パンとサーカス

およそ2000年前、皇帝ネロの時代のローマ帝国の都は、今と同じくローマだった。首都の人口は100万人超と賑わい、インフラもよく整備されていた。なかでも、生活用水の供給は充実していた。イタリアの北にはアルプスの豊富な水源がある。しかし、水源があること自体はポテンシャルに過ぎない。ローマ市民にとって必要なのは、その水源から水道橋を通じて生活の場へと延伸する水道であり蛇口である。ローマ帝国の施政者たちは水源のポテンシャルにあぐらをかかず、顕在化することに努めた。

では、いったいどれほどの水量が供給されていたのか。一日一人当たり1,000リットルという。現在の東京都民一人に割り振られている233リットルに比べてみると、この数字がいかに驚異的であるかがわかる。さらに、この時期から200年ほど下るとカラカラ浴場のような公衆浴場が誕生する。ちなみに、図書館も28館あった。100万人当たりで計算すれば東京都の公立図書館の数に匹敵するらしい。このあたりの話は『古代ローマの生活』(樋脇博敏著)に詳しい。

『ローマ帝国』(青柳正規著)や『古代ローマ人の24時間――よみがえる帝都ローマの民衆生活』(アルベルト・アンジェラ著)なども併せて読むと、ローマ時代の行政サービスの実態が浮かび上がってくる。インフラとくれば、民衆にとっての次なる利便性は食糧の確保になる。実際、ネロは20万人の成年男子とその家族(合わせて60万人)に小麦を供給しなければならなかった。人心掌握のためであるから当然無償給付だ。ローマ時代、この小麦のことを「パン」と呼んでいたのである。


コロッセオ
古代の巨大闘技場、コロッセオ

ぼくたちにとっての米とおむすびが、古代ローマ人の小麦とパンであった。いくらパンが豊富に供給されても、自分の口に入らなくては意味がない。アラビアの諺にあるように、「他人のパンは腹を満たさない」のである。もしパンが手に入らなかったら、スペインの諺にあるように、彼らは「パンのない一日は長い」と嘆いたに違いない。食べ物の恨みは恐いから、施政者にとってはパンを食べさせることは社会秩序のための生命線であった。そして、それをクリアした後に残る課題は娯楽の提供であった。それがサーカスである。現在のサーカスは曲芸的な技で魅せるが、当時サーカスと呼ばれた娯楽の代表格は剣闘と競馬である。前者はコロッセオで人間どうしが、あるいは人間と猛獣が闘い、後者はチルコ・マッシモで特に戦車競技が繰り広げられた。年間80日、後年になると135日も開催されたという記録が残っている。民衆は血生臭い剣闘に、荒々しい競馬に狂喜した。

ローマ帝国は繁栄していたが、一戸建ての邸宅に住める富裕層は当然一握りだった。一般のローマ人は今にも倒れそうな安物の集合住宅で貧しく暮らしていたのである。パンは食欲を満たしサーカスという見世物は快楽の場となった。パンとサーカスは庶民が待望したと言うよりも、権力者側が発案した行政サービスである。それは、生きる楽しみを引き寄せようとした、一種の「目くらまし」だったと言えるだろう。

この世相を批判したのが諷刺詩人ユウェナリスだった。ユウェナリスと言えば、あの「健全なる肉体に健全なる精神が宿る」の名言でおなじみだ。この名言は曲解されたまま今に引き継がれている。ユウェナリスの真意は「願わくば、健やかな身体に健やかな魂が宿るように」である。つまり、逆説だった。それはそうだろう。パンと娯楽を無条件で当てがわれていれば健全なる精神が芽生えるはずもない。真昼間から風呂に入って飯を食ってゲームに熱中する日々を送っていると、善良なる市民と言えどもやがて愚民化するのは目に見えている。権力者にとって愚民は扱いやすい。これは今の時代も変わらない。行政サービスに生を丸ごと預けるような生き方は健全なる市民精神に反するのである。

本読みのモノローグ

これまで拙い読書論を本ブログで20編以上書いてきた。その延長線上にある断片メモを拾い読みしながら今一度書いてみる。最近、読書――いかに読むか、何を読むか、どのように記憶するかなど――について二十代、三十代の人たちに尋ねられる機会が多い。彼らは「正しい読み方」を知りたがっている。そんな方法があるはずもないし、しかもぼくごときに聞くこともないと思うが、「正読」を求める動機には同情の余地がある。なにしろ本の読み方について義務教育はろくに指導していないのだから。

