テーマのコラージュ

絵が描かれた板に願い事を書くのが「絵馬」。首尾よく願いが叶ったら感謝の気持ちを込めて再び絵馬を奉納する。願いとはある種のテーマ。いくつかの主題をラベルに書いてみた。

大それた決意表明ではない。紋章的な標語であり、欲張りな関心の方向性を示しているにすぎない。アンテナを立てておけば、テーマについてあれこれと思いが巡ってくれ、それが刺激になって雑文の一つも書くようになり、誰かをつかまえて語ってみたくなる。


【考える】 物事を知るだけでは役に立たない。誰もがクイズ大会に出場するわけではないのだから。知識を身につけてわかることと考えてわかることの間には埋めようのない隔たりがある。

【観察】 観察イコール客観的? いや、偏見のない観察などありえない。観察は観察者の主観でまみれている。固有の体験だからである。それで何か困ることが起こるわけではない。

【風景】 目の前に広がる光景や景色は、しばらく眺めているうちに風景と化す。風景は人間の想像の産物だ。自然は人の存在と無関係に存在するが、風景は人の認識によってはじめて姿を現す。

【にっぽん】 日本史なら「にほん」。日本郵便は「にっぽん」であり、切手には“NIPPON”と印刷されている。「頑張れ、にほん!」では頼りない。元気を出すには「にっぽん」でなければならない。

【都市】 都市は現実であり幻想である。人は都市に生きながら、都市が内包する幻想に振り回される。万華鏡のように都市をくるくる回せば形が変わる。構築とカオス、希望と絶望、活気と倦怠……。

【物語】 人の生き方、諸々の事柄を語ることによって様々な物語が生まれた。虚構も脚色もいらない。ただ人について、人を取り巻くものについて、手を加えずに語るだけで物語になる。

【食卓】 食卓はもはやテーブルを意味しない。テーブルならテーブルと言えば済む。食卓は食事や食文化のことである。食卓を囲むとは一緒に食べること。ただテーブルに就くだけではない。

【本棚】 読んだ本を並べても、読まない本を蔵書として保管しても、本棚は本棚。一列一段でも五列五段でも本棚は本棚。背表紙をこちらに向けて本棚に並べたくなる本がある。

【生きる】 どこまで行っても生きるとは現実である。この現実に直面するかぎり、他のテーマが――仮にどうでもよさそうに見えるものでも――意味を持ち始めるのだろう。

【珈琲】 自分の生活シーンから消えてしまうことを想像できないものがある。たとえば珈琲がそれだ。これがなくなると、生き方や考え方をかなり大幅に変えなければならなくなる。

【仕事】 公的な仕事などと言うが、結局のところ仕事は「私事」である。仕事というものは、欲しい時には出てこず、もう十分と思う時に入ってくる。だから欲しいなどと願わないのがいい。

【世界】 部屋に閉じこもっても、外国を旅しても、書物で知識を得ても、世界は見えそうで見えず、ありそうでなさそうな、きわめて個人的な都合が切り取る概念である。

【知性】 知性的であろうとなかろうと、人間の差はさほど大きくないと思われる。知性は目立たないのだ。しかし、「反知性」という流れに向き合う時、知性の差がはっきりと現れてくる。

【遊び】 人類は慰みの遊び、戯れの遊びを十分にやり尽くしてきた。しかし、生き方をスムーズかつ緩やかにする余裕としての遊びの境地に到る人は少ない。機械にはそれができている。

【響き】 「打てば響く」という反応的行動は欠くべからざるコモンセンスである。響かないのは、責任を――とりわけコミュニケーション上の責任を――果たしていないということになる。

【言語】 人間のみが唯一言語的な動物である。言語を通さずには何も認識できない。だから、それを捨てて悟るのか、言語的に生きるのかをはっきりと決めるべきなのだ。

【暮らし】 どんなにだらだらと日々を送っても、どんなに生き生きと毎日を楽しんでも、暮らしから逃れることはできない。仕事に飽きても暮らしに飽きることはできない。暮らしは陳腐化しない。

【笑い】 元気になる、励まされるという理由で無理に笑うことはない。笑いのハードルは泣きのハードルよりも高いのだ。ここぞと言う時の笑いのために、常日頃大声で高笑いするのは控えるべきだろう。

偶然とたまたま

「偶然がわれわれの行動の半分以上を支配し、その残りを我々が操る」と言ったのは、君主論のマキャヴェリである。意味を理解するのは容易ではない。昨日、かねてから決まっていた研修のために奈良へ赴き、講義をして帰ってきた。あの一連の行動は、どう考えても、依頼者とぼくとで操っていたと思われるのだが、マキャヴェリによれば、そうではなさそうなのだ。では、行動の半分以上を支配していたかもしれない偶然とは何だったのか。今朝じっくり振り返ってみたが、思い当たるふしはなかった。

人生に関わる運命的な偶然はさておき、本来偶然などと呼ぶにふさわしくない事態や出来事が偶然を装って立ち現れ、ぼくたちに偶然だと言わしめる。日常語で「たまたま」と言えば済むのに、仰々しく「偶然」と言ってしまった瞬間、そこに意味づけしたくなるのが人の習性。ちなみに、たまたまは「偶々」と書くから偶然の一種なのだろう。めったに起こらないことが起こる。めったに起こらないけれど、確率的には起こるのであるから不思議でも何でもない。不思議なのは起こるはずのないことが起こることのほうではないか。


