだし、数年前に比べればマナーもかなり改善され、観光客のいる光景が日常的に街になじんできた。新しい観光価値を感知している観光客にわざわざ手垢のついたイメージを押し付けることはない。こなもん・コテコテ以外のネタが出ないのは発想力の貧しさにほかならない。

相違・差異について

「見解の相違だ」などと言うけれど、見解はふつう相違するもので、見解が完全一致するほうが珍しい。完全に一致したら不一致点がないわけで、一致・不一致の検証の必要もない。双方が完全一致で了解したらそれでおしまい。

「見解の相違」と言ったきり、ことばを継がないなら見解の相違という見解を示したに過ぎず、その先どこにも行かないし何事も起こらない。議論は、どちらか一方の「見解の相違」という一言で幕引きになる。幕引きするわけにはいかない場合はどうするか。

たとえば、「観光客が増えることはいいことだ」で双方が同意した。次いで、一方が「だからホテルを作らなきゃ」と言えば、「そこはちょっと違うな」と他方が言う。これが見解の相違。折衷の余地がなければ、人間力学の法則によっていずれかの見解を引っ込める。つまり、いずれかの一方的妥協。ちなみに、「見解の相違だな」と先に言った側の顔が立つことが多い。


相違にとって重要なのは、相違を認識してから後である。「だからどうなのか? どうするのか?」と問わないまま、相違をいくらあぶり出しても意味がない。

「温度差がある」が口癖の知人がいた。ご丁寧に「微妙な・・・温度差がある」と言うこともあった。そう言って、ことばを続けたことは一度もなかった。見解の相違と片付けて終わるのと同様、温度差も句点の役割を果たす。

相違も差異も本質的に放置される。「見解の相違」も「温度差がある」もある種の愚痴なのである。

注意書き考

電車に乗り込む。ドアの内側を見ると、たいてい「注意」を促す文字やアイコンのシールが貼ってある。「閉まるドアにご注意ください」というアナウンスを耳にすることもある。これに先立って、「駆け込み乗車はおやめください!」という呼びかけをホームで聞いている。

どの地方の路線だったか忘れたが、電車のドアに「乗降車時には、戸袋に指を引き込まれないように注意してください」という、非常に丁寧に描写された注意喚起のステッカーを見た。この記述に動機づけされて、ついシミュレーションしたくなる者がいないともかぎらない。

社会の隅々に注意書き表示がおびただしい。音声バージョンも氾濫している。注意に加えて「どこどこ駅では何々線に乗りかえよ」や「次の駅では右側の扉が開く」などの説明もするからアナウンスが過剰になる。先日の特急。乗車した駅から次の停車駅までは約10分。最初の56分は間断なく注意と説明とお知らせが告げられた。日本語の他に英語、中国語、韓国語だから、アナウンスはますます長くなる。


オフィスのシュレッダーには「警告」のアイコンがあり、「稼働中は投入口付近に手を近づけないでください。用紙と一緒に手が投入口に引き込まれ、けがの原因になります」と書かれている。これもかなりリアルな描写だ。指先ではなく、いきなり「手」である。これは注意喚起のためと言うよりも、責任回避のための説明文と言うべきか。

自動車の安全運転を促す標語の代表格は「飲んだら乗るな! 乗るなら飲むな!」と「飛び出しに注意!」だろう。昨今、高齢の運転者の過失による悲惨な交通事故が後を絶たない。巻き込まれて亡くなるケースも少なくない。自動車事故の件数、電車やエレベーターやシュレッダーによる事故の比ではない。

車の運転手には「私は殺人装置に乗っている」と自覚させ、なおかつ車には「人を轢き殺すことがありますので、ご注意ください」というステッカーを大きく貼る。電車のドアにしていることを車にしない理由はない。と言ってはみても、健気に注意書きを読みアナウンスに耳をそばだてる人などほとんどいないと思われる。

