コンセプトと連想力(3)

アイデアと概念のことから話を始めます。すでによく知られている概念と、目新しいアイデアを背負った概念とでは、表現方法を当然変えるべきです。同じ名辞を使うとアイデアの新しさを表現できないからです。前回例に挙げたキャベツは十分になじみのある名前です。キャベツを新しく概念化しようとするなら、表現を言い換えるか修飾語をトッピングするしかありません。すなわち、差異化です。スマホも従来の携帯と差異化するために名付けられました。「パソコン機能を搭載し、高度な通信も可能な携帯電話」というコンセプトを「スマートフォン」とし、言いやすいようにスマホと表現しました。概念イコール名辞の例です。

新約聖書の『ルカによる福音書』に「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」ということばがあります。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、力のある「ボジョレヌーヴォー」が皮袋を張り裂き、皮袋もぶどう酒も失ってしまうという教えです。紀元前の頃、液体を保存する袋は羊やヤギの皮で作られていました。皮は古くなると柔軟性がなくなります。そこに新しいぶどう酒を入れると発酵が進んで破れるのです。ゆえに、新しいぶどう酒は柔軟性のある新しい皮袋に入れよ、というわけです。このエピソードから、新しいアイデアも新しい名辞で包むべきであるという教訓が導けます。せっかくのアイデアやコンセプトも古い名辞で表現されると陳腐だと判断されるでしょう。

名辞は不可欠か? 答える前に一つのシーンを想定しておきます。

ホテルのラウンジでぼくはコーヒーを飲みながら談笑している。少し離れた壁に大きな絵が飾ってある。その絵の作者やタイトルはわからないし、特に気にもならない。BGMが聞えてくる。作曲者も演奏者も題名も不詳のままにして、ぼくは耳を傾けている。今いるこの場所では絵も音楽も匿名的である。知らなくても不安にならない。苛立ちもしない。通り掛かりに出合うポスターの作家やミュージシャンの身元を特に明かしたいと思わないのと同じである。

上記の状況とは裏腹に、原則として名辞が不可欠であると考えています。美術館で絵画を、コンサートで音楽をそれぞれ鑑賞するときも、作者不詳、タイトル不明では居心地が悪くなります。「名実ともに」などと言うように、名辞と名で示される実体は不可分であり、ゆえに名辞は不可欠なのです。『無題』という作品はごろごろありますが、あれは題名です。『題名のない音楽会』も題名。イタリアの画家ジョルジュ・モランディは『静物』と題されたおびただしい作品を描きました。絵を見ないかぎり、題名だけでは自分の他作品や他の画家の作品との差異化はできません。


Red Balloon

パウル・クレーの絵が気に入っていて、十代の頃から展覧会があると足を運んできたし、今も書斎で画集や図録を眺めます。写真は1922年の作品。さて、画家の名前は書きました。作品名はまだ書いていません。今、タイトル不明のまま、この絵画を鑑賞し続けられるでしょうか。見終わった後も、タイトルを認証できないので、誰かに説明するにしても、絵の前に戻って指を差し示しながら「この絵はね……」と言うしかありません。
(この絵の原題は“Roter Ballon”、英語では“Red Balloon”、日本語では『赤い風船』というタイトルです。)

タイトルは作品の一部なのか、作品の一部ではなく単なるインデックスなのか、作品ではないが別物でもない関係の内にある何かなのか……というような捉え方がありえます。タイトルと作品の関係には一筋縄ではいかない命題が潜んでいるのです。佐々木健一著『タイトルの魔力――作品・人名・商品のなまえ学』に、絵画の鑑賞に関しておもしろい視点があります。

教養派とは、絵を見るよりも早く、真先にプレートをのぞき込み、誰が画いた何という絵なのか確かめる。(……)プレートから得られるこれらの知識が、その絵を理解し観賞する上で不可欠のものと考えているからに相違ない。それに対して、審美派は次のようにふるまう。かれ/彼女はプレートには目もくれない。静かに絵だけを見つめ続ける。そして次の絵に移ってゆく。

タイトルと作品は不可分で一心同体であるというのがぼくの考えなので、審美派ではありません。しかし、上記で描かれている教養派とも言い切れない。絵そのものとプレート――タイトル、画家、画材、所蔵美術館、制作年など――の両方を見ますから。絵を見てプレートという場合もあるし、その逆もあります。プレートの情報をすべて読むこともあれば、タイトルしか見ないこともあります。

タイトル不明のまま絵を鑑賞できないのは、名のない食材や料理を口にしづらいのに通じるものがあります。名を教えてもらわない初見の食材、コンセプトを感受できない料理を食べるには覚悟が必要です。その代わり、好き嫌いはないので、名前さえわかれば何でも食べてみせます。けれども、詠み人知らずの和歌や作品名のわからない小説なら拒絶はしません。ことばで紡がれた作品だからです。作品内のことばがタイトルやコンセプトを補うからです。しかし、表象を扱う絵画や音楽にタイトルがないと落ち着きません。勝手に見えてくるビジュアルやたまたま流れてくる旋律は別として、自発的に鑑賞しようとする対象に名辞は不可欠なのです。タイトルは表象的な作品の主題を鑑賞者に伝える、作品と一体となった語り部にほかなりません。