思い当たるふしはないと書いたが、一つ思い出した。昨日の行動をまったく支配したとは思えない、たまたまの出会いがそれだ。早い時間に奈良に着き、喫茶店に入って少しくつろいだ。時間を見計らってタクシー乗り場に向かった。一台だけ停まっているタクシーに乗り込み、行き先を告げた。運転手が怪訝な顔をして振り向いたので、行き先を言い間違えたことに気づいた。即座に言い直して了解してもらった瞬間、目と目が合ってお互いに「ハッ」という表情になった。

実は10月の初旬にも研修でここに来ていた。その折りに乗車したタクシーの運転手だったのである。タクシーはよく利用するが、運転手の顔はまず覚えない。しかし、前回乗車した時、観光や民泊などの話をかなり突っ込んでヒアリングし、その運転手がしっかりと受け答えしてくれた。外国人観光客が増えたので英語も学び、ホテルや民泊の一覧表を自分で作って活用していると、その紙も見せてくれたのである。だから、強く印象に残っていた。

10月に乗りましたよねぇ」と言えば、「ええ、講師で指導されているのですよね」と、彼も覚えていたのである。今年、奈良への出講はその10月と今回の11月のみ。二度来て、会場への往路を送り届けてくれたのが同じ運転手というのは、めったにあるものではない。しかし、これを偶然と呼ぶのは大仰すぎる。別の運転手でも、ぼくの一日の予定の行動は変わらなかったはずである。だから、軽やかに「たまたま」と片付けるほどのことだろう。しかし、めったにいない好青年であった。気分の悪いはずがない。よい研修ができたと自画自賛しているが、そこに、半分以上ではないが、偶然が行動をほんの少し支配したかもしれない。

「我々の行動の大半は我々自身が操っているが、ほんの少しだけ偶然が行動を支配することがある」。

知の編集➎ 発想を促す編集

他人との縁に自分のアンテナがピピッと動く時、そこから関心が芽生えるはずである。情報との出合いは人との縁によく似ている。情報にドキッとし、おもしろいとか不思議だとか感じることがある。そんな情報を流し読みするのはもったいない。その内容や背景に少し立ち入ってみるのだ。このような一手間の繰り返しが情報感受性を研ぎ澄ましてくれる。〔注1

情報に反応する感受性と、不在や不足に気づく感受性がある。「ないもの」は「あるもの」よりも圧倒的に多いのだが、ぼくたちは顕在化するものだけを見て取ろうとする。そこにないもの、見えないもの、あるはずなのに潜んでいるものにも目配りしてみたい。

1 仏教用語に「感応道交かんのうどうこう」という熟語がある。「仏の働きかけと、それを感じ取る人の心とが通じ相交わること」を意味する。外部情報と自分の知識がまるで意気投合するかのように発想が膨らむ。この感応という働きは理屈ではない。外界からの刺激によって心やアタマが深く感じ入って動くことである。

誰かと同じ発想はいらない  十人のそれぞれが別々の考え方や個性を有していることを「十人十色」という。これに対して「十人一色」になると、十人が十人とも同じ発想をしていることになる。一人の発想で十分なところに十人が集まっているわけだ。これは組織としてはムダである。人数分の発想や個性が存在してはじめて「少数精鋭」だと胸を張れる。

自分らしさ、自社らしさ。「らしさ」を核とするのもよし、「らしさ」から脱皮するのもよし。いずれも個性的な発想ができる出発点になる。「らしさ」はしっくりと落ち着く。よくなじむ。しかし同時に、「らしさ」は硬直化した「こだわり」に転じることがある。

情報の扱い方  個々の情報には「生ものですので、なるべく早めに召し上がってください」という明文化されていない表示がくっついている。情報には旬があり賞味期限がある。情報洪水の中から普遍的価値を保って生き残るのはごく一部の情報にすぎない。仕事で取り扱う情報などはほとんど「消費される情報」である。生ものは手際よく扱わなくてはならない。悠長に付き合っているうちに価値が劣化するからだ。したがって、情報には臨機応変にして瞬発的な睨みをきかせる必要がある。〔注2

2 情報を集めるだけ集めてから、やれ分析だ、やれ編集だというのはありえない。月並みな定常処理で終わることになる。情報は集まってきたものから順に鮮度が落ちる前に捌かねばならない。鮮度のよいうちに魚を三枚おろしにしたり、強い火力で焼いたりするのによく似ている。

タブラ・ラサ(tabula rasa)  時代は情報不安症候群に襲われている。世界や仕事や人生に不安が募ると、人は躍起になって情報を集めがちである。手に入れた情報が実体に光を照射することもあるが、逆に曇らせることもある。虚報や誤報は推論を台無しにしてしまう。それゆえにアタマを時々「タブラ・ラサ」という白紙状態にリセットすることが大切なのだ。〔注3

3 タブラ・ラサとは「文字が消された書板」という意味のラテン語のこと。何も書かれていない白紙と考えればよい。「これは白紙です」と言うつもりで、その白紙に“tabula rasa”と書いてしまうと、もはやその紙は白紙ではない。
白紙などどこにでもある。最初から何も書いていない紙もそうだし、鉛筆で何やら書いた紙だが、ついさっき消しゴムで消したのなら、それも白紙である。「答案用紙を白紙で出す」などと言うが、答案用紙にはあらかじめ設問が印刷されているから、すでに白紙ではない。ここで言う白紙とは認識論的な意味合いの状態である。つまり、外界の印象を何も受けていない心の状態のことを意味する。こういう状態になるのは難しいが、目指さなければ発想は目新しさへと向かわない。