まず、何を読むかに対するぼくの考えは「必読書考」と題してすでに書いた。あっけないが、「読みたいものを読めばいい」というのが結論。次に、どのように記憶するかであるが、こんなハウツーに躍起になることはない。読書とは本に書かれたことを自分の脳へ移植することではないと割り切るべきだ。忘れたら読み返せばいい。記憶すべき材料ではなく、考えるきっかけを提供するのが読書である。知が統合されれば儲けものだが、それを最初から目指すべきではない。読書による知のネットワーク形成には読書以外の経験や技術が求められる。それは別の機会に書く。いまここで書きたいのは、考えるきっかけを前提とした場合の「いかに読むか」である。

年賀状2015年

2015年版年賀状で読書をテーマにして28種類の本の読み方を書いた。半分ギャグなのでまじめに読むと馬鹿を見るが、半分は本気で書いたから少しは参考にしてもらえたかもしれない。

さて、十代から現在に至るまで、いろんな読み方を試してきた。そして、「いかに読むか」の前に「何のために読むか」を置いてみると、読書行為が自分の経験や知識に行き着くことがわかった。読書とは読み手の経験や知識と照合することである。そこに書かれていることと自分とを照合せずに読むことなどはできない。照らし合わせることによって、知らないことやすでにわかっていることを新たに考えるようになるのである。

考えることに迷いや苦しみはつきものである。だから本を読みながらも時には迷い苦しむ。楽しもうとしているのだけれど、読書は決して楽ではないのだ。スポーツ選手は好きな競技を楽しもうとしているのに、試合中はずっと迷い苦しんでいる。一瞬たりとも楽はできない。それと同じ感覚が読書にも現れる。


迷い苦しみ考えること、そのことがやがて楽しみになること――苦痛ゆえに楽しいという被虐的な読み方がぼくの理想である。このことさえ可能になるなら、拾い読み、速読、精読など、どんな読み方であってもいい。たとえば米国の哲学者であり心理学者であるウィリアム・ジェイムズは「読書のコツは拾い読み」と言い切っている。同感である。これで十分に思考の刺激になってくれる。

では、速読はどうか。先に書いた「どのように記憶するか」という点に関して言えば、速読はほとんど役に立たない。すでにある程度内容がわかっている以外の本には無力だ。「私は速読コースを受講し、『戦争と平和』を20分で読めるようになった。あれはロシアに関する本だ」と、ウッディ・アレンは速読を小馬鹿にして言っている。但し、脳のパターン認識力を粗っぽく刺激したければ少しは役に立つかもしれない。

速読自慢の誰かに未読の哲学書、たとえばハイデガーの『存在と時間』を手渡してみる。数時間で速読してみせると豪語しても、ほとんど何も記憶に残らないだろう。それはいいとしても、考えるきっかけにすらならないはずである。ちょっと齧ってみればわかるが、一つの術語の理解だけでもそのくらいの時間がかかる。このような、「本を読む」ということばが適切でない書物があるのだ。「本を考える」と言うべき書物である。たまにはそんな本に出合って思考をレベルアップしてみる。そのときに読書への認識も深まることは間違いない。ハイデガー研究者で知られた木田元は「ハイデガー自身が舐めるようにアリストテレスを読んだ」と書いている。しかも「テキストの伝統的な読み方を根底から覆すような読み方をしてみせる」と言う。精読主義者が精読しなければならない本を書いたというわけである。ともあれ、考える行為として読書に向き合えば、おそらく精読するしかないだろう。

あれもこれも読みたい本は日に日に膨れ上がる。かと言って、読んでどうなるのかと自問するとき、別に急いで読むことはない、どうせ速く読んでも何も残らないと諦観する。そして、文学作品を除くかぎり、とりあえず一読・通読などという強迫観念を捨てて、潔く拾い読みしながら精読すればいいというスタイルに落ち着く。ある主題があってまとまりのある数ページ――場合によっては段落単位――をじっくりと読む。それだけで十分に立ち往生して苦しみ考え抜かねばならなくなる。その後の浄化作用は格別なのである。書棚の本を再読する。傍線や欄外メモを眺めていると、年月が経って読む箇所、考えるきっかけとなる箇所が変わっていることに気づく。

