意識の持続性

意識をある対象に集中することはできる。問題はどれだけ持続できるかだ。対象への興味の度合いや集中しようとしている環境の影響を受ける。雑音が入る、視野の隅に動体が映る、電話が鳴り突然の訪問者がある……いい結果が出そうな瞬間に意識が途切れる。

「意識」はかなり難しい概念なのだが、無意識に使うことが多いから、分かったつもりになっている。少々分かっているとすれば、意識という語には「単独で使う用法」と「何かの意識という用法」の二つがあるということ。意識という語を辞書で引いたことなど一度もないが、辞書が語釈をそのように分けているのかどうか『新明解国語辞典』でチェックしてみた。

まず、こう書いてある。「自分が今何をしているか、どういう状況に置かれているのかが、自分ではっきり分かる心の状態」。ここでは、何かへの意識ではなく、意識そのものの本質を示している。「意識を回復させる(失う)/意識の流れ」などの例が挙がっている。自分が何をしてどういう状況に置かれているかはたいてい心得ている。しかし、そのことを「自分ではっきり分かる」ことが意識だ。もし「はっきり分からない」なら、それは意識とは呼べない、ということになるだろう。

二つ目の語釈はこうだ。「その事についてはっきりそうだと認識すること。また、その認識」。「その事について」というのが、上記でぼくが書いた「何かの意識」の「何か」にほかならない。用例として「危機意識を高める/防災意識が高まる/連帯の意識が薄い」などが示されている。これは英語の“conscious of ~”に相当する。英語では、意識を抽象的に単独で使うよりも、具体的なあることに関して表現することが多い。「社員の意識を高める」という日本語を英語に訳すのは意外に難しい。英語では「社員の~についての意識を高める」という傾向が強い。なお、この語釈でも「はっきり」ということばが使われている。つまり、意識には認識の明確性がすでに内蔵されているのである。


あることについてはっきりと分かり認識することは並大抵のことではない。胸を張って「はっきり」と言えるかと問われれば、心もとないかぎりだ。ならば、ぼくたちはほとんど意識などできていないことになる。その程度の「生半可な意識」でさえ、ずっと持ち続けるのはほとんど不可能ではないか。通常、寝ている時、人の意識は途切れているとされる。では、起きている時なら、意識は途切れずに続いているのか? いかにもそうだという仮説があるが、鵜呑みにしづらいのである。

これを試すのに〈ネッカーの立方体〉が使われる。立方体だが、面を意識させない透視図。これをしばらくじっと見つめてみる。つまり、最初に見えたまま意識を持続させる。しばらくすると、それまでの見え方が一瞬にして自動的に切り替わるはずだ。どう切り替わるかと言えば、斜め上から見下ろしていた箱が、斜め下から見上げる形に変化するのである。

上部の面を薄い色で塗ってみた。じっと見ていると、ある瞬間、この色のついた面がまるで天井にくっついたように見えて、立方体の位置取りが変わってしまうのである。早い人なら3秒、遅い人でも10秒以内には変わる。

エルンスト・ペッペルは「人間の意識は、PCやテレビの画面と同じように、定期的にリフレッシュされる」と言う。意識はある対象に長く向けられるのではなく、途切れたり切り替わったりする。ある対象をはっきりと強く意識し続けることはどうやら不可能なようなのだ。ネッカーの立体図で試した数秒が意識の持続時間だとすれば、意識はのべつまくなしに途切れ、対象を変えていることになる。「考え事に集中していたのに邪魔された」などと愚痴をこぼすが、邪魔のせいではなく、もともと意識も思考も持続しないものだと思っておけばいい。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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