編集達人への道  残念なことに、すべての人はお釈迦様の手の上の孫悟空のようである。まず、どんなに分かったつもりになっても、知などたかが知れているという意味において。また、どんなに頑張ってものの見方を変えようと思っても、所詮自分の視軸をずらすことなどできそうもないという意味において。人のものの見方や考え方、さらに情報の選び方や組み合わせ方は、ある意味でつねに「自己都合」によると言わざるをえないのである。〔注4

それでいいではないかと居直れば、そこで発想も行き詰まり、固定観念から脱することもできない。だからこそ、一日に1時間、週に一度でもいいから、自分自身の考え方と慣れ親しんだ発想の方法に逆説を唱えてみるのである。〔注5

4 「事実を思考の中に模写したり投影したりするとき、人は自分にとって重要で都合のよい側面だけを切り取っている」(エルンスト・マッハ)。

5 「理知がこの世に現れる際には、必ず逆説の形をとって現われる(……)」(池田晶子)。


結語と提言  5回にわたって「知の編集」について書いてきた。知の精度と性能を高めることを諦めてはいけないと思う。「もう歳だから」と弱音を吐いてはいけないのだろう。己のなけなしの知に安住してはいけないのだろう。安住と成長は本質において相容れない。秩序と正説を求め、エトスとパトスとロゴスのバランスを保つ上で混沌と逆説は不可避であり、自己肯定と自己批判の併せ技が必要になってくる。

反知性主義がはびこる現在、知性が危うい時代になっている。一人ひとりが大雑把な幼児性から脱皮して、知を鍛えることに期待したい。そのために編集という方法が力になってくれるはずである。

知の編集➍ ソリューションの編集

罪を許してもらうために、まずしなければならないこと。それは、罪を犯すことである。犯した罪がなければ許してもらうことはできない。問題もこれによく似ている。問題を解決するためには、まず問題を見つけなければならない。

問題解決のきっかけになるのは問いである。問題の答えを求めるなら、答えが出やすいように問う。「これは何か?」などと単に問うだけで答えが出るわけではないが、少なくとも問いを工夫することによってこれまで気づかなかったことがあぶりだされてくることがある。また、問いは、答えを捻り出す方向に考える誘発剤になる。

よき問いはよき答えを導く。同様に、ありそうもないことを問うことによって、驚くような着眼やソリューションに行き当たる。「ビールの泡はビールに決まっている」などと言って知らん顔するよりも、「はたしてビールの泡はビールなのだろうか?」と問うほうがビールについての洞察が深まる。たとえそれがナンセンスであってもだ。1990年頃、英国で「ビールの泡はビールか否か?」という論争がパブから始まり、翌年消費担当大臣が「ビールの泡はビールではない!」という判断を下した例がある。

コペルニクス的転回  かつてリチャード・ドーキンスは「人間が主役か、それとも遺伝子が主役か?」という問いを投げかけた。そんなもの、人間に決まっているはずと常識は教えるのだが、ひとまず問題提起した。ところが、この問いによって、彼は「卵が主役であり、めんどりは脇役である」という、画期的な編集視点を得ることになった。「生物体とは、遺伝子が遺伝情報を連綿と伝達し続けていくための媒体にすぎない。したがって、自然界で生きとし生けるものの行動を操っているのは遺伝子エゴイズムである。たとえば、めんどりなど、卵のほうが己の再生産を確保するために発明した産卵装置にすぎない」〔注1

1 加藤秀俊の「およそ情報というものに生産過剰などない」という言は現実そのものを的確に言い表わしている。情報に比べれば、モノの大量生産など可愛いものなのである。
Rolexという記号が主役であり、モノとしての時計はそれを形にした脇役にすぎない。その時計を見せびらかすための人の手首などは誰のものだっていいのだ。

ブレークダウンという編集思考  世界、人生、経済、健康などと大きな概念をいくら眺めてみても前途が開けてくるわけではない。何がしかの策にしても、概念の小分け・細分化ブレークダウンによってはじめて立てられるのである。

ある大きな概念XPQRという中概念に分ける。次いで、Pという中概念をabcという小概念に分ける。この過程では、「Xとは何か?」という問いと「それはPQRである」という答えのやりとりがあり、「では、いったいPとは何か?」というさらに突っ込んだ問いと「それはabcである」という、より精細な答えのやりとりが起こっている。

時限ソリューション  正確無比な意思決定やソリューションは一つの理想ではあるが、決して現実的ではない。ぼくたちは無制限かつ無期限的に「いい情報」を探し続けて選ぶことはできないのである。

ソリューションとは意思決定の一つであり、今手元にある情報と知識を時間内に最適編集して解決法を決断することにほかならない。それは、問いに対して「イエスかノーか」のいずれかで答えるのに似ている。

情報のネガポジ反転  問題解決の一面に、ネガティブ情報の中からポジティブ情報を引き出したり見つけたりすることがある。頭痛や疲労というネガティブ症状に気づくからこそ、薬やサプリなどでポジティブ摂取ができる。自覚症状のない病もある。その場合は専門医にネガティブ因を見つけてもらいポジティブ処方してもらうわけだ。

「ライバルが多い」というネガティブ情報は「市場の魅力が大きい」というポジティブ情報に反転でき、「もてない」というネガティブ情報は「失恋もしないし余計な金も使わなくて済む」というポジティブ情報に反転できる〔注2〕 反転した結果、解決のめどが立つこともあれば、特に問題と言うほどのこともない、別に解決しなくてもいいのではないかと判断できることもある。