先週、哲学者中村雄二郎の『読書のドラマトゥルギー』の一節に刺激を受けた。その一節を引用して本読みのモノローグを終えることにする。

ときに迷路に入ってしまうこともあるだろう。迷路に入りこんで出られなくなっては困るけれども、まったく迷うおそれのない道というのは、歩いていて愉しくない。迷うことをとおして、私たちの惰性は揺るがされ、あらためて自分と世界との関係を見なおすようになる。そういう仕掛けが、読書という人間経験のうちにあるのである。

企画の愉しみ

長年従事してきたので、企画についてある程度わかっているつもりである。しかし、仕事は多岐にわたり対象領域も広いため、「企画とは何か?」を簡潔に言い表わすのは容易ではない。ある業界ではプロモーションや広告のことを指し、別の業界では商品や政策がらみだし、また他の業界ではずばりイベントだったりする。つまり、「何々の企画」という具合にいちいち何々をトッピングをしないと中身が見えない。ありとあらゆる業界の様々な対象に共通するような企画をつまびらかにするのはかなり厄介なのである。

コンセプトだの立案だの、あるいは編集だの構成だのという術語――場合によっては広告業界から借りてきた専門用語など――を振り回しても、企画の輪郭は見えてこない。いや、むしろ、そんな常套語彙を使えば使うほど本質から遠ざかってしまいそうだ。と言うわけで、自分が扱っている企画の仕事を象徴的に描くことしかできない。ぼくにとって企画とは、文字通り〈くわだてる〉ことである。画とは近未来の図とシナリオであり、企てるとは、調べることではなく、考えることであり、ひとまず言語的に表現する仕事である。目指す成果は、現在の問題や機会損失を解決し、将来の課題や目標を実現すること、今日よりもベターな明日を叶えること、そのためのアイデアを捻り出すこと……。

企画の全貌は企画書によって明らかにする。話が複雑になるので、企画書の体裁や見栄えのことは棚上げしておくが、企画書とは「書きもの」だ。意図や内容がわかりやすく記述されていなければならない。わかりやすさは必要条件だが、できればハッとするような巧みな言い回しや新鮮味のある表現などの十分条件も備えたい。極論するなら、駄文が綴られた企画書は駄作の企画と見なされる。企画が優れているなら、必ずそれに見合った文章がしたためられてしかるべきである。「新しいワインは新しい皮袋に」をもじれば、「優れた企画は優れた文章で」ということだ。企画とその伝達手段である企画書には意思疎通性が求められる。


100 leo's

広告代理店の経営者として著名だったレオ・バーネット(1891-1971)はコピーライター出身である。稀代の書き手であった。バーネットの広告作法のエッセンスは企画とライティングにも当てはまる。遺された名言に目を通すと、広告や広告代理店の経営に関するものが多いが、底辺に横たわる仕事人の精神を見損じてはいけない。仕事の愉しみ、アイデア、創造性などについて、名言からインスピレーションを受けた時期があった。たとえば次の一文がそうである。

“Creative ideas flourish best in a shop which preserves same spirit of fun. Nobody is in business for fun, but that does not mean there cannot be fun in business.”
(愉快な精神がいつも育まれている仕事場では創造的なアイデアが次から次へと出てくる。決して愉しみのために仕事をしているのではないが、だからと言って、仕事が愉快であってはいけない道理はない。)

仕事の目的は成果であって愉しみではない。しかし、成果を出すのにしかめっ面しなければならない理由はない。大いに愉しめばいい。愉快精神は遊び心に通じる。経験上、アイデアのほとんどは遊び心から生まれてきた。企画研修では毎年何十、時には何百という数の企画に触れ企画書を見せてもらうが、趣旨や案がよくできていても、おもしろいものにはめったにお目にかかれない。企画者自身が愉しんでいないのである。成果を急がず、下手なりに愉しもうとすれば、対象と一つになるような力が漲ってくるものだ。

“Keep it simple. Let’s do the obvious thing the common thing but let’s do it uncommonly well.”
(凝らなくていい。わかりきったこと
――普通のこと――をすればいい。但し、普通じゃないやり方で。)

