絵が描かれた板に願い事を書くのが「絵馬」。首尾よく願いが叶ったら感謝の気持ちを込めて再び絵馬を奉納する。願いとはある種のテーマ。いくつかの主題をラベルに書いてみた。
大それた決意表明ではない。紋章的な標語であり、欲張りな関心の方向性を示しているにすぎない。アンテナを立てておけば、テーマについてあれこれと思いが巡ってくれ、それが刺激になって雑文の一つも書くようになり、誰かをつかまえて語ってみたくなる。
【考える】 物事を知るだけでは役に立たない。誰もがクイズ大会に出場するわけではないのだから。知識を身につけてわかることと考えてわかることの間には埋めようのない隔たりがある。
【観察】 観察イコール客観的? いや、偏見のない観察などありえない。観察は観察者の主観で塗れている。固有の体験だからである。それで何か困ることが起こるわけではない。
【風景】 目の前に広がる光景や景色は、しばらく眺めているうちに風景と化す。風景は人間の想像の産物だ。自然は人の存在と無関係に存在するが、風景は人の認識によってはじめて姿を現す。
【にっぽん】 日本史なら「にほん」。日本郵便は「にっぽん」であり、切手には“NIPPON”と印刷されている。「頑張れ、にほん!」では頼りない。元気を出すには「にっぽん」でなければならない。
【都市】 都市は現実であり幻想である。人は都市に生きながら、都市が内包する幻想に振り回される。万華鏡のように都市をくるくる回せば形が変わる。構築とカオス、希望と絶望、活気と倦怠……。
【物語】 人の生き方、諸々の事柄を語ることによって様々な物語が生まれた。虚構も脚色もいらない。ただ人について、人を取り巻くものについて、手を加えずに語るだけで物語になる。
【食卓】 食卓はもはやテーブルを意味しない。テーブルならテーブルと言えば済む。食卓は食事や食文化のことである。食卓を囲むとは一緒に食べること。ただテーブルに就くだけではない。
【本棚】 読んだ本を並べても、読まない本を蔵書として保管しても、本棚は本棚。一列一段でも五列五段でも本棚は本棚。背表紙をこちらに向けて本棚に並べたくなる本がある。
【生きる】 どこまで行っても生きるとは現実である。この現実に直面するかぎり、他のテーマが――仮にどうでもよさそうに見えるものでも――意味を持ち始めるのだろう。
【珈琲】 自分の生活シーンから消えてしまうことを想像できないものがある。たとえば珈琲がそれだ。これがなくなると、生き方や考え方をかなり大幅に変えなければならなくなる。
【仕事】 公的な仕事などと言うが、結局のところ仕事は「私事」である。仕事というものは、欲しい時には出てこず、もう十分と思う時に入ってくる。だから欲しいなどと願わないのがいい。
【世界】 部屋に閉じこもっても、外国を旅しても、書物で知識を得ても、世界は見えそうで見えず、ありそうでなさそうな、きわめて個人的な都合が切り取る概念である。
【知性】 知性的であろうとなかろうと、人間の差はさほど大きくないと思われる。知性は目立たないのだ。しかし、「反知性」という流れに向き合う時、知性の差がはっきりと現れてくる。
【遊び】 人類は慰みの遊び、戯れの遊びを十分にやり尽くしてきた。しかし、生き方をスムーズかつ緩やかにする余裕としての遊びの境地に到る人は少ない。機械にはそれができている。
【響き】 「打てば響く」という反応的行動は欠くべからざるコモンセンスである。響かないのは、責任を――とりわけコミュニケーション上の責任を――果たしていないということになる。
【言語】 人間のみが唯一言語的な動物である。言語を通さずには何も認識できない。だから、それを捨てて悟るのか、言語的に生きるのかをはっきりと決めるべきなのだ。
【暮らし】 どんなにだらだらと日々を送っても、どんなに生き生きと毎日を楽しんでも、暮らしから逃れることはできない。仕事に飽きても暮らしに飽きることはできない。暮らしは陳腐化しない。
【笑い】 元気になる、励まされるという理由で無理に笑うことはない。笑いのハードルは泣きのハードルよりも高いのだ。ここぞと言う時の笑いのために、常日頃大声で高笑いするのは控えるべきだろう。