《続く》

コンセプトと連想力(2)

今回と次回のテーマは「コンセプトの創造」。今日はコンセプトと本質の関係、コンセプトと要素の関係についてです。最初に心得ておくべきこと。それは、コンセプトは自然界に存在しないという点です。コンセプトは人によって作られます。「コンセプトの発見」などとよく言いますが、正しく言えば、発見ではなくて創造なのです。

鷹と鷲のコンセプト

たとえば、タカと呼ばれる鳥とワシと呼ばれる鳥がいます。それぞれ漢字一字で「鷹」、「鷲」と書きます。英語でも“hawk”“eagle”を使い分けます。ことばでは区別されていますが、実はタカもワシも「タカ目タカ科」であり、専門家でも個体識別するのは難しいと言われています。

でも、何かが違うから別々の名辞――概念のことばによる表現――を与えたわけでしょう。本には「タカに比べて大型のものをワシと呼ぶ」などと書かれていますが、これこそまさにコンセプトが慣習的に取り決められた証です。鷹狩りはあっても鷲狩りはありません。もしかすると鷹を訓練しているのではなく、狩猟用によく訓練された鳥を鷹と呼んだのかもしれません。中央アジアからアラブ圏ではこれが「ハヤブサ」だったりします。

キャベツ、茄子、玉ねぎ、アスパラガスなどは「畑で作られる、副食となる植物」という共通項を内包しています。このように概括的に基本形態を捉えるのもコンセプトです。そして、このコンセプトの名辞を受け持つのが「野菜」ということば。野菜なので穀物とは概念上区別されています。但し、食べ物と言ってしまうと、野菜も穀物も同じカテゴリーに入ります。ブロッコリー、レタス、カリフラワーはキャベツの仲間です。名辞が違うのでそれぞれに異なったコンセプトを与えているはずです。ちなみに、キャベツだけでもいろいろな定義が可能で、「葉が厚くて大きく、巻いて球状となる」というのもその一つ。これが一般的な辞書の定義ですが、この記述からではお好み焼きに使う千切りのキャベツは連想しづらくなります。


ものの本質がコンセプトになることもありえます。「商品には固有のドラマがある」というレオ・バーネットの言は、見えていなくても商品には独自の本質が内在することを示しています。バーネットは広告業界のカリスマ的存在で、「テーマに没頭し、考え抜き、自分の予感を愛し尊ぶこと」をモットーにして、広告の仕事をコンセプトの掘り起こしと見なしました。「コンセプトを作る」とは本質に近づくことなのです。『新明解国語辞典』で概念の項を見ると、「『…とは何か』ということについての受取り方(を表わす考え)」と説明されています。これも「本質」ということになるのでしょう。

辞典の定義は通念や辞書編纂者の経験・知識に基づくことが多く、大きく変わることはほとんどありません。時々、ものや概念よりも先に辞書の定義が存在していたのではないかと錯覚することがあります。どこかプラトン的な普遍のイデアに似通っています。最初に本質があって、それが現象化しているにすぎないというのがイデア論。これは本末転倒ではないかとヘーゲルなどは反発しました。また、小林秀雄も「美しい花はある、花の美しさというものはない」と言いました。個々の現象とその感じ方はあるけれども、抽象概念はないという意味です。もし「花の美」がイデアのように先に存在していれば、花がその美に合わせて咲いているということになります。

コンセプトは本質的なのですが、普遍的な本質なのではなく、そのつど固有であり、TPOやコンセプトの担い手の主観に応じて変化します。先のキャベツの話に戻ると、たった一つの定義でキャベツのコンセプトを縛ることなどできません。畑で育つキャベツ、段ボールに詰めたキャベツ、スーパーで売られているキャベツ、冷蔵庫に入っているキャベツ、千切りになったお好み焼きのキャベツ、ロール状にして煮込まれたキャベツ……。これらすべてに共通する〈キャベツらしさ〉なるものを一つのコンセプトで言い表わすのは至難の業です。もしそうしようと思えば、結局辞書の定義と同じになってしまいます。

あるもののコンセプトを作るためには、そのものの要素に気づかねばなりません。本の要素、犬の要素、仕事の要素……。要素化とは分解することです。「分ける」は「分かる」です。要素化していく過程で主と副が見えてきます。同時に、分解作業にはリスクが伴い、ともすれば全体特性を見失うことになりかねません。要素が見えれば見えるほど、全体構想できなくなるというのは、ぼくの企画の仕事ではよくあることです。全体はつねに部分の集合以上であり、全体あっての要素であることを忘れてはいけません。

《続く》

コンセプトと連想力(1)

コンセプトと連想力

『コンセプトと連想力』について何回かにわたって話したいと思います。〈コンセプト〉ということばを随所で使います。別の文脈では〈概念〉と言い換えることもあります。まず、その概念という術語についておさらいをしておくことにしましょう。