何々ファースト

最初や1番目を意味するfirst/1st″(ファースト)は形容詞として使われることが多い。「最初」や「1番目」ならはっきりしていそうなものだが、美しいやおいしいなどの他の形容詞同様に、わかりやすそうで実はよくわからない。

″Ladies first″(レディーファースト)という表現が英国で生まれたその昔、対象になるレディーは今のレディーとはまったく違う酷い待遇を受けていた。カナリアがサリン製造現場の捜索に使われたように、レディーは男にとって毒味役の存在だった。危なっかしいことを何でも最初に試させられたのである。

時代が移って現在、レディーファーストは――タテマエとしては――優先すべき存在としてリスペクトするという意味になり、リスクの大きそうな役割は男が受け持つ。だから、レディーに先に行かせたり先に食べさせたりする場面や状況をよくわきまえなくてはいけない。よくエレベーターにレディーを先に乗せる男がいるが、間違いである。エレベーターに乗る時は男が先。エレベーターはボートと同じで「危険な空間」と見なされる。降りる時は、危険地帯から安全地帯へ移動するからレディーファーストになる。


ところで、例の「都民ファースト」はいったい何だったのだろう。まさか都民を毒味役にしようとしたスローガンであるはずはなく、当然一番に考えて優先するということに違いない。それなら、わざわざ代弁してもらうまでもない。政治は国民、都道府県民、市町村民それぞれがファーストであることは自明だ。

つまり、「民主」というニュアンスにほかならない。過去様々な党名が生まれては消えたが、よく目を凝らして見れば、自由民主党にも立憲民主党にも民主が入っている。国民民主党などはくどいほどの念の入れようだ。

ファーストなどはあまり信用しないほうがいいのかもしれない。ファーストに対抗してオンリーワンも一時流行ったが、一見ランキング概念を外したようで、実は優位性を意識している。本質はさほどファーストと変わらない。ちなみに、もっとも適切で意味が明快だったファーストの用法は「四番、ファースト、王」である。

身近なドーピング

ご存じのドーピング(doping)はもともと麻薬の常習を指す。これがスポーツ界で使われると、麻薬を興奮剤として、あるいは禁止薬物を筋肉増強剤などとして使うという意味になる。騙すとか欺くというニュアンスで使われることもある。

自分で摂取しても他人に使わせてもドーピングだが、他人を罠に嵌める目的で他人の飲物などに気づかれずに麻薬を入れることを特に「パラドーピング」という。スポーツ界に限った話ではない。スポーツ界のドーピングにあたる行為は仕事や学業でも日常茶飯事である。スポーツ界なら事件になることが、仕事や学業ではまかり通って見逃される。

仕事のためにスキルアップする、学業や受験のために学習する。いずれにも制限などない。好きなだけやればいい。しかし、インプットしたものをアウトプットする時点でドーピングに似た状況が生まれる。「パクリ」「コピペ」「肩書詐称」「知的財産の濫用」などはある種のドーピングである。


仕事や勉学のドーピングは違法すれすれの「上げ底」にほかならない。力量58に見せかける上げ底は、長く付き合えばやがて化けの皮が剥がれるものだが、ばれないことも珍しくない。ばれなければ、当面の成果を得るには手っ取り早い方法になる。

さて、仕事や勉学のパラドーピングとは何か。他人の足を引っ張ったりステータスを危うくしたりする手段である。仕事ならフェイクの好ましからざる評判を流して他人や他社の信頼をおとしめる。勉学なら、できる生徒がカンニングしたかのように偽装するなどだ。

企業研修を始めた頃に、かなり有名な同業の先生の事務所のスタッフが、「あの講師の指導内容は亜流である」とぼくの研修先に電話したことがある。研修先の担当者がしっかりした人だったので、何が亜流で何が本流か、仮に亜流だとして亜流が本流より劣っている証拠はあるのかと問いただしたらしい。ほどなく電話は切られた。

人間集団の中ではドーピングもパラドーピングも実は日常茶飯事。まともな学びをしてアウトプットしているつもりが、実力の伴わない上げ底になっていたりする。熱心に読みもしていないのに、その本をさも読んだかのように語る特技がぼくにはあるが、今後は気をつけようと思う。

食事中の話題

食事よりも大切だとは思えぬ話のせいで、肝心の料理に集中できないことがある。それどころか、何を口に運んだのかさえ記憶にないという始末。実に情けない。食事の邪魔にならず、料理を盛り上げるにはどんな話がいいのだろうか?

