偶然とたまたま

「偶然がわれわれの行動の半分以上を支配し、その残りを我々が操る」と言ったのは、君主論のマキャヴェリである。意味を理解するのは容易ではない。昨日、かねてから決まっていた研修のために奈良へ赴き、講義をして帰ってきた。あの一連の行動は、どう考えても、依頼者とぼくとで操っていたと思われるのだが、マキャヴェリによれば、そうではなさそうなのだ。では、行動の半分以上を支配していたかもしれない偶然とは何だったのか。今朝じっくり振り返ってみたが、思い当たるふしはなかった。

人生に関わる運命的な偶然はさておき、本来偶然などと呼ぶにふさわしくない事態や出来事が偶然を装って立ち現れ、ぼくたちに偶然だと言わしめる。日常語で「たまたま」と言えば済むのに、仰々しく「偶然」と言ってしまった瞬間、そこに意味づけしたくなるのが人の習性。ちなみに、たまたまは「偶々」と書くから偶然の一種なのだろう。めったに起こらないことが起こる。めったに起こらないけれど、確率的には起こるのであるから不思議でも何でもない。不思議なのは起こるはずのないことが起こることのほうではないか。


思い当たるふしはないと書いたが、一つ思い出した。昨日の行動をまったく支配したとは思えない、たまたまの出会いがそれだ。早い時間に奈良に着き、喫茶店に入って少しくつろいだ。時間を見計らってタクシー乗り場に向かった。一台だけ停まっているタクシーに乗り込み、行き先を告げた。運転手が怪訝な顔をして振り向いたので、行き先を言い間違えたことに気づいた。即座に言い直して了解してもらった瞬間、目と目が合ってお互いに「ハッ」という表情になった。

実は10月の初旬にも研修でここに来ていた。その折りに乗車したタクシーの運転手だったのである。タクシーはよく利用するが、運転手の顔はまず覚えない。しかし、前回乗車した時、観光や民泊などの話をかなり突っ込んでヒアリングし、その運転手がしっかりと受け答えしてくれた。外国人観光客が増えたので英語も学び、ホテルや民泊の一覧表を自分で作って活用していると、その紙も見せてくれたのである。だから、強く印象に残っていた。

10月に乗りましたよねぇ」と言えば、「ええ、講師で指導されているのですよね」と、彼も覚えていたのである。今年、奈良への出講はその10月と今回の11月のみ。二度来て、会場への往路を送り届けてくれたのが同じ運転手というのは、めったにあるものではない。しかし、これを偶然と呼ぶのは大仰すぎる。別の運転手でも、ぼくの一日の予定の行動は変わらなかったはずである。だから、軽やかに「たまたま」と片付けるほどのことだろう。しかし、めったにいない好青年であった。気分の悪いはずがない。よい研修ができたと自画自賛しているが、そこに、半分以上ではないが、偶然が行動をほんの少し支配したかもしれない。

「我々の行動の大半は我々自身が操っているが、ほんの少しだけ偶然が行動を支配することがある」。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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