コンセプト(concept)は動詞”conceive“(考える)から派生したので、やまとことばの「おもひ」と訳してもよかったはずです。あながち外れているわけでもないですから。しかし、コンセプトということばに出合った明治時代の知識人は、「おもひ」では意味にズレが生じると考えたせいでしょうか、あるいは、当時の訳語(love→恋愛、society→社会、nature→自然など)のほとんどが漢字の二字熟語だったからでしょうか、おもひと言い換えずに、中国の古い文献にあった「がい」に注目して「概念」という和製漢語を発案しました。ちなみに、「概」とは粉や穀物を升に入れて計量する際に、升の上に盛り上がった部分をかき落とす棒のことです。なお、conceiveには「はらむ」という意味もあり、現代では「アイデアを宿す」という意味への転用もあります。

概念は哲学で頻出することが多く、決してわかりやすいとは言えませんが、まずまずよくできた翻訳語だと思います。なぜなら、コンセプトには知覚した対象のイメージや属性から性質の違うものを「捨象」し、その代わりに、共通のイメージや属性を「抽象」するという意味があるからです。抽象などと言うと、わかりにくいとか曖昧だと決めつけられがちですが、抽出液などと同じで、元々はいらないものを捨てて必要なものを取り出すという意味です。要素を絞り込むという感じでしょうか。


ジェスチャーをしてもイメージを描いてもコンセプトはなかなか他人には伝わりません。コンセプトはことばによって表現するしかないのです。もっとも、ことばにしても、伝わる保障はありません。いずれにせよ、意識に浮かぶ感覚的なイメージである表象をことばで仕立ててはじめてコンセプトが生まれます。たとえば、「はさみ、鋏、ハサミ」などの文字を見たり耳で“ha-sa-mi”という発音を聞いたりする時、意識に[✂]が浮かびます。この逆に、まず表象として[👓]が浮かぶとき、「めがね、眼鏡、メガネ」などのことばに置き換えます。ことばは音声と文字とイメージを一つにしたコンセプトの表現になっているのです。ポツンと[☁]という図を示されるよりは「雲」と言ってもらうほうが伝わりやすいでしょう。そのコンセプトをどんなふうにイメージ再生するかは、もちろん人それぞれです。

「感性でうけとったものを、知性でとらえなおす。対象を右手から左手へともちかえるようなこのプロセスで〈概念〉が生まれてくる」と中山元は『思考の用語辞典』で述べています。つまり、表象による認識を「感性的」とするなら、表象をことばによって概念化するのが「知性的」と呼べるでしょう。対象を概念として摑むということは、ことばで言い表わすことにほかなりません。

人にはそれぞれの参照体系があります。「知のリファレンス」です。あることを簡潔に言い表わすにあたって――もちろん外部から新たに仕入れることもありますが――まずは、自前のリファレンスを探っていくことになります。コンセプトをどんな表現で包み込もうかと創意工夫する習慣を身につければ、知のリファレンスは活性化し連想力も高まってきます。一つのことばやイメージから連想されることを列挙し要素化して概念を形づくる……表現を縦横無尽に連想する以外に目前の対象や、ひいては現実世界をよく把握するすべは見当たらないのです。

《続く》

問題を解くということ

答えを見つけることができるのは、答えが存在するから。そもそも答えのある問いだったから、答えが見つかったわけだ。そういう答え探しのほとんどは学校時代に終わった。社会に出ると、答えは見つける対象ではなく、思考され創案される対象になる。どこにもない答えを捻り出すことが重要であって、どこかに潜んでいる答えを見つけようなどと意気込んではいけない。調べて見つかるような答えを手にしても、問題解決には何の役にも立たないのだ。何とか検定に受かろうとするのは、基本、学校時代の答え探しの魂胆に同じ。

幸いにして答えを生み出せたとしても、そこで立ち止まっていてはいけない。留まっていると、すでに存在していた答えを見つけたのと同じ結果になる。問い詰めて、そして答えを編み出す――これはゴールではなく、問題解決前のささやかな一つの段階にすぎない。答えは、手に入れた後に「動かす」ことに意味がある。答えによって現状を変えなければならないのである。机上の答えを創造するまでは得意顔してできる人は多い。しかし、答えを現場で動かそうとする人はなかなか出て来ない。

話がややこしくなった。遅まきながら、答えを「方法」に言い換えることにする。方法自体は何も動かさないし何も変化させない。たとえば「問題解決の方法」という記述では、主眼は「問題が解ける」という点であり、決して方法ではない。方法を手にして人は安堵するばかりで、方法を実行することに向かわない。大組織では、実行者である機関車は数えるほどで、編み出した方法を誰かが実行するのを待つ客車が五万とある。客車は自動の力を持たない。


人間には「生得的な欲求がある」と、わざわざマズローの説を持ち出すまでもない。当たり前である。しかし、生得的な欲求が「問題を解決したい」という欲求になるとはかぎらない。人はそれぞれの経験を通じて芽生えてくる欲求のほうに敏感になるものだ。これが「習得的な欲求」である。習得的な欲求の強さこそが問題解決の原動力になる。ぼくたちは自分で選択した環境と用意された環境とが複合する世界に生きている。他の動物同様に、その環境世界の中で生き残り、適合して機能していくために努力する。では、生き残ってうまく機能していくためには何をするべきか。環境から情報を入手しなければならないのである。習得的欲求がこれを下支えする。