NHK/BSの『コウケンテツの世界幸せゴハン紀行』は気に入っている番組の一つ。昨年暮れに観たのはフランス編だった。パリの食事情から始まり、オーヴェルニュの極上チーズ、ブルターニュの豊かな海の幸を目指す食の旅。

パリっ子の食事情ではポトフが紹介されていた。スープで煮込んだポトフではなく、肉と野菜を皿に盛り、そこに熱々のコンソメスープを注ぐやり方。どうやらこれが定番ポトフらしい。一般家庭での日常的な炊事と食卓のシーン。ポトフを食べ、チーズを味わい、デザートで仕上げる。夫婦が友人を招いてもてなす。今まさに振る舞われた料理で会話が盛り上がる。料理人コウケンテツとテレビ収録を意識しての会話という趣もある。しかし、招かれた客が料理に関心を示しそれを話題にするのは、ホストに対する当然の敬意の表し方なのだ。

食事を楽しみながら、食材や料理やエピソードを語り合う。それで十分、いや、それ以上何を望むのか。特に親疎が入り混じる複数の人たちと共食する場には、食の話がふさわしい。もしホストが料理以外の話を持ち出すなら、それなりに応じればいい。


ホストでもない者が、居合わせるメンバー共通の話題になりそうもない仕事やゴルフの話を延々と続けることがある。あれはタブーだ。しかし、しゃしゃり出て喋られると無視するわけにもいかず、頷かざるをえない。頷けば気が散るので、旨さも半減してしまう。

ぼくはしつこく食を薀蓄する男だと回りの人たちに思われている。食に入っては食に従うというのが流儀というだけで、別に屁理屈をこねているつもりはない。せっかくの集まりで料理の味を満喫できないほど情けないことはない。それなら一人で食べるに限る。「生、お代わり!」と叫ぶたびに話が途切れてしまう飲み放題宴会は特に苦手である。

今出された料理のことに一切触れずに世間話ばかりする、料理の話をしたと思ったら、自分の好みに合わないなどと平気で言う、隣席の人の食事のペースや酒量に合わせない……やむなくこういう人たちと食事をしてきたが、こんな成り行きになりそうな食事会のホスト役をここ数年徐々に減らしてきた。

複数の人たちの波長にきめ細かく合わせる辛抱強さがなくなった。ならば、ホスト役として食事処に案内したり自ら料理を振る舞ったりする時には、生意気を言うようだが、ぼくの流儀に従ってもらうしかない。それが気に入らないのなら、ぼくに誘われても来なければいいだけの話である。雑談や世間話をしたければ、食後に場をカフェかバーに変えてゆっくりやればいい。

食あっての酒だとぼくは思うのだが、料理と食事の場が、たわいもない話とがぶ飲みに主役を奪われてしまったかのようである。飲み過ぎると料理を味わう舌が鈍くなる。飲み放題という宴会スタイルが料理の存在を希薄にしてしまったのは間違いない。

孤独の予行演習

孤独に縛られて身動きが取れないと言う。孤独に苛まれるのが堪えがたく、孤独から脱け出そうとする。しかし、孤独から逃げて人に交わっても、別の縛りが生まれ、身動きが取れなくなることもある。

孤独を回避するために、友人知人との約束で予定表を埋める。そんな男から久しぶりに電話があった。「来週の木曜日、ぽつんと時間が空いたので、食事でもいかが?」と言う。「きみ、空いたら空いたでありがたいじゃないか。たった一人のプライムタイムを存分に味わえばいい」と返した。