不肖ながら、普通じゃないやり方で文を綴ることは何とかできるようになった。しかし、下手に凝ってしまう習慣が抜けない。この歳になると文体がある程度固まっている。一つの単語が勝手に別の単語を呼び込み、あれもこれもと欲張り始め、結果的にはシンプルさを欠いてしまう。自分なりにはシンプルなつもりなのだが、ある人たちからすれば少々難解で冗長なのだろう。ぼくのやり残している課題の一つである。

ぼやくのをやめて話を戻す。企画力はつまるところ言語力に比例する。そして、できるかぎり陳腐な常套語に安住せず表現の意匠を凝らすべきである。もし伝統的なことばを使うのなら、文脈の中で新鮮の気を与えるべきである。十二分に構想してから書くか、書いては何度も推敲しながら考えを煮詰めていくかはこの際問わない。いずれにせよ、書くことに精進しなければ企画の愉しみを味わうことはできないだろう。

必読書考

一般論として「誰もが読んでおくほうがいい本」はあるかもしれない。しかし、誰にとっても「必ず読まねばならない本」が存在するとは思えない。もしあるとすれば、特定のテーマを究めようとする研究分野においてだろう。つまり、そのテーマについて必要最小限知らねばならないことがあり、それを知らなければそのテーマについて意見が交わせないなどの不都合が生じる場合である。

何らかの目的があるから読む必要が生じる。たとえば、テストに出題されるかもしれないから、そして、テストに受かりたいから、本やテキストを読むのである。なるほど、読んだ結果として具体的な成果が生まれるなら必読本と言えるだろう。では、よく耳にする「万人必読の名著」や「青少年時代に読んでおくべき世界文学名作選」などは、いったい何のために読むのか。良き大人になるため? 教養を身につけるため? 人生を充実したものにするため? いちいちそんなことを考えて読んでいるはずがない。何を読んだらいいかわからないから、必読や推薦に寄り掛かっているのが実情ではないか。

501must read books

“501 MUST-READ BOOKS”という図書推薦の本がある。超特価だったのでロサンゼルス郊外のモール内の書店で買った。分厚い500ページ超の解説書である。さしずめ『必読書501冊』というところだ。文学ジャンルは、不思議の国のアリス、ピノキオ、赤毛のアン、千夜一夜物語、ロビンソン・クルーソー、罪と罰、戦争と平和、赤と黒、審判……など多彩に網羅されている。シェークスピアの作品は一冊も挙がっていないが、まあいいとしよう。

しかし、他のジャンル――歴史、伝記、現代文学、SF・ミステリー、紀行――の大半は初耳の本で、ぼくから見ればかなり偏っている。もっともアメリカ人によるアメリカ人向けの英語の必読書紹介だからやむをえないか。思想や哲学関係は編集方針として除外されたのかもしれないが、「世界にありえないものとしてアメリカの哲学」がジョークのネタになるように、その分野は上位501には入らなかった可能性もある。


必読書とは、つまるところ、学識経験者や職業的読書家や教育者らが自らの読書遍歴で印象に残っている本、あるいは、彼ら自身が先人の推薦するところに従って読み感銘を受けた本などである。そして、他の人たちも読むに値する作品であると彼らが判断したのである。必読書は推薦者が決めるものであるから、本来万人が差し障りなく愛読できる書でなくてもいいはずだ。にもかかわらず、最終的にはほぼロングセラーやベストセラーが選ばれ、癖のありそうなものは除外される。一般的に必読とされるのは、将来の人生に教訓的であり生きることのヒントになりそうな本に落ち着く。

もし必読書を参考にしたいのなら、読者は誰が必読書を推薦しているのかを気にすべきである。そして、推薦している知識人を誰が指名して選任しているかにも気を配るべきである。さらに、指名し選任している人を誰が決めたのか……という具合に気にしていくとキリがないことにも気づくだろう。そう、必読書決定に至る背景を遡ると無限連鎖に陥るのだ。

こうして考えてみると、人それぞれに読みたいと直感する本があるように、人それぞれに必要に応じて読まざるをえない必読書があり、人それぞれに他人に紹介したい推薦書があることがわかる。万人が読みたいと思う本などが存在しないように、万人が読まねばならない必読書や推薦書を最大公約数化できるはずがないのである。必読書に振り回されて読書ノイローゼを患うのは馬鹿げている。どこかの偉い人が薦める本などはしばし棚上げして、読みたいと思う本を読めばいい。そして、権威に頼らずにそういう本を見つけるには、足繁く書店や図書館に通って自ら「読書」なるものを結ぶしかないのである。