問題を解く

環境から情報を入手するのは言うほど簡単ではない。まず、ありとあらゆる情報を集めることはできないし、そんな欲求もないだろう。人は「ある種の情報」だけを求める。しかし、自分が持ち合わせている知識と入手しようとしている情報がまったく同じなら、求める必要性がない。図の[A]のように自分の知識と環境の情報が異なっているからこそ、手に入れる意味がある。ところが、完全に異なっている場合、よほどの強い好奇心や関心がなければ、見向きもしないということが起こりうる。若ければ新しい環境に適応する流動性も持ち合わせているが、加齢とともに衰えてくるのである。こうして知的閉塞が生じる。

保有している知識内に外部情報が取り込まれるためには「大同小異」の関係が前提になる。たとえば[B]のように重なっている状態。自分の知識が環境の情報を「同化」するとともに、情報のほうが知識の一部を「修正」する。知識はこのようにして再構築され、時々の環境で生き残るために役立ってくれる。経験を積むにつれて、人は強い自我で体系を作ろうとするが、それだけでは不十分である。時には自分の知の体系を崩してでも、環境からの情報に「順応」することが絶対になる。経験して獲得した知識をリセットしてはいけない。また、その圏内で止まっていてもいけない。

問題解決とは、以上のような、生き残るための「知と環境の同化・修正による調整作用」にほかならない。そして、それはそのつどの臨機応変が条件であることを意味している。

迂回的に学ぶ

岐路

いつの時代も当面必要なことだけを最短距離で学ぼうとする人たちがいる。ぼくもかつてその一人だったし、今も、やむをえずそういう手っ取り早い学びに時間を割いてしまうことがある。「今すぐ使えるフランス語」などはその類いだ。しかし、原則として間に合わせのハウツーに飛びつくなと自分に言い聞かせ、学びの岐路に立って二つの選択肢があれば、近道よりも遠回りのほうを意識的に選ぶようにしている。迂回的な学びのほうが先々の成果が大きいことを経験的に知っているからである。

二十歳前後から独学本位、しかも雑学好みできたから、学びの過程では寄り道や脱線が多かった。これでいいのだろうかと懐疑したことは一度や二度ではない。しかし、いい歳していつまでも他力を借り、しかも促成的な学びを目的としているのはさもしくて賤しいと思うのである。

『哲学な日々』で野矢茂樹が書いている。理系の学生に哲学を教えているのだが、まじめな学生ほどテーマと直接関係なさそうな話に興味を示さない。彼らはすぐに使えるものを学びたい。役に立つことを学び、それらを積み上げるように知識を脳に入力したいのである。野矢は言う、「分かっていることよりも分かっていないことの方が多いんだ。答えは本の中に書いてあるんじゃない。問いすらも、これから自分でひとつひとつ見つけていかなくちゃいけない」と。

不肖ぼくの企画研修を受けても、企画のハウツーは一部で、ほとんどの時間、受講生は自ら考えなければならないように仕組んでいる。うまく考えられず、実習で成果が出ないと学んだ気にならないだろう。しかし、それでいいのだ。安易に答えに飛びつかず、じっくりと考えた時間が将来実を結ぶのである。

「一生学び続けます」と悟ったようなことを言う人たちがいる。しかし、そう言いながら、自力で学んでなどいない。誰かに誘われて、誰かと一緒に集団で学んでいるにすぎない。学びが、自分で考えないという都合のいい方便になってしまっている。誰かから授けられた目先のハウツーを自分に移植してどうなるものでもないではないか。ハウツーは早々に陳腐化する。所詮、最後には自分で問いを立て、勇気を出して答えを捻り出し、検証しなければならない場面に遭遇する。これが考えるということだ。ハウツーほどの瞬発的威力はないが、長きにわたって様々な効能を発揮する。


学びに際して、足を踏み下ろしている現実を見、これまでの知識と経験を踏まえ、生活の諸々の場面を振り返ってみる。今生きている主体者としての自分の肉体や五感を強く意識する。学びの対象から現実の自分を切り離さない。言い換えれば、学びを自分に肉化させるということだ。自分で学びの対象を決め、ひとまず独学してみる。なぜ「肉化」などという表現を使ったかと言うと、学びが食べるという行為に類比できるからだ。食べ物が自分自身になっていく過程、カロリーに支えられて身体のエネルギーが漲る様子にとてもよく似ている。

昨日のブログ『学問の本趣意は読書のみに非ず』に続いて福沢諭吉の『学問のすゝめ』の十二編を引く。

(精神の)働きを活用して実地に施すには様々の工夫なかるべからず。「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して自分の説をつくることなり。この二箇条にてはもとより未だ学問の方便を尽したりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かって言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽して初めて学問を勉強する人と言うべし。