2 「金がない」→「失う心配がない」というふうにネガ/ポジ反転するということは、ポジ/ネガ反転もありうるということだ。つまり、「大金がある」→「失いたくない」→「失くしてしまったらどうしよう」という具合に。ネガとポジの反転を利用したジョークが、よく知られた“Good news, bad news”である。
手術が終わった。「先生、どうでしたか?」と患者の妻が尋ねた。
「奥さま、良い知らせと悪い知らせがあります」とドクターが言った。
「良い知らせを先に聞かせてください」と妻が言った。
「手術は成功しましたよ」とドクターが言った。
妻は安堵した。「ありがとうございます。で、悪い知らせのほうは何ですか?」と尋ねた。
ドクターは神妙な顔をして言った。「ご主人が亡くなりました」。

知の編集➌ コンセプトの編集

極論すると、ひらめかない人の特徴は「マメではない」。もっと正確に言えば、どうでもいいことにはマメで、重要なことにはマメではない。アイデアを求められる場面で思考停止する。考えても堂々巡りして前へ進まない。資料に依存し、資料を丸ごと流用する。語彙も少ないが、少ない語彙をやりくりして表現を工夫しようとしない。話しことばも書きことばもいつも常套句の羅列。そのくせ、自己流にこだわり、決してそこから脱皮しようとしない。

こんなふうにやりこめるとどうにもならない人間に見えてしまうが、程度の差こそあれ、誰にでも共通する傾向だ。ひらめきの悪い頭脳によく効くのは情報編集である。複数の情報を分類したり束ねたりしているうちに、脳の回路が複線化して活発になる。

まず二極、二項で考える  二分類したり二項を対立させたりするのは、創造的と言うよりも論理的な構図である。賛成⇔反対、現実⇔理想、白⇔黒のような対義語 〔注1 もそうだが、多様な事象群を二つのカテゴリーだけで括るには本来無理がある。「あなたはごはん派、それともパン派?」と尋ねられても、ごはんとパンの両派であり、またパスタ派でもあるのだから、二者択一を迫られても即答しかねる。二極や二項には古めかしいことばが用いられる。「老―若」や「男―女」のような二項対立で眺める人間観などは相当手垢にまみれているのだ。

だが、さほど創造的でなく型通りのように思える二極思考・二項対立も、着眼次第では新しいコンセプトを生み出してくれることがある。たとえば「ぼくの好きな女性のタイプは二つ」と言えば、ふつうは顔立ちや性格などを思い浮かべる。ところが、「日本人と外国人」というオチがついて意表を衝かれる。「大企業の人材は機関車型と客車型に分かれる」という視点にも二項の表現に目新しさが窺える。

1 自宅やオフィスの電話と対照的な存在として携帯電話が登場した。これによって、従来の電話は「固定電話」と呼ばれるようになる。「固定電話⇔携帯電話」は新しい対義語である。但し、どんな概念にも対義語関係が生まれるわけではない。たとえば味噌汁に対義語はない。誰かがコンソメスープと言ったらしいが、それは違う。それでいいなら、ふかひれスープでもトンコツスープでもいいことになる。
ある人が「味噌汁―アップルパイ」という関係を見つけた。「おふくろの味、わが家の味」という共通項が取り持つ縁である。これは対義語ではなく、「日本人:アメリカ人=味噌汁:アップルパイ」というアナロジーを使った二項対立と言うべきだろう。

コンセプトとアナロジー  二項に着眼した後に複数要素を編集した例がある。キャンペーンを立案するのに要する日数が平均117日というデータがある。アイデアの芽生えから誕生までの期間を懐胎期間の比喩を用いると、「人がアイデアを宿す期間はハイエナとヤギの中間」というコンセプトが生まれる。アイデアの熟成と妊娠のアナロジーだ。ついでに、ネズミから象までの妊娠期間を一覧すると、こんな図ができあがる (参考:デイヴィッド・オグルビー著“Ogilvy on Advertising”)

具体的な階層への落とし込み  二の次は「三」である。たとえば一日を「午前・午後」と分けたら、次は「朝・昼・晩」という具合。「老若」を「青年・中年・熟年」とするのも三項化。一つの大きな概念なりゴールなりを二分類から三分類に増やすと、低い階層に下りてきて分解された因数が具体的に見えてくる 〔注2 

2 「効果的な説得∋倫理、感性、理性(を通じて)」(アリストテレス)、「料亭の会席料理∋松、竹、梅」、「理想の野球チーム∋走、攻、守」など。

連想の本質  連想は外界と自分がつながっている感覚が強い時に生まれやすい。誰かから聞いた事柄、本で読んだ内容、ふと見かけた文字などの外部情報を、自分の知識と照合させる働きである。それは関連知識の脳内検索作業にほかならない。

ただぼんやりと何かについて思いを巡らせても連想できるわけではない。類似するものや相反するもの、形状や属性、機能や相性を連想するなどして、狙いを絞ってみることも必要なのだ 〔注3

3 ポストイット(付箋紙)から連想したケースを紹介しておく。
* 形状連想→薄い、四角形、紙切れ、パステルカラー、着脱糊、ペラペラ……
* 機能連想→目印、貼る、思い出す、剥がす、覚書、注意、とりあえず、仮止め……
* 相性連想→書籍、書類、文具店、鞄の中、机の角、模造紙、手帳、問題点……