何をどう読むか

いい加減……欺瞞的……怠慢……こんなことばで形容したくなる人物がいるかと思えば、どこまでも真面目で几帳面、気の毒になるほど純粋な人物も少なからずいる。今日はあまりにも純粋な人たちが聞きたがる読書に関する質問を取り上げたい。

質問をした人たちからすれば、ぼくは物知りなんだそうである。物知りのことを博覧とも言うが、博覧と強記がくっついて「博覧強記」なる熟語が生まれる。強記とは「よく覚えている」ということだ。ただし、よく覚えていても、覚えていることを開示できなければ意味がない。知っていることを取り出してこその物知りだ。

講師をしている時のぼくは、聞き手に対して話し手を演じている。一応、話し手は聞き手の知らないことを知っていることになっている。当該テーマについては聞き手よりも知っているのは当然で、しかも黙っていては仕事にならないから、知っているかぎりのことを惜しみなく伝えるのは当然だ。他人様に褒めてもらってもぼくには自惚れている余裕などない。いつもどうすればもっと知の統合ができるのか考えて苦悶しているのだから。

merci 3

さて、その質問の中身だ。真面目で純粋な人たちは「ぼくがどんな本を読んでいるのか?」を知りたいと言うのである。いやはや、殊勝な心掛けである。しかし、読んでいる本のすべてを枚挙するのは不可能。当該研修に関係がありそうな参考文献は示せるが、いちいち何かを参考にしてテキストを編んだり話したりしているわけではない。それでも、コミュニケーションや仕事、企画や発想に役立ちそうな図書を書き出しているので、およそ100冊ほどの参考文献は示せる。しかし、たまたま講師を務めた初対面のぼくが読んだ本を参考にすることにいったいどんな意味があるというのだろう。


もしぼくが古典日本文学マニアなら、『古事記』から始まって井原西鶴の『世間胸残用』までを紹介するかもしれない。動植物マニアならファーブルの『昆虫記』やユクスキュルの『生物から見た世界』が愛読書だと告げるかもしれない。しかし、質問者はこの種の書物をぼくが読んでいるとか推薦するとかいうことは想定外のはずである。彼らは「読んでためになる本」を期待している。読んでためになる本とは何か。たいていヒューマンリテラシーに資するノウハウ本や実務書なのである。

もしすぐに役立ちそうな気がする本を知りたいのなら、その種の本をめったに読まないぼくに聞くのは間違っている。そもそもぼくにとって書物は、そこに書かれていることをぼくの記憶領域へ単純移植するための出所などではない。高校時代までに反吐が出るほど本の中身を覚えさせられたのに、実社会に出てからも何の義理があって同じことをしなければならないのか。好奇心に突き動かされて読みたい本を読めばいいのである。いや、できれば本など読まなくても困らないという前提のもとに読めばいい。

苅谷剛彦の『知的複眼思考法』に次の一文がある。

「本や論文から得た知識は、私には十分に定着しなかったようです。それでは、あれだけの文献を読んだことは役に立たなかったのか。なにも残らなかったのかというと、そうではない。知識に代わる『何か』が身についたといえるのです。それは、考える力――あるいは、考え方のさまざまなパターンを身につけたということです」

まったく同感である。不案内なテーマの本と知的格闘する。もっと簡単明瞭に言ってのけられることを、わざわざ小難しい概念を持ち出して論じる本によって脳に鞭打つ。誰かが書いたいい話を脳に格納するよりも、もっとわくわくする知的興奮が読書にはあるのだ。それを一言で言ってしまえば、自力思考の習慣を身につけるということにほかならない。さらに、その本のテーマである〈トポス〉――主張のありか――を見つけ出すことが読書の愉しみだ。それが、長い目で思想の基軸になってくれる。そのような意識があれば、いつか再生するかもしれないという上記のような一文に目配りができ、抜き書きするようになるのだ。そのノートをすぐにピンポイントで取り出せるかどうか、これは読書とは別の技である。