「ヲブセルウェーション」は“observation”のこと、「リーゾニング」は“reasoning”のこと。観察と類推である。他に、本を読んで知見を身につけなさい、対話をしてその知見を交えなさい、書いたり話したりして知見を広め生かしなさいというようなことを言っている。直截的に言えば、知見を活用してこその学問(学習)というわけである。学ぶことは簡単ではない。手間暇がかかる。インスタントな手法では学習対象のうわべを撫ぜるばかりで、知見構築には決して到らない。ましてや、その知見を活用することなどは望むべくもない。学びは、真正であればあるほど、迂回的にならざるをえないのである。

人工知能と専門性

ぼくのたしなみの一つに将棋がある。二十代の頃にプロに少し教わった短期間を除けば、独習ばかりで実戦経験も多くなく、腕前のほうはたかが知れている。決して強くはないと自覚しているが、まわりにいる将棋好きには負けた記憶がない。今も時々詰将棋や次の一手問題を解いて自己満足している。

最近は無料でダウンロードできる将棋ソフトが何種類もある。決して侮れない。強弱はいろいろあって、初級ソフトには勝てる。中級ソフトだと五分になる。ところが、最強ソフトになると十回のうち1回勝てれば御の字だ。もちろん、ぼくが遊んでいるソフトは、将棋のプロ棋士と互角に戦っているのとは違う。その手の最高峰とは何度対局しても、未来永劫勝てることはないし、惜しいという場面も一度も訪れないだろう。

つい最近、囲碁の人工知能「アルファ碁」が話題になった。人間が将棋で負けても囲碁で負けることはないと言われてきた。なにしろ囲碁の組み合わせは、将棋の何兆倍、いや、数字の単位の名称さえない圧倒的な桁数に到る。ところが、アルファ碁を相手に現役最強とされる韓国の棋士イ・セドルが5局戦い、14敗と惨敗した。これまでの人工知能は膨大なデータを単純計算するだけだった。しかし、囲碁は先の先までの変化を読むだけでは強くなれない。読みを支えるのは大局観である。アルファ碁はこの大局観を身につけた史上初の囲碁ソフトである。人の脳に近いシナプス回路のネットワーク技術を組み込んだという。もし大局観が互角なら、天文学的な手数を読む人工知能が人間よりも強くなるのは必然の結果なのである。

しかし、人の脳のシナプス回路は人工知能の比ではないほど複雑だと言われている。にもかかわらず、この結果になったのはなぜか。以前、人工知能と将棋のプロ棋士が対戦しているのを見て思ったことがある。人間はトイレに立たねばならない。眠くもなり疲れも出てくる。昼食休憩があれば食事もする。一息ついてお茶を飲む。将棋に専念しているようでも、諸々の雑用や人間関係や明日のことを吹っ切ることはできない。昨日読んだ本の一節も浮かぶかもしれない。ところが、人工知能のほうは一切の雑念とは無縁。当面の対局に完璧に集中できる。ただ一つの専門テーマに「全脳」を使い果たし、無関係なことには見向きもしない。


雑多なことが頭をよぎり、あれもこれもと考えてしまうのが人間らしい。日常生活も仕事も本来そういうものではないか。ところが、企業では専門性が加速している。専門性は、社会がグローバル化し多様化し複雑化する現象に対応する上で、必要不可欠な分化現象なのだろう。だが、その見返りとして、人工知能が人まねで身につけた大局観、つまり、全体を構想したり知を統合したりする人間固有の資質を犠牲にしてしまった。人間社会の専門性の様子と人工知能の方向性を並列的に眺めてみれば、あることが見えてくる――一見高度に思えるビジネスや研究分野の専門性は、その道一途であればあるほど、人工知能で代替されてしまうのではないかという点だ。専門性プラス構想力の人工知能に軍配が上がる日はそう遠くはないと思われる。

専門性の危うさはジリアン・テットの近著『サイロ・エフェクト』の主題でもある。まぐさを発酵させたり農産物を貯蔵するあのサイロは、「縦割り」を思わせる建造物だ。「窓がなく周囲が見えない状態」を暗示する。専門性と言えば聞こえはいいが、一点集中の危うさをつねに秘めている。他分野に目配りせず、専門分野だけを扱っていれば、個性が色濃くない人から順に消えていくだろう。たとえば、テキストを棒読みするような教師。それを専門家と呼ぶなら、eラーニングを高度化した人工知能を持つロボット教師のほうがよほどいい。ついでに、そのロボットにユーモアセンスが備われば、教壇に上がるのが人間でなければならない理由はなくなる。

知層と知圏

人工知能を使いこなす側に立つか、それとも人工知能に代替されない人間固有の能力を発揮するか……これが人の生きる道の二つの選択肢になりそうだ。しかし、前者の人は下剋上に怯えて生きるだろう。近い将来、仕事人としての出番を確保するには、人工知能に「この人間にはかなわない」と思わせるしかない。そのためには、膨大な専門知識をサイロ内に縦に格納するような〈知層〉の発想を放棄し、構想力や統合力に支えられた広がりのある〈知圏〉を生かすことである。人工知能よりも複雑だとされる脳のシナプスを生かすことに活路を見出すべきだろう。