 コンセプトのリニューアル  当初違和感があっても、いったん出来上がったコンセプトは、当然ながら徐々になじんでくる。デビュー当時、あの「せんとくん」の風貌とネーミングには強い違和感があったが、今となっては見事なまでにこなれている。考えてみれば、鰻屋の「肝吸きもすい」は響きも見た目も快いものではない。しかし、鰻重や鰻丼の脇役を見事に演じている。

二者択一という先入観から脱すれば、折衷や融合 〔注4という方法に気づく。コンセプトの編集によって本来ありえそうもないことが可能になるのである。

4 ざるうどんにするかざるそばにするかで迷ったら、「あいもり」という手がある。うどんとそばが半人前ずつ仲良くざるに盛られて出てくる。そんな麺類一式の店を何軒か知っている。
鉄板ホルモン焼きの屋台で、あと一人前をミノにするかハラミにするかで迷っていたら、隣りの客が「テッチャンとハツで一丁!」と注文した。テッチャン500円でハツ600円なら、550円で二種類をハーフで食べられるのである。早速「ミノとハラミで一丁!」と真似てみた。
鰻屋で「肝吸いか赤だしか」と聞かれ、「赤だしに肝を入れてほしい」と無理を言ったら、「はい、キモアカね」と返ってきた。常連向けの裏メニューがちゃんとあるのだ。手間暇も変わらないので、できないわけがない。

知の編集➋ 明快性の編集

今さらながらという問いを立ててみる。「なぜ情報の編集は明快でなければならないのか?」

情報編集には「自分が分かること」と「他人が分かること」の二つのねらいがあり、自分が分かることには他人が分かるよう工夫することが含まれる。一人で沈思黙考しているから、自分さえ分かればいいというわけにはいかない。明快性は自分の内だけに止まらないのである。

何かを明快にして理解しようとすれば、その何かを誰かに伝えてみればいい。うまくコミュニケーションできれば、ある程度分かっている、つまり明快になっていると言える。もともと知識は明快であることを本領とした。曖昧な知識を知識と呼んではいけないのである〔注1。 物事をよく理解するための方法に「言い換え」がある。辞書の定義も言い換えの一つだ。元の表現のパラフレーズ、概念の再ポジショニングと呼んでもいい〔注2

1 ラテン語の“Scientia potentia est.”は「知は力なり」を意味する。ベーコンはそう強く主張した。“Scientia”(スキエンツィア)とは知識のことである。イタリア語では“scienza”(シェンツァ)という語に変化して使われている。ヨーロッパの中世から近世の時代、知識は作品化され言語化されることによってさらに深く明快になるものだと考えられていた。

2 ソムリエということばが導入された頃、ワイン鑑定士や利きワインの専門家などという言い換えがおこなわれた。次に、それだけではなく、「レストランでお客の相談に応じて料理に合ったワインを選び提供する仕事」という意味を含ませるためには、簡潔に言い換えるのが難しく、結局、原語をそのまま使うほうが明快ではないかと考えるようになる。こうして、今では「お米のソムリエ」や「お菓子のソムリエ」などという使い方も一般的になった。

情報の違いが価値の違い  手紙からメールへ、商店街から通販へ、画一から多様性へと、日常の諸々が変遷し、物理的な実体の差異は微差になり、情報の質と量の差異のほうが著しくなった。ワインの味の差は分かりにくいが、名称や蔵のブランドの差異なら認識しやすい。

極論すると、60点の物理的品質を80点の情報訴求力でカバーすることができる反面、90点の物質的品質であっても50点の情報訴求力で値打ちを下げてしまうこともありうるのである。言うまでもなく、顔や体型や表情は差異である。しかし、その人の名やブランドがそれ以上の差異化効果〔注3をもたらすようになった。

3 「情報は差異である」と文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンは力説した。

つかみとしてのラベル  情報の「短文化」もしくは「一言ラベル化」がすっかり定着している。ツイッターしかり、名言・格言のスポット的引用もよく見かけるようになった。文脈を伴わないワンメッセージが堂々と一人歩きすれば、長文で物事を理解させようとする努力が空しく見えてくる。つかみはコンテンツよりも強し、なのである。

作家ドナルド・バーセルミは、理解可能な文章の体裁を持つそれまでの小説の作法に対して、細切れの不可解な文章を脱論理的に構築した。彼の「断片だけがわたしの信頼する唯一の形式」という言は、文学の内のみならず、そこかしこの情報伝達行動で現実味を帯びてきた。ある意味で、スティーブ・ジョブズが訴えた“Connect the dots.”(点を結べ)の対極的思想とも言える。

カテゴリーの刷新  見方によっては、情報はつねに他の情報と「結合されている」と同時に、他の情報から「分割されている」と言うことができそうだ。対角線をどこに引くか、区切りの境界をどこに置くかによってカテゴリーは変わる。カテゴリーが変われば必然意味が変化する。ゆえに、カテゴリーの命名は重要である。情報はある種の表現であり、情報力とは表現力にほかならない。ラベルの貼り替えやインデックスの更新の成否が情報価値のアップダウンにつながる。

過剰なまでの反復  「もういい加減にしてほしい」と思いたくなるほど、分かり切った同じメッセージを繰り返すことを「リダンダンシー」〔注4〕 という。コマーシャルなどはその典型だが、街を歩いていて目に止まるコンビニの看板やお笑い芸人のギャグもくどい。くどさにはマイナスの一面もある。他方、リダンダンシーのプラス効果は侮れない。