読む前に、読む

講演や研修後に本のこと、読書のことについて最近よく質問を受ける。そこで、思いつくまま二、三回書いてみようと思う。なお、小説の読み方などについて尋ねてくる人はいない。彼らは「ためになる本」の読み方に関心があるのだ。

ぼくは本をよく買う。およそ8割がたが古本。バーゲン日には前日まで500円から1,000円だったものが、200円や300円で買える。先週などは単行本セールで均一150円だった。まとめて10冊くらい買う。別々の日に買ったものをジャンルやタイトルで23冊ずつに仕分けておき、時間がある時に一気に読む。一気と言っても、全ページに目を通すような長続きしない方法は取らない。何ヵ所かにおおよその見当をつけておき、ここぞとばかりに数ページあるいは十数ページ単位で熟読する。七章のうち一、二章だけ読んで終える本などはざらにある。気まぐれに読む順番を決めるので、閉じたまま長い間出番を待つ本も稀ではない。

熟読しながら傍線を引き、もう一度読んでみようという気になれば付箋紙を貼っておく。考えているテーマと関連しそうなもの、そのテーマに奥行と幅が出そうな数行を見つければ、面倒を厭わずに抜き書きする。抜き書きしたからと言って、記憶に残るわけではないが、ノートにまとめておけば読み返しが容易である。読み返せば思考が触発されることもたまにある。この「たまにある」が起こるがゆえに、ノートに抜き書きするような手間暇のかかる作業が続けられる。

社会人なのだから、読まねばならない本などはない。「社会とつながるために読んでおくべきベストセラー」などという謳い文句を書店で見掛けるが、そんなものがあるはずもない。社会人だからと言って、社会の隅々とつながることもないし、第一、ベストセラーがそれを確証してくれはしない。学生時代は、読まねばならない本のために読みたい本を犠牲にしたが、仕事人は読みたい本を優先すればいい。理想だけを言えば、当面の仕事のために本を読むのではなく、気に入った本を読む習慣そのものが早晩仕事に役立つというのがいい。


空腹の技法と諷刺の芸術

無知の上に新たな知を重ねるのではない。新たな知は既知と組み合わされる。本の読み方などは既知の度合によって人それぞれに決まる。どんな本であっても、そこに書かれていることは読む前に少なからず分かっている。先週買った本の背表紙を眺めていたら、『空腹の技法』と『諷刺の芸術』の二冊がくっついた。異なったジャンルだが、書名のスタイルが似ている。この二冊を気ままに併読しようと思い立った理由を挙げるとキリがないのでここに書かない。ぼくの関心と知識と経験がそうさせたと言うほかない。いきなり読まない。「読む前に読む」のである。つまり、「本を読む前に、見当をつけて類推し既知を起動させる」。

『空腹の技法』。まず、好きなアートで身を立てるためにアルバイトをしている知り合いのことを思う……アートや文化はなかなか人を満腹にしてくれはしない、ぼくにも経験がある……これは都会的な現象であって農村地帯にはあまり見られないはずだ……多くのアーティストは空腹に負け絵筆やペンを置く……などと、気が済むまで、ぼくは脳内の既知をまさぐり、想像を掻き立てる。それからおもむろにページをめくる。こんな文章に出合う。

「一人の若者が都市にやって来る。若者には名もなく、家もなく、仕事もない。彼は書くために都市に来た。彼は書く。あるいは、より正確には、書かない。彼は飢え、餓死寸前に至る。」
「(……)若者は街をさまよう。都市は空腹の迷路であり、(……)家賃を心配し、(……)次の食事にありつく困難を心配する。彼は苦しむ。彼はほとんど発狂しかける。崩壊はつねにすぐ目の前にある。」

『諷刺の芸術』。直近の「シャルリ・エブド事件」とつながる……諷刺には強者と弱者の関係がつきまとう……強者が弱者を批判してもいいだろうが、取扱い注意だ……強者の驕り昂ぶりに対して弱者はつねに批評し諷刺し小馬鹿にしてもよい……それ以外に抵抗するすべはないのだから……銃の代わりにユーモアやエスプリの武器を携えて……弱者は自らが不当に誤解され批判されていると思えば、弁明や反駁を他者に委ねるのではなく、自らの声で強くおこなわねばならない……と、書名に触発されて考え、しかる後に本を開く。こんな一節を見つける。