揺るぎないブランド

久しぶりにイタリアのことから話を始めることにする。これまでイタリアには5度旅している。ミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ、ボローニャでは同じ宿に3連泊から7連泊した。滞在中、ミラノからベルガモへ、フィレンツェからルッカ、ピサ、シエナ、サンジミニャーノ、アレッツォへ、ローマからオルヴィエートへ、ボローニャからフェッラーラへ、それぞれ日帰り旅行した。訪れた街は25を数える。

ほぼすべての街が古代から中世イタリアの面影を色濃く残している。もちろん街は現代の機能を併せ持ちながら個性的な佇まいを見せる。そこには日常の暮らしと生業なりわいがあり、同時に遺産の数々が観光客を魅了してやまない。日常の生活とハレの観光が釣り合う背景には、歴史的都市を保持する行政の、市民の、並々ならぬ尽力が窺える。

昨今よく話題になるブランディングとは違う。ブランディングにはブランド認知に弱いものを促成する意味合いが強いが、イタリアの都市ブランドは長い歴史の中で培われてきた。戦略が意図されたわけではない。市民の暮らしにとって、旅人にとって、街がつねにア・プリオリな存在であり、あたかも本能的な営みによってブランドが形成されてきたと言わざるをえない。

PISAみやげ

コロッセオに代表される古代を脳裏に甦らせるローマ……ルネサンスの栄華が随所で輝くフィレンツェ……いずれも揺るぎない複合的・多面的な価値によってブランドを誇示している。他方、単一的な価値でブランドを築いた都市がある。その最たる例がピサだろう。なにしろ、傾いた塔一基だけで有名になってしまったのだから。バス通りからピサの斜塔を眺めた。いや、自然に目に入ってきた。ふつうに考えれば大聖堂あっての塔のはずである。しかし、斜に構えた塔がドゥオーモ広場の主役として君臨する。それどころか、ピサは「斜塔の街」というブランドで他都市との差異を明確にしてきた。


モノだけがブランドというわけでもない。名称やシンボルやデザインの表現も、他との差異によってブランド価値を得る。違いを認知できる第一の条件は「即時的なわかりやすさ」にほかならない。何が違うのだろうかと考えた挙句気づくようなものはブランドたりえない。先に書いたように、おざなりに取って付けたようなブランディング戦略では功を奏さないのである。年月をかけて醸成させてこそのブランドなのだから。ブランドとは信用であり、歴史――ひいては、その継続――であり、愛着であり、起源や由来であり、印や記号である。最後の印や記号は、英語の“brand”の原義である「焼き印」が牛の個体識別や所有者認証に用いられたように、消せないし焼き直せないし、おいそれと変えてはいけないのである。

新しさを求めたり流行に目がくらんだりして変化を常態化するようなブランディングなどありえない。ブランドの資格の絶対条件は保守性であり、大きく変わらないことを前提とする。ビジネスの市場適応に関しては必ずしも当てはまらないが、都市ブランドにおいては時代に流されない、愚直なまでの不変が不可欠だ。中世の頃に描かれたフィレンツェのシニョリーア広場の絵葉書を見て、ぼくが撮影した8年前の写真とほとんど同じであることに気づく。馬車と歩く人々の衣装以外は何も変わらない。泊まったホテルもダ・ヴィンチやマキャベリが生きた頃の建物だった。過去と現代を両立させるエネルギーと辛抱強さには舌を巻く。

最先端の機能だけを備えた都市にいつまでも見惚れることはない。都市の景観、生活の魅力は絵の構図に似ている。何百年の歴史が色塗られた後景が主役であり、そこに現代という脇役の前景が重なるのがいい。この構図だからこそ時間と空間の関係が理に適う。そのような街で差異を、落ち着きを、居心地のよさを実感する。現代も未来も可変しやすい。しかし、可変要素によって基盤が揺らいではならない。都市のキャンバスをそっくり変えてはいけないし、変えてしまって可変光景ばかりになってしまっては、訪れるに値しなくなる。そんな街はどこにでもあるのだから。

関係と比較

ある物事から他の物事との関係を外してしまうと、個として立ち現れるのが不可能と思われる。たとえば、りんごという果物は単体でも認識できるが、他の果物と比較すれば認識の質も深さも変わるはず。もの、概念、人にも同じことが言える。関係づけたり比較してみたりして、あるもの、ある概念、ある人の意味が際立ってくる。

ものどうし、概念どうし、人どうし……いずれの間にも関係がありうる。企画や編集の仕事にあたって関係をどのように認識しているかあらためて考えてみると、そこには「配置のイメージ」が重要な役割を果たしていることに気づく。手紙を書こうとすれば、机上のペンケースに収まっている万年筆と椅子の後ろに並べてあるインク瓶が近づく。万年筆はインクによって、インクは万年筆によって、それぞれの認識が深まる。「左右」という概念を考えるとき、岐路に立つ自分がいて左右の方向感覚をイメージとして認知しようとしている。左だけを想像することはできない。左右をセットにするほうが左も右もよく見える。

自分と他人の関係では二人が登場する。ある人物と自分が配置されるとき、その人物のことだけや自分のことだけを分析するよりも、自分のこともその人物のこともずっとよくわかるものだ。異なる二人を並べてみてはじめて、類似なり関連性なりがあぶり出されてくる。〈差異と類似のネットワーク〉によって、ぼくたちは個々のもの、概念、人についての理解を深めるように思われる。