人と会わないと孤独感が募るなどというのはでたらめだ。生きているかぎり、人は人と出会うし、人と仕事もしなければならない。かと言って、人間は、生まれてから捕獲されるか死ぬまで動き続けるマグロとは違う。一人にもなるし、立ち止まることもある。立ち止まって一人になる――これを孤独と呼ぶのなら、孤独があるからこそ人との交流にも意味を見い出せる。


誰かとのアポで予定表を埋め尽くすきみ。人と会わないと孤独に陥るきみ。あれこれと口実を作っては、仕事も家庭もそこそこにして、大したわけもなく人に会っては飲み食いして、たわいもない雑談に興じている。きみ、忘年会や新年会などに何十回も顔を出して何かが変わったかい? 

交際の幅に合わせて身の丈を伸び縮みさせてみてもキリがないのだよ。きみのように常日頃頻繁に人に会っている人間がある日突然来なくなったら、みんな心配してくれるだろう。心配されたら孤独感が和らぐとでも言うのかい?

きみも四捨五入したら還暦だ。そろそろシニア美学を身につけないと。気づかれないように徐々に存在感を薄めて、やがて消えてしまうのが理想だ。人間はどうせいつかは一人になる。一人は「独り」に通じる。いや、独りにならずとも、大勢の中にあって無性に孤独感を覚えるのがシニアというものだ。早晩きみにもやってくる。その時のために、敢えて孤独の時間をつくる予行演習が必要なのだよ。

「またご謙遜を……」

まったく個人的な感想を書く。

大上段からの物言いはなるべく避けるほうがいい。しかし、控えめにものを言われるよりはよほどましだと思っている。過剰にへりくだられると対応に困る。その「へりくだり分」を引き算しなければならないからだ。はっきり言ってもらうほうが足し算だけで済むのでありがたい。

婉曲はおしとやかである。棘がなく、穏やかである。露骨は下品だが、抑制には品がある。しかし、相手の遠回しな表現の真意を探らねばならないのは面倒この上ない。会話の核心よりも、余計なことに神経を遣わねばならない。


「私などまだまだ若輩でして……云々」と誰かが言う。若輩などとは十中八九思っていない。そのことが見え見えなのだから、へりくだり効果がない。仮に「若輩者でして」などと謙遜されても、「またご謙遜を」などと返すことはもうしないことに決めた。「そうですか」とことば通り受け止めてスルーする。真に受けられて困るなら、若輩などと言わなければいい。

場にふさわしくないのに、やみくもにへりくだられたり丁寧語を連発されたりすると集中力が途切れる。そこまで低姿勢を取られるとやりとりが不自然になる。ホンネで意味明快に喋ろうとするこちらとの波長が合わなくなる。会話がスムーズに流れなくなるのは、ほとんどの場合、バカ丁寧ゆえだ。丁寧や謙遜は万能のマナーではない。それどころか、肝心の話を空洞化させかねないのである。

オタクと固有名詞

『新明解』ではオタクを次のように定義している。

「趣味などに病的に凝って、ひとり楽しんでいる若者」

「病的に凝って」とはずいぶん思い切ったものだ。それに、必ずしも「ひとり楽しむ」わけでもないだろうし、「若者」だけに限定もしづらい。ちなみに、ぼくの知るオタクには、趣味が深掘りされるのとは対照的に、それ以外の物事の知識の薄さが目立つ。

なお、同じ辞書によると、固有名詞は「そのものを、比較的狭い社会(領域・範囲)に在る他の同類と区別する必要が有る場合に、そのものにつける名前」とある。つまり、居酒屋で二人の熟年が飲んでいるが、一方を他方から区別する時に、ハイボールを飲んでいるのは松田洋介ではなく吉岡辰夫であると姓名を告げる。その時のシルシが固有名詞というわけだ。その対義語は普通名詞。