混沌とした情報化社会では露出と反復は不可欠だ。「昨日連絡しておいた」とか「二度確認した」程度の情報発信では、簡単に埋もれてしまう。毎日の朝礼やノートや体操も「継続は力なり」というリダンダンシーの一種と言えるだろう。そして、情報を編集する際には、情報を掘り下げずとも、少々くどいくらいの繰り返しが明快性につながることがある。

4 シャノンの情報理論(1948年)は、「情報の内容が秩序正しく伝達されるためには、ランダムな混沌の中を進んだほうがよい。そのためには、情報の中に敢えてリダンダンシーを加えておくべきだ」と教えている。

知の編集➊ 関係性の編集

知の編集をテーマに5回にわたって書いてみたい。2011年に主宰した私塾の〈知のリファレンス〉に加筆したもの。


類が友を呼ぶように、情報Aaと類似の情報Abは互いに引き合って一つになりやすい。他方、情報Xが異種の情報Yと結び付くことも稀ではない。いずれの場合も、そこに「もしかして一つにできるのではないか」という推論が働いている。その結果、新しい気づきやアイデアが生まれることがある。

新たに取り込んだ情報はアタマの中の知識と関係を結ぶ。但し、いつまでも続く固定的な関係ではない。なぜなら、そこにはさらに別の情報が入り込んでくるし、知識も陳腐化するからである。

したがって、編集はつねに形を変える。型に溺れずに、つねに新しい型を求めるのが編集の基本心得になる。固定された型は、新しい組み合わせを目指す編集の意図に反する。

関係性を見つける条件  まずは無制限に情報を欲張らないこと。現代人は大量情報収集という「もっと欲しい病」を多少なりとも患っている〔注1。この病は個々の情報を一過性の点として扱うような症状を示す。気がつけば、情報そのものの発信源ソースである人間との関係が希薄になっていたりする。膨大な情報の中に「人」を感じ「縁」を感じなければならない。そのためには、人をある程度限定し、縁のタイムリー性を重視することだ。「人や情報の親疎感の見直し」と言ってもよい。編集とはおびただしい選択肢のうちの一つの意思決定である。潔くなければならない。

1 リチャード・ワーマンはインターネットが立ち上がった1989年頃に、すでに「自分の知識と世間のデータとのギャップが情報不安定をもたらす」と喝破した(『情報選択の時代』)。情報は追い掛けても追いつかないペースで膨張し、収集にはキリがないことがわかった。ゆえに、情報を選び組み合わせる編集力がものを言うのである。

孤独な情報  情報は群れる。ひとりぽっちを嫌う。もし情報に意識があるのなら、たしかにそう言えるかもしれない。しかし、むしろぼくたちの情報の取り扱いが稚拙だから、情報を孤立させてしまっているのではないか。線をいくつもの点に分解するよりも、点と点を結ぶほうが難しいのである。

ロース、カルビ、ハラミを盛り合わせにして提供するのは簡単だ。いずれも肉だからである。同種の情報は勝手に結びついてくれる。問題は異種情報の統合のほうだ。編集価値というのは異種が交わることによって高まる。ところで、異種情報関係には常識的なアタマではなじみにくい「ミスマッチ」がよく起こる。だから、最初から「これとあれは合わない」などと決めつけてはいけない〔注2

2 異種融合によって生まれたモノや概念は、生起の時点でことごとくミスマッチのように見える。今ではぼくたちはトマトソースのスパゲッティを平然と食しているが、この習慣は17世紀になって初めてヨーロッパで広まったものだ。トマトの原産地はアンデス高原。そこから中央アメリカや北米に持ち込まれ、コロンブス以降16世紀にヨーロッパに移植されたのである。しかも、当時は観賞植物であって、食用ではなかった。

情報の関係をとらえる  情報編集の技術はおおむね情報処理能力に比例する。普段から大量に情報を扱っていれば、知のデータベースは膨らむものだ。三つや四つの断片情報をまとめるのに大した労力はいらない。しかし、情報処理とデータベースが貧相であれば、情報が一気に増えると手も足も出なくなる。

「あの学者は文献を調べて引用するだけだ」と批判する声をよく耳にするが、巧拙を別にすれば、引用しながら執筆するのは編集行為そのものである。何百もの既読本のメモ書きや引用カードなどを前にして、どのように自説に組み込むか、どの情報をどの章に配するかを考えるのは、実は大変な作業なのである〔注3

人間どうしの関係を読む、看板と店の関係を読む、タイトルと内容の関係を読む、立場と意見の関係を読む。情報編集のスキルはこうした「関係の読み」を基本としている。

「知能とは、知覚された領域に潜む様々な対象の間の関係をとらえる能力のことである」というメルロ・ポンティのことばは意味深い。

3 中村雄二郎の『共通感覚論』を評する中で松岡正剛は次のように言っている。
「先駆者たちによって指摘されてきた共通感覚を、さて中村はどのように料理して、統合したか、まったく脱帽するほどに巧みな編集的説得力に富んでいた。だいたいこの人はよほどの編集哲学者なのである」。
中村雄二郎は、たしかに哲学という分野で画期的な編集をやり遂げてみせた。その著作において、見事なまでに引用や関連情報を適材適所的に配列したのである。知のクロスリファレンスに関しては当代随一と言っても過言ではないが、デスクの上で操作しているのではなく、記憶を通じて脳内インデックスを操っていたに違いない。

意識の持続性

意識をある対象に集中することはできる。問題はどれだけ持続できるかだ。対象への興味の度合いや集中しようとしている環境の影響を受ける。雑音が入る、視野の隅に動体が映る、電話が鳴り突然の訪問者がある……いい結果が出そうな瞬間に意識が途切れる。