概念の関係図

「もっと深く考えよ」とよく言われてきたが、他のものと比較もせず配置関係も想像せずに、深さを追求することはできそうにない。仮にできたとしても、それを他者に説明するにはかなりの描写力を必要とする。池そのものをどれほど深く考えても限界がある。しかし、海、川、湖、沼、潟などを配置させて比較してみればどうか。固有の概念の深掘りよりも関係の広がりのほうが、池そのものが浮き彫りになってくるのがわかる。

今日の昼前、年越しそばの待ち時間に『ミケランジェロ』(木下長宏)の序章を読んでいた。序章のタイトルは「ミケランジェロとレオナルド」であるが、レオナルド・ダ・ヴィンチから始まり延々とレオナルド・ダ・ヴィンチの話が続く。これはレオナルド・ダ・ヴィンチについて書かれた本ではないのかと思ったほど。しかし、序章を読み終えて、著者を責める気にならない。レオナルド・ダ・ヴィンチとの比較において、23歳年少のミケランジェロ・ブォナローティの存在がいっそう際立ってくるからである。

日本人だけを語る日本人論、日本文化だけを語る日本文化論に出合ったことはない。他国人との比較、他国の文化との関係においてはじめて語りうるテーマである。いや、こうしたテーマだけに限らない。すべてのもの、概念、人は「関係的存在」なのである。

諺に「下手があるので上手が知れる」というのがある。優劣は比較してわかる。下手のお陰で上手の程度がわかる。ある一つの物事だけを目の前に置かれて評価するのは難しい。ところで、いつもの蕎麦屋の年越しそばは今年もうまかった。下手とは勝負にならないレベルだが、並み居る競合店相手に勝ち抜いてきたのは、常連客が他店の味との比較をしている結果にほかならない。ぼくがこの蕎麦屋のそばの味について誰かに語るとき、これまで立ち寄った他店の味を思い浮かべている。

紙にこだわる

先日実施した研修にプチディベートの実習を取り入れた。論題は「電子書籍は有益である」。争点はいろいろ出たが、残念ながら、電子書籍と紙の本とを鋭く対比させた議論は聞けなかった。電子書籍有益論を唱える側の主張は、「紙の浪費は環境によろしくない」、「いつでもどこでも大量の本が手軽に読める」という二つの論点に集中した。4試合のディベートに耳を傾けながら、慣れ親しんできた紙の書物のこと、さらには紙そのものが担ってきた知や文化のことを思い巡らしていた。

電子書籍がさらに普及すれば、僧侶はスマホやタブレットの画面をスワイプしながら般若心経を唱えるのだろうか。いや、お坊さんはお経を暗唱しているから、電子であれ紙であれ経典がなくても大丈夫。では、教会ではどうか。牧師はタブレットの新約聖書を見ながら「ヨハネの福音書第5章……」などと言い、集まった信者たちは、手垢のついた革表紙の聖書ではなく、スマホで参照するようになるのだろうか。ちょっと想像しづらい。一般的には、TPOに応じて電子と紙を使い分けて本を読めばいいと思う。

ただ、ぼくに関して言えば、無料で何冊かの小説をダウンロードしたものの、ろくに覗きもしていない。いつぞやカフカの『変身』をiBookで読みかけて途中でやめた。若き頃に紙を繰りながら読んだ感覚とはほど遠く、読書の味わいをまったく感じなかった。自宅書斎に数千冊の本を所蔵しているが、置き場のやりくりに困惑し床が抜けないかと不安になりながらも、ぼくはこれから先、電子書籍ではなく、紙の本を読み続けるはずである。

絵をよく描いた頃、絵具よりも紙にこだわった記憶がある。手習いのほうは、半紙を師範が使っているものに変えただけで字が格段に変わった。無料の雑誌を手にしたら、記事を読む前にページの手触りを感じている。当社の名刺をデザインした時も、文字やレイアウトやインクを云々する前に、まず紙を選んだ。気に入ったものに出合うまで探していたらフランス製の紙に辿り着いた次第。どんなに値の張る万年筆を手にしても、それ自体の書き味を品評することはできない。インクが重要。そして、インク以上に書き味を決定づけるのが紙である。もっと言えば、紙さえよければ100円の水性ボールペンでも10万円もするモンブランでも書き心地に納得がいく。


紙業は昨今全般的に苦戦しているので、80年代、90年代の頃のように豪華な見本帳を大盤振る舞いしてくれなくなった。それでも、仕事柄、当社には紙の見本帳がまだかなりある。見て手触りを確かめるだけでも楽しいものだ。自宅ではスケッチ帳やポストカードサイズの用紙、画用紙が収納スペースの一角を占めている。整理整頓するたびにどれだけ紙好きなのかと呆れるが、かさばるという理由だけで白紙のまま処分する気にはなれない。

