知の編集➎ 発想を促す編集

他人との縁に自分のアンテナがピピッと動く時、そこから関心が芽生えるはずである。情報との出合いは人との縁によく似ている。情報にドキッとし、おもしろいとか不思議だとか感じることがある。そんな情報を流し読みするのはもったいない。その内容や背景に少し立ち入ってみるのだ。このような一手間の繰り返しが情報感受性を研ぎ澄ましてくれる。〔注1

情報に反応する感受性と、不在や不足に気づく感受性がある。「ないもの」は「あるもの」よりも圧倒的に多いのだが、ぼくたちは顕在化するものだけを見て取ろうとする。そこにないもの、見えないもの、あるはずなのに潜んでいるものにも目配りしてみたい。

1 仏教用語に「感応道交かんのうどうこう」という熟語がある。「仏の働きかけと、それを感じ取る人の心とが通じ相交わること」を意味する。外部情報と自分の知識がまるで意気投合するかのように発想が膨らむ。この感応という働きは理屈ではない。外界からの刺激によって心やアタマが深く感じ入って動くことである。

誰かと同じ発想はいらない  十人のそれぞれが別々の考え方や個性を有していることを「十人十色」という。これに対して「十人一色」になると、十人が十人とも同じ発想をしていることになる。一人の発想で十分なところに十人が集まっているわけだ。これは組織としてはムダである。人数分の発想や個性が存在してはじめて「少数精鋭」だと胸を張れる。

自分らしさ、自社らしさ。「らしさ」を核とするのもよし、「らしさ」から脱皮するのもよし。いずれも個性的な発想ができる出発点になる。「らしさ」はしっくりと落ち着く。よくなじむ。しかし同時に、「らしさ」は硬直化した「こだわり」に転じることがある。

情報の扱い方  個々の情報には「生ものですので、なるべく早めに召し上がってください」という明文化されていない表示がくっついている。情報には旬があり賞味期限がある。情報洪水の中から普遍的価値を保って生き残るのはごく一部の情報にすぎない。仕事で取り扱う情報などはほとんど「消費される情報」である。生ものは手際よく扱わなくてはならない。悠長に付き合っているうちに価値が劣化するからだ。したがって、情報には臨機応変にして瞬発的な睨みをきかせる必要がある。〔注2

2 情報を集めるだけ集めてから、やれ分析だ、やれ編集だというのはありえない。月並みな定常処理で終わることになる。情報は集まってきたものから順に鮮度が落ちる前に捌かねばならない。鮮度のよいうちに魚を三枚おろしにしたり、強い火力で焼いたりするのによく似ている。

タブラ・ラサ(tabula rasa)  時代は情報不安症候群に襲われている。世界や仕事や人生に不安が募ると、人は躍起になって情報を集めがちである。手に入れた情報が実体に光を照射することもあるが、逆に曇らせることもある。虚報や誤報は推論を台無しにしてしまう。それゆえにアタマを時々「タブラ・ラサ」という白紙状態にリセットすることが大切なのだ。〔注3

3 タブラ・ラサとは「文字が消された書板」という意味のラテン語のこと。何も書かれていない白紙と考えればよい。「これは白紙です」と言うつもりで、その白紙に“tabula rasa”と書いてしまうと、もはやその紙は白紙ではない。
白紙などどこにでもある。最初から何も書いていない紙もそうだし、鉛筆で何やら書いた紙だが、ついさっき消しゴムで消したのなら、それも白紙である。「答案用紙を白紙で出す」などと言うが、答案用紙にはあらかじめ設問が印刷されているから、すでに白紙ではない。ここで言う白紙とは認識論的な意味合いの状態である。つまり、外界の印象を何も受けていない心の状態のことを意味する。こういう状態になるのは難しいが、目指さなければ発想は目新しさへと向かわない。

編集達人への道  残念なことに、すべての人はお釈迦様の手の上の孫悟空のようである。まず、どんなに分かったつもりになっても、知などたかが知れているという意味において。また、どんなに頑張ってものの見方を変えようと思っても、所詮自分の視軸をずらすことなどできそうもないという意味において。人のものの見方や考え方、さらに情報の選び方や組み合わせ方は、ある意味でつねに「自己都合」によると言わざるをえないのである。〔注4

それでいいではないかと居直れば、そこで発想も行き詰まり、固定観念から脱することもできない。だからこそ、一日に1時間、週に一度でもいいから、自分自身の考え方と慣れ親しんだ発想の方法に逆説を唱えてみるのである。〔注5

4 「事実を思考の中に模写したり投影したりするとき、人は自分にとって重要で都合のよい側面だけを切り取っている」(エルンスト・マッハ)。

5 「理知がこの世に現れる際には、必ず逆説の形をとって現われる(……)」(池田晶子)。


結語と提言  5回にわたって「知の編集」について書いてきた。知の精度と性能を高めることを諦めてはいけないと思う。「もう歳だから」と弱音を吐いてはいけないのだろう。己のなけなしの知に安住してはいけないのだろう。安住と成長は本質において相容れない。秩序と正説を求め、エトスとパトスとロゴスのバランスを保つ上で混沌と逆説は不可避であり、自己肯定と自己批判の併せ技が必要になってくる。

反知性主義がはびこる現在、知性が危うい時代になっている。一人ひとりが大雑把な幼児性から脱皮して、知を鍛えることに期待したい。そのために編集という方法が力になってくれるはずである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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