こんな書名の固有名詞満載の事典がある。

オタクと固有名詞にどんな関係があるのか。オタクはおおむね普通名詞で趣味について語り合うことはない。彼らの会話では固有名詞が縦横無尽に飛び交う。人名であれ地名であれ書名であれ、実名がポンポン出てくる。長いカタカナの名称でも滑舌よろしく言ってのける。オタクとは「固有名詞を頻繁かつ精細に語れる人々」なのである。自分が嵌まっている趣味に関わる名詞を「あれ、それ、これ」などと言わないし、「あのう……」などと口ごもりもしない。


関東に出張した際のこと。朝食のビュッフェ会場で席についた。隣りのテーブルには二十代後半らしき男性二人が座っていた。ぼくが座ってからずっと――そしておそらく座るだいぶ前から――彼らはサッカー談義にのめり込んでいた。話の中身は欧州サッカー。しかし、クロアチア以北・以東の東欧のサッカーという、すこぶるニッチな話なのである。談義と書いたが、話しているのは一方で、相方はうなずいて時々口をはさむ程度だ。

機関銃トークの男性は何十人もの選手の名前をフルネームで語り、合間に移籍金の金額やチームの名前を口にする。代表チームではなく、クラブチームの名である。選手の名前を語る口調はまるで古舘伊知郎、その高速再生ぶりに驚嘆した。これぞオタクの真骨頂。何とかビッチ、何とかスキー、何とかロフ……。滞ることなく固有名詞が連射される会話は、興味があってわかる相手にはたまらないだろう。相方の男の反応を見ていれば、この彼も評論こそしなかったが、かなりのレベルの聞き手に違いない。

欧州の地名や歴史上の人物や料理の名称をぼくが固有名詞で語ったり書いたりすれば、親しいM氏は驚かれる。「カタカナが苦手でとても覚えられない」とおっしゃる。ブラジルサッカーに詳しいそのМ氏と会食した時にたまたまサッカー談義になったことがある。日本代表の話にはほとんど反応しなかったМ氏が、ブラジルサッカーになると、固有名詞が出るわ出るわ。あのビュッフェの男性にひけをとらなかった。オタクの固有名詞の記憶再生力は侮れない。

わかりやすさの限界

根がやさしいことは理解できるし、わかりやすく説明もできる。しかし、本来難しいことやわかりづらいことをわかりやすく説明することには限度がある。いまチンプンカンプンなことが、わずか数分間の説明だけで謎が一気に解けるようにわかるのは稀だ。

難しい話を池上彰がやさしくわかりやすく説明する。ずっとわからなかったことが一瞬にして腑に落ちたとゲストのタレント連中が口を揃える。しかし、時事問題も含めて世界の事象には一朝一夕でわかるようなものはほとんどない。わかるためにはかなりの知識の下地が求められる。


万事が人知を超える難物なのである。わかったという場合、たいていは砂浜に近い海辺の浅瀬に足を踏み入れた程度にすぎない。わかりたいという情熱に突き動かされることは重要だが、わかりやすさを求めているかぎり、どこまで行っても入門程度の理解にとどまる。所詮自己満足なのだ。それどころか、わかりやすさの甘い味を一度覚えてしまうと、その後に遭遇する難しさが増幅することになる。

わかることは大変なことなのだと再認識しよう。もっと言えば、そうやすやすとわかってたまるもんか……他の誰かがわかるようなわかり方に満足してたまるもんか……と意地を張ってみようではないか。一見逆縁のように見えるかもしれないが、そんな姿勢が順縁として学習哲学に反映する。

やさしい説明や実用的にすぐにわかるような方法に手を染めてはいけないのである。近場の水遊びで満足してはいけない。浅瀬でわかっても、少し岸から離れた次の段階ではわからなくなる。理解への道は永遠に大海原をさまよう旅に似ている。大海原の難しさを知れば知るほど、浅瀬のわかりやすさのつまらなさに気づく。