忘れと覚え

自宅からオフィスまで10分少々。地下鉄もあるが、わずか一駅。階段の昇降が面倒だから、毎日行き帰りを歩いている。いろんな歩行ルートがあるが、間違えることはない。自宅とオフィスの場所を思い出せなくて徘徊したこともない。しかし、稀に忘れ物をする。自宅を出る時の忘れ物はたいていスマホか鍵。オフィスに置き忘れるのは財布か資料だ。

今朝はオフィスの鍵を持って出るのを忘れた。自宅とオフィスのちょうど中間地点でポケットにないことに気づき、念のために鞄の中を調べたが、やっぱりない。鍵を忘れても誰かがすでに出社していることが多いので、別に困らない。ただ、今朝はちょっと事情が違った。キーホルダーには通帳や印鑑を保管してある引き出しの鍵も付けてある。その鍵が必要だったので、溜め息をつく間もなく踵を返して自宅に取りに戻った。鍵を忘れた、しかし、銀行員が来ることは覚えていた。

内容はほとんど忘れたが、『忘れの構造』(戸井田道三著)という本をだいぶ前に読んだことを覚えている。「忘れ」という症状についての哲学的エッセイだ。薄っすらと覚えているのは、著者の加齢にともなう忘れることへの自己嫌悪と腹立たしさ。それをきっかけに、忘却についての現象学が繰り広げられる……おおむねそんな話だったと思う。


覚えたはずのことが思い出せない。これが一般的な忘れの現象である。一度も覚えたことがなければ、忘れることもなく思い出すこともない。知らないことは忘れとも覚えとも関わらない「無」だ。モンゴル出身の三横綱のことを知らない人にクイズを出題しても答えられない。答えられないことを忘れとは言わない。しかし、ぼくはすでに三人の名を知っている。つい先週、その三人の力士名をよどみなく白鵬、日馬富士、鶴竜と言ってのけた。しかし、昨日のこと、鶴竜がすんなり出てこない。う~んとしばし唸りながら捻り出そうとした。ちょうどその時、何年か前に大関時代の鶴竜にとあるホテルでばったり出くわしたのを思い出した。顔が浮かび、すぐに鶴竜の名が出てきた。ど忘れしたが、思い出した。つまり、覚えていた。

講演のテーマが同じものに集中することがある。時には、同じ対象者に同じテーマで3回シリーズという場合もある。テーマが同じでもコンテンツは同じではない。プロジェクターで説明するスライドも、30枚であれ50枚であれ、ほぼ変えている。聴く人と自分のためにマンネリズムは避ける。そう、なるべく同じネタや切り口を使わないように意識している。講師であるぼくは話したことについてはかなり覚えがいい。ところが、一年も経てば、聴衆のほぼ全員が中身を忘れてしまっている。前年と関連する話をする時、「これは昨年もご紹介しましたが……」と断りを入れて話すが、そんな気遣いなど無用、誰一人として覚えていなかったりするのだ。

講演でもジョークでも、なるべくなら古いネタにしがみつきたくないというのはぼくの長年の習性である。しかし、実は、そんな習性はあまり意味がない。毎年毎回同じ話、同じネタ、同じ事例を紹介しても、まったく問題はないのである。次回の講演を新鮮に楽しむために、前回の内容を無かったことにするような忘れの構造が働いているかのよう。ネタの少ない講師にとっては、こういう記憶力の悪い常連受講者は大歓迎のお得意様になる。いま記憶力が悪いと書いたが、悪口ではない。学んだことを忘れる彼らとて、趣味や店名やどうでもいいことはしっかり覚えているのだから。

若かりし頃のように何でも覚えるとか、老いて何もかも忘れるなどということが、むしろ特殊なのだろう。誰もが日々何かを覚え、何かを思い出し、そして何かを忘れる。やがて覚えが減り、思い出しづらくなり、忘れることが多くなる。それでもなお、記憶することや思い出すことを見限ってはいけない。忘れと覚えは、複雑に入り組んだジグソーパズルであり、想像以上に構造的なのだ。つまり、理に適った忘れもあるということで、自分を慰めることを忘れてはいけない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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