知的生活という粋な表現はぼくにふさわしくないけれど、リテラシーの基本は30数年間ずっと手書きノートであり、それを発想の出発点にしてきた。最近では万年筆や水性ボールペンと相性のよさそうな紙を見つけてきては、試行錯誤している。今年の年頭から二十年ほど前に使っていたシステム手帳を復活させた。ITが加速する今となってはクラシックスタイルかもしれない。バイブルサイズの6穴ノート。補充するリフィルは安直に百均で買うこともあるが、厚口の上、紙質ももう一つ。まったく気に入ってはいない。そこで、広島の知り合いの洋紙専門家のT氏に相談した。「薄口で丈夫で万年筆の書き味がよく、しかも裏写りしにくい紙」という厚かましい条件を出してみた。オリジナルで作ることもやぶさかではないと付け加えた。

6穴リフィル

見積書によると、上記の条件の紙を6穴バイブルサイズに断裁して12,000枚作れば1枚あたり2.8円。悪くない。しかし、一年に400枚使っても30年分になる。いかにノートマニアと言えども30年先までの在庫を抱える気にはなれない。三、四人で共同購入するのが賢明だが、あいにく周囲にこの仕様のノートを使っている人は見当たらない。

思案していたら、T氏から郵便が届いた。「わざわざ作らなくても市販でいいのを見つけた、100枚単位で買え、しかも1枚あたり3.45円」というメッセージとともに、親切なことにサンプルも同封してくれていた。薄い! かぎりなく辞書の紙に近い感触。システム手帳に現在綴じている枚数の2倍近くは収められそうだ。これから二、三ヵ月間試してみることにする。紙にわくわくしている自分がいる。紙にはこだわるだけの値打ちがある。紙を侮ってはいけない。

知をまとめる

今日は珍しくほとんどもの言わぬ一日だった。原稿用紙にして10枚分くらいの以前書いた文章を元にして、新たに15枚分ほど書き下ろして編集する作業に没頭していた。経験のあるテーマだから書くのにさほど苦労はしなかったが、まとめるのに手間取った。つくづく思うのだが、まとめるという仕事は一筋縄ではいかない。それは、部品を単純に組み立てるのとは違う。部分の足し算では済まないのである。

漢字一文字で「知」と現わせば、知識以外の知的要素が含まれるような気がする。「きみの知識は……」と言うのと「きみの知は……」と言うのとでは暗示されるものが違うだろう。したがって、「知をまとめる」というのは知識を束ねるだけに止まらない。そこには概念化があり要素化があり適正配列がありカテゴリー化があり相互参照がある。うまく言えないが、俯瞰的に見晴らすようなネットワーキング作業が求められる。

フランシス・ベーコンが「知は力なり」と書いたとき、ラテン語では“Scientia”だったから、明らかに「知識」のことだった。もっとも知識だからと言って断片とはかぎらない。部分を寄せ集めた全体はつねに部分の総和以上だからである。あることについて知っている。別のことについても知っている。この二つを統合したらそれぞれの知以上に理解が深まる可能性はあるだろう。だからこそ、知の編集に意味がある。

ところで、ショーペンハウエルがベーコンに異議を唱えている――「知は力なり。とんでもない。きわめて多くの知識を身につけていても、少しも力を持たない人もいるし、逆に、なけなしの知識しかなくても、最高の力を発揮する人もいる」。残念ながら、ショーペンハウエルの反論は空を切っている。なぜなら、なけなしの知識ですごい力が発揮できるのなら、それこそ「知は力なり」の何よりの証拠だからだ。


ほとんどの事の始まりや話の始まりは、導入自体としてはシンプルだ。誰かが「何々の件で……」と言い出す時点では、内容がわかるはずもなく、反応も気楽である。ところが、話が本題に近づいてくると何となく骨太なことに気づく。それは樹木にたとえたら幹のようなものである。幹では理解不十分だから枝葉の情報を求める。その枝葉で分かるつもりが、思いのほかおびただしく、また多岐にわたっているので、統合しきれなくなり途方に暮れる。話が果実や根に広がってしまえばもうどうにもならない。最初の「何々の件ってもっと簡単じゃなかったのか……」という思いがよぎる。

知ろうと思えば情報や知識が増える。分かろうと努めた結果、逆に話が複雑になり混沌とし、知の洪水から逃げ出したくなる。情報や企画や戦略を「まとめて欲しい」という仕事の依頼をよく受けるが、まとめるというのは依頼者が想像するほど簡単な仕事ではない。気が付けば、同輩にも後輩にも難しい話や複雑な話に首を突っ込むのを嫌がる者が増えてきた。歳のせいばかりではないだろう。知識を身につけることよりも、身につけた知識をまとめて活用するほうが実は厄介なのである。まとめるほどの知識がない人間のほうが、だからお気楽なのだ。

推論

さっき書き終えた文章は論理の話であった。論理的に考えるということも知のまとめ作業とほとんど同じである。前提1という知識と前提2という知識を踏まえて(まとめて)、個々の知からは出てこない結論を導くからだ。知識は一個の断片としては大したものではない。むしろ、そんなものに拘泥していては衒学的趣味の域を出ない。知は広がりを得て、また統合によって役に立つようになる。しかし、「知は力なり」だ。力には功罪がある。力を善用するには知を律することを忘れてはならない。