「世界に反応するのに、哄笑と憤激とを混ぜあわせるのは、最も高尚なやり方だとはおそらく言えないだろうし、また、すぐれた作品や偉大な芸術を生み出す、一番普通のやり方でもないであろう。だが、これが諷刺の方法なのである。」
「諷刺(……)は、一つの精神状態に源を発するが、この精神状態は、批判的かつ攻撃的であり、通常は、人間の不条理性、無能力性、あるいは邪悪性を見せつけられるごとに抱く立腹の一種である。(……)諷刺の背後にある衝動は人間の本性にとって根本的なものだと言える。」

これ以上深入りしない。この二冊もやがてつながる(ぼくにおいて)。要するに、読んでから考えるのではなく、よく自分の既知をわきまえてから読んでみるのである。だが、質問者のほとんどにとってこんな読み方はためになるわけでもなく、さぞかし戸惑うに違いない。

語彙と理解

「講師の話には聞き慣れないことばが多く、一部ついていけなかった。可能であれば、事前に講義で出てくる用語を知らせてもらえれば、ことばの意味を調べる予習ができ、研修内容の理解が深まると思われる。」

ある研修が終わった後に送られてきたアンケートの中に上記のコメントがあった。一流企業に勤めるエリートの述懐に気分は複雑である。

プレゼンテーションの準備はできるだろう。しかし、それは自分が発話したり表現したりする時の話である。何かを認識したり理解することに関しては予習などできない。やってもやらなくてもどちらでいいという型通りの予習なら可能かもしれないが、たいていの打ち合わせや商談などは臨機応変を特徴とする。そこではこれまで蓄えてきた経験と知識がものを言う。相手が何を語るかをいくらかシミュレーションできたとしても、何から何まで予習するなど叶わぬことである。わからないことは、本番でわからなくなる場面を何度も体験してやがて理解できるようになってくる。

辞書

自宅とオフィスに十数冊ずつ各種辞書を座右に揃えている。マニアックな『民俗学辞典』や『実存主義辞典』も所有しているし、ソシュール言語学を理解するための『ソシュール小事典』なども揃えている。暇つぶしに本を読むように開くこともあるが、たいていの場合は、なじみのない術語やわからない事柄に出くわすたびに、意味を調べるために活用している。将来何ごとかをよく理解するために辞書を使ったり覚えたりすることはありえない。高校時代に英単語をABC……順に覚えようとした愚を社会人になって繰り返すつもりはない。


ぼくたちは、辞書によって用語を一つ一つ覚えた上で対話をしているのではない。仮に部品のように単語を覚えるとする。たとえば英単語の丸暗記。それが当面のテストの空欄を埋めるのに役立つことはあっても、実践的な英語力の醸成につながる望みは薄い。ことばは他のことばとの配置関係、ネットワークや差異によって文脈上で意味を持つ。人と人とが繰り広げる対話は、文脈や構文から切り離された単語の足し算でおこなわれるのではないのだ。

冒頭のコメントを書いた研修生のために、ぼくが使う術語を事前に知らせてあげるとしよう。それでもなお、研修生が術語の意味を踏まえてぼくの話の文脈の線を追える保障はない。話を聴いて理解し、あるいは本を読んで理解できるのは、単語がわかるからではなく、メッセージに当たって砕けろの思いで対峙するからである。文脈が単語の意味を決定する。そして、わからない単語はそのつど復習するほかない。

『広辞苑』を電子的に脳内に埋め込んでみればいい。あなたの頭脳は24万語の語彙を内蔵することになる。その語彙によってはたして表現豊かな文章が紡げるか。その語彙によって誰かが書いた文章を、誰かが論う話を絡め取って意味あるメッセージとして理解できるか。語彙力は理解力に反映しない。理解力とは文脈を読み取る能力にほかならない。その能力があれば、少々知らない単語に出くわしても意味を類推することができるのである。もしそれで不安ならば、面倒ではあるが、そのつど辞書をひもとくしかない。語彙とはそういうふうにして増強されていくものだ。決して予習するものではない。

もっとひらめきたい

ひらめき

胸や心をときめかせるのにさほどの苦労はいらない。それに比べると、脳をひらめかせるのは厄介だ。ひらめくは「閃く」と書く。何かの本に〈闇-音=門、門+人=閃〉という式が載っていた。闇から音が消え門が残り、そこに人が現れてひらめくとは、ちょっと出来過ぎか。ともあれ、ひらめきとはいい考えが瞬間的に思い浮かぶことである。