「意識」はかなり難しい概念なのだが、無意識に使うことが多いから、分かったつもりになっている。少々分かっているとすれば、意識という語には「単独で使う用法」と「何かの意識という用法」の二つがあるということ。意識という語を辞書で引いたことなど一度もないが、辞書が語釈をそのように分けているのかどうか『新明解国語辞典』でチェックしてみた。

まず、こう書いてある。「自分が今何をしているか、どういう状況に置かれているのかが、自分ではっきり分かる心の状態」。ここでは、何かへの意識ではなく、意識そのものの本質を示している。「意識を回復させる(失う)/意識の流れ」などの例が挙がっている。自分が何をしてどういう状況に置かれているかはたいてい心得ている。しかし、そのことを「自分ではっきり分かる」ことが意識だ。もし「はっきり分からない」なら、それは意識とは呼べない、ということになるだろう。

二つ目の語釈はこうだ。「その事についてはっきりそうだと認識すること。また、その認識」。「その事について」というのが、上記でぼくが書いた「何かの意識」の「何か」にほかならない。用例として「危機意識を高める/防災意識が高まる/連帯の意識が薄い」などが示されている。これは英語の“conscious of ~”に相当する。英語では、意識を抽象的に単独で使うよりも、具体的なあることに関して表現することが多い。「社員の意識を高める」という日本語を英語に訳すのは意外に難しい。英語では「社員の~についての意識を高める」という傾向が強い。なお、この語釈でも「はっきり」ということばが使われている。つまり、意識には認識の明確性がすでに内蔵されているのである。


あることについてはっきりと分かり認識することは並大抵のことではない。胸を張って「はっきり」と言えるかと問われれば、心もとないかぎりだ。ならば、ぼくたちはほとんど意識などできていないことになる。その程度の「生半可な意識」でさえ、ずっと持ち続けるのはほとんど不可能ではないか。通常、寝ている時、人の意識は途切れているとされる。では、起きている時なら、意識は途切れずに続いているのか? いかにもそうだという仮説があるが、鵜呑みにしづらいのである。

これを試すのに〈ネッカーの立方体〉が使われる。立方体だが、面を意識させない透視図。これをしばらくじっと見つめてみる。つまり、最初に見えたまま意識を持続させる。しばらくすると、それまでの見え方が一瞬にして自動的に切り替わるはずだ。どう切り替わるかと言えば、斜め上から見下ろしていた箱が、斜め下から見上げる形に変化するのである。

上部の面を薄い色で塗ってみた。じっと見ていると、ある瞬間、この色のついた面がまるで天井にくっついたように見えて、立方体の位置取りが変わってしまうのである。早い人なら3秒、遅い人でも10秒以内には変わる。

エルンスト・ペッペルは「人間の意識は、PCやテレビの画面と同じように、定期的にリフレッシュされる」と言う。意識はある対象に長く向けられるのではなく、途切れたり切り替わったりする。ある対象をはっきりと強く意識し続けることはどうやら不可能なようなのだ。ネッカーの立体図で試した数秒が意識の持続時間だとすれば、意識はのべつまくなしに途切れ、対象を変えていることになる。「考え事に集中していたのに邪魔された」などと愚痴をこぼすが、邪魔のせいではなく、もともと意識も思考も持続しないものだと思っておけばいい。

忘れと覚え

自宅からオフィスまで10分少々。地下鉄もあるが、わずか一駅。階段の昇降が面倒だから、毎日行き帰りを歩いている。いろんな歩行ルートがあるが、間違えることはない。自宅とオフィスの場所を思い出せなくて徘徊したこともない。しかし、稀に忘れ物をする。自宅を出る時の忘れ物はたいていスマホか鍵。オフィスに置き忘れるのは財布か資料だ。

今朝はオフィスの鍵を持って出るのを忘れた。自宅とオフィスのちょうど中間地点でポケットにないことに気づき、念のために鞄の中を調べたが、やっぱりない。鍵を忘れても誰かがすでに出社していることが多いので、別に困らない。ただ、今朝はちょっと事情が違った。キーホルダーには通帳や印鑑を保管してある引き出しの鍵も付けてある。その鍵が必要だったので、溜め息をつく間もなく踵を返して自宅に取りに戻った。鍵を忘れた、しかし、銀行員が来ることは覚えていた。

内容はほとんど忘れたが、『忘れの構造』(戸井田道三著)という本をだいぶ前に読んだことを覚えている。「忘れ」という症状についての哲学的エッセイだ。薄っすらと覚えているのは、著者の加齢にともなう忘れることへの自己嫌悪と腹立たしさ。それをきっかけに、忘却についての現象学が繰り広げられる……おおむねそんな話だったと思う。


覚えたはずのことが思い出せない。これが一般的な忘れの現象である。一度も覚えたことがなければ、忘れることもなく思い出すこともない。知らないことは忘れとも覚えとも関わらない「無」だ。モンゴル出身の三横綱のことを知らない人にクイズを出題しても答えられない。答えられないことを忘れとは言わない。しかし、ぼくはすでに三人の名を知っている。つい先週、その三人の力士名をよどみなく白鵬、日馬富士、鶴竜と言ってのけた。しかし、昨日のこと、鶴竜がすんなり出てこない。う~んとしばし唸りながら捻り出そうとした。ちょうどその時、何年か前に大関時代の鶴竜にとあるホテルでばったり出くわしたのを思い出した。顔が浮かび、すぐに鶴竜の名が出てきた。ど忘れしたが、思い出した。つまり、覚えていた。

