アイデアと概念のことから話を始めます。すでによく知られている概念と、目新しいアイデアを背負った概念とでは、表現方法を当然変えるべきです。同じ名辞を使うとアイデアの新しさを表現できないからです。前回例に挙げたキャベツは十分になじみのある名前です。キャベツを新しく概念化しようとするなら、表現を言い換えるか修飾語をトッピングするしかありません。すなわち、差異化です。スマホも従来の携帯と差異化するために名付けられました。「パソコン機能を搭載し、高度な通信も可能な携帯電話」というコンセプトを「スマートフォン」とし、言いやすいようにスマホと表現しました。概念イコール名辞の例です。
新約聖書の『ルカによる福音書』に「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」ということばがあります。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、力のある「ボジョレヌーヴォー」が皮袋を張り裂き、皮袋もぶどう酒も失ってしまうという教えです。紀元前の頃、液体を保存する袋は羊やヤギの皮で作られていました。皮は古くなると柔軟性がなくなります。そこに新しいぶどう酒を入れると発酵が進んで破れるのです。ゆえに、新しいぶどう酒は柔軟性のある新しい皮袋に入れよ、というわけです。このエピソードから、新しいアイデアも新しい名辞で包むべきであるという教訓が導けます。せっかくのアイデアやコンセプトも古い名辞で表現されると陳腐だと判断されるでしょう。
名辞は不可欠か? 答える前に一つのシーンを想定しておきます。
ホテルのラウンジでぼくはコーヒーを飲みながら談笑している。少し離れた壁に大きな絵が飾ってある。その絵の作者やタイトルはわからないし、特に気にもならない。BGMが聞えてくる。作曲者も演奏者も題名も不詳のままにして、ぼくは耳を傾けている。今いるこの場所では絵も音楽も匿名的である。知らなくても不安にならない。苛立ちもしない。通り掛かりに出合うポスターの作家やミュージシャンの身元を特に明かしたいと思わないのと同じである。
上記の状況とは裏腹に、原則として名辞が不可欠であると考えています。美術館で絵画を、コンサートで音楽をそれぞれ鑑賞するときも、作者不詳、タイトル不明では居心地が悪くなります。「名実ともに」などと言うように、名辞と名で示される実体は不可分であり、ゆえに名辞は不可欠なのです。『無題』という作品はごろごろありますが、あれは題名です。『題名のない音楽会』も題名。イタリアの画家ジョルジュ・モランディは『静物』と題されたおびただしい作品を描きました。絵を見ないかぎり、題名だけでは自分の他作品や他の画家の作品との差異化はできません。
パウル・クレーの絵が気に入っていて、十代の頃から展覧会があると足を運んできたし、今も書斎で画集や図録を眺めます。写真は1922年の作品。さて、画家の名前は書きました。作品名はまだ書いていません。今、タイトル不明のまま、この絵画を鑑賞し続けられるでしょうか。見終わった後も、タイトルを認証できないので、誰かに説明するにしても、絵の前に戻って指を差し示しながら「この絵はね……」と言うしかありません。
(この絵の原題は“Roter Ballon”、英語では“Red Balloon”、日本語では『赤い風船』というタイトルです。)
タイトルは作品の一部なのか、作品の一部ではなく単なるインデックスなのか、作品ではないが別物でもない関係の内にある何かなのか……というような捉え方がありえます。タイトルと作品の関係には一筋縄ではいかない命題が潜んでいるのです。佐々木健一著『タイトルの魔力――作品・人名・商品のなまえ学』に、絵画の鑑賞に関しておもしろい視点があります。
教養派とは、絵を見るよりも早く、真先にプレートをのぞき込み、誰が画いた何という絵なのか確かめる。(……)プレートから得られるこれらの知識が、その絵を理解し観賞する上で不可欠のものと考えているからに相違ない。それに対して、審美派は次のようにふるまう。かれ/彼女はプレートには目もくれない。静かに絵だけを見つめ続ける。そして次の絵に移ってゆく。
タイトルと作品は不可分で一心同体であるというのがぼくの考えなので、審美派ではありません。しかし、上記で描かれている教養派とも言い切れない。絵そのものとプレート――タイトル、画家、画材、所蔵美術館、制作年など――の両方を見ますから。絵を見てプレートという場合もあるし、その逆もあります。プレートの情報をすべて読むこともあれば、タイトルしか見ないこともあります。
タイトル不明のまま絵を鑑賞できないのは、名のない食材や料理を口にしづらいのに通じるものがあります。名を教えてもらわない初見の食材、コンセプトを感受できない料理を食べるには覚悟が必要です。その代わり、好き嫌いはないので、名前さえわかれば何でも食べてみせます。けれども、詠み人知らずの和歌や作品名のわからない小説なら拒絶はしません。ことばで紡がれた作品だからです。作品内のことばがタイトルやコンセプトを補うからです。しかし、表象を扱う絵画や音楽にタイトルがないと落ち着きません。勝手に見えてくるビジュアルやたまたま流れてくる旋律は別として、自発的に鑑賞しようとする対象に名辞は不可欠なのです。タイトルは表象的な作品の主題を鑑賞者に伝える、作品と一体となった語り部にほかなりません。
《続く》