講演のテーマが同じものに集中することがある。時には、同じ対象者に同じテーマで3回シリーズという場合もある。テーマが同じでもコンテンツは同じではない。プロジェクターで説明するスライドも、30枚であれ50枚であれ、ほぼ変えている。聴く人と自分のためにマンネリズムは避ける。そう、なるべく同じネタや切り口を使わないように意識している。講師であるぼくは話したことについてはかなり覚えがいい。ところが、一年も経てば、聴衆のほぼ全員が中身を忘れてしまっている。前年と関連する話をする時、「これは昨年もご紹介しましたが……」と断りを入れて話すが、そんな気遣いなど無用、誰一人として覚えていなかったりするのだ。

講演でもジョークでも、なるべくなら古いネタにしがみつきたくないというのはぼくの長年の習性である。しかし、実は、そんな習性はあまり意味がない。毎年毎回同じ話、同じネタ、同じ事例を紹介しても、まったく問題はないのである。次回の講演を新鮮に楽しむために、前回の内容を無かったことにするような忘れの構造が働いているかのよう。ネタの少ない講師にとっては、こういう記憶力の悪い常連受講者は大歓迎のお得意様になる。いま記憶力が悪いと書いたが、悪口ではない。学んだことを忘れる彼らとて、趣味や店名やどうでもいいことはしっかり覚えているのだから。

若かりし頃のように何でも覚えるとか、老いて何もかも忘れるなどということが、むしろ特殊なのだろう。誰もが日々何かを覚え、何かを思い出し、そして何かを忘れる。やがて覚えが減り、思い出しづらくなり、忘れることが多くなる。それでもなお、記憶することや思い出すことを見限ってはいけない。忘れと覚えは、複雑に入り組んだジグソーパズルであり、想像以上に構造的なのだ。つまり、理に適った忘れもあるということで、自分を慰めることを忘れてはいけない。

手段とゴールの取り違え

物事は知識があれば一応何とか理解できる。しかし、知識だけで実現することはできない。分かっていることを実際にやってみるには知恵や経験の積み重ねが必要になる。一例を挙げよう。小学校低学年の子どもに百円硬貨を示して「これはどんな形?」と聞けば、「まるい」と答える。「硬貨=まるい」は知識だ。次に貯金箱を作らせる。誰一人として豚のお腹や背中にまるい穴を開けようとしない。長方形のスリット(切れ目)を入れる。これが知恵であり、子どもたちがそれまでに何度も見たり手にしたりした貯金箱経験である。

手段はゴールに従属する方法であって、目指すのはあくまでもゴールである。着手するまでは手段とゴールの違いは頭で分かっている。ところが、いったん手段に取り掛かると、ゴールのことを忘れ、手段という行為が主役に躍り出る。そのことで頭がいっぱいになってしまう。誰かにとっての手段が別の者にとってつねにゴールである場合もある。

三色ボールペンを使いこなすことは手段であって、ゴールではない。ゴールは読書することであり、読書から何がしかの情報や考えるヒントを得ることである。三色ボールペンを手に入れた。それを縦横無尽に活用して読書をしようというハウツー本も読んだ。たしかに三色の使い分けに精通したが、ボールペンを使いこなすことに神経を注ぐあまり、読書にはまったく集中できなくなった。読み終わった本のページは三色の傍線で彩られるが、本に書かれていることはさっぱり頭に入らない。知識と知恵の間の断絶は容易に起こり、手段はゴールに対して頻繁に優位に立つのである。


手術は成功しました。
開口一番の医師の一言に患者の家族はほっとし喜んだ。「それで、息子の術後の経過はどうなんですか?」と尋ねた。医師は「手術は成功しました」と繰り返し、こう付け加えた。「しかし、息子さんはお亡くなりになりました」。医師と患者の家族にとっての成功が異なっていることはよくある。

文学大賞を受賞した。
直後、テレビ局や新聞社からひっきりなしに取材の申し込みがあった。時の人にもなった。しかし、その受賞作品を最後に、一切小説が書けなくなった。文学大賞を受賞するのはゴールであった。しかし、小説家人生から見ればその賞は登竜門であり、一つの手段にほかならない。時の経過につれて、手段もゴールも変わる。

会社は儲かった。
いや、儲けすぎたと言ってもいいほどだった。役員は歓喜し、毎夜豪遊した。やがて倫理観が歪み、組織にひび割れが起こり始めた。翌年、会社は倒産した。現代版キリギリスだが、よくある話である。儲けること、利益を出すことをゴールだと見誤ることが多い。それは持続可能な経営を続けるための一つの手段にすぎない。

念願のマイホームを新築した。
働き盛りの世帯主は肩の荷が軽くなったのを感じた。しかし、勤務先が遠くなり、通勤疲れがひどくなり、ローン返済のために残業の日々が続いた。生活のリズムが崩れ始め、家族との会話も少なくなり、やがて家から笑顔が消えた。マイホームは人生のゴールではないのである。狭い賃貸マンションでの四人暮らしには会話があり笑顔があった。

企業理念を策定した。
その企業理念を社長が発表した。翌日、社員全員が辞表を出した。

フランス料理店を予約した。
わくわくして早めに店に入り席に着いた。しかし、彼女が姿を現わさなかった。


日々の生活、仕事、ひいては人生の諸々の場面の、些事から一大事に到るまで、手段とゴールの取り違えや地と図の読み間違いなどの主客転倒がつきまとう。ゲシュタルトの崩壊である。