ぼくのことをアイデアマンと思っている人たちから質問を受ける。「もっとひらめくようになるにはどうすればいいか?」という類。世の中にはひらめきの構造を明かし発想を指南する書物が五万とある。ぼくが最初に手にしたそのジャンルの本は、NM法でよく知られた中山正和の『発想の論理』である(1970年初版)。論理に縛られないのが発想ではないか、にもかかわらず、発想の論理とはこれいかに? というのが正直な印象だった。それはともかく、一節を引用してみる。

創造が、異質なものを必要とするならば、明らかにテープレコーダーのような、論理のつながりのワンセットからは、新しいことは生れない。そのテープをどこかで切断して、別の(異質の)テープとつなぎあわせるようなことを、おそらく何回も何回もくりかえさなくてはならないだろう。このテープはたくさんあればあるほどいい――ということは、創造するためにはたくさんの情報や知識をもっていたほうがいい、ということ。そして、それらは、任意に、どこででも切断することができるか、あるいは、はじめから切断されていることも大事だということである。


その後もいろんな本を読み、自分でも多種多様な発想法を試みた。上記で書かれているような「異質なものを組み合わせて新しい価値や働きをつくること、そして異質なもので知を膨らませること」がひらめきの基本であり、そして、ひらめくための環境づくりと習慣形成は可能である、というのがぼくの結論である。生産的な仕事にはひらめきは欠かせない。そして、意識的に異種融合させたり、本末転倒させてみたり、既存価値を破壊してみたり、常識と非常識を反転させてみたり……などの、半論理的な頭の使い方の工夫が必要になる。

テーマに行き詰まったら追いかけない。一度、その対象のもとを立ち去ってみる。こだわり過ぎるとものの見方が固定するのだから、わざと思考停止させてみる。あっちへ飛びこっちへ戻るなどしていると不安になるが、実は振り子のように大きく左へ、大きく右へと揺れてみる過程で異種情報がくっつきやすくなる。つまり、ひらめきの機会が増える。

空きテナントの多いビルを想像してみよう。活気がない。客がまばらで閑散としている。流れがない。売り手は客待ちするのみ。余力がありながら徐々にパワーダウンしていく。一度つかまえた客を逃さぬように店員は必死になる。もし脳がこんな状態だったら……ちっぽけな知識にかじりつく。アイデアは枯渇し、持ち合わせた知識も色褪せて錆びていく。

ひらめきはオーバーフロー気味の飽和した脳から生まれる。一滴の水が表面張力の壁を破って水をコップからこぼれさせるように、新たな刺激情報がアイデアを押し出すのである。

尺度の限界

茶の本

岡倉天心は英語で『茶の本』を書いた。学生時代に読んだのは日本語版である。原文が英文だとはにわかに信じがたかった。後年英文で読んでもう一度驚いた。日本固有の概念や表現がものの見事にアルファベットで伝わってきたからである。新渡戸稲造の『武士道』にも鈴木大拙の『禅』にも同じ驚きを覚えた。いずれも日本語から英文への翻訳ではなく、原文が英語で書かれたのである。その『茶の本』に次の一節がある。

おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見逃しがちである。一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているだろう。

自分は一流大学を卒業した、一流企業に勤めている、これこれのキャリアがある、何々分野の権威である、何よりも有名である……そう、自他ともに認める「偉大」なのだ。こう胸を張っても、それがいったいどれほどの意味を持つのか、と謙虚に問えるだろうか。偉大と言ってもたかが知れている、そんなものはちっぽけであると思えるか。自分の大は何があろうとも大であり、他人の小はどこまで行っても小であると見てしまうのが人のさが。この習性は洋の東西を問わず、優位を感じている側に顕著に見られる。


ぼくたちはパリの国際度量衡局のメートル原器に基づいて定規やメジャーを作り、「同じ尺度」で長さを計測している。しかし、数値化不能なものや価値の認識のしかたや判断は人それぞれである。個人はそれぞれの尺度を持っている。だからこそ、同じ花を見て、ある者は美しいと感じ、別の者は美しいと感じない。これを一言化したのが、「人間は万物の尺度」(プロタゴラスである。ここでの人間は個人というほどの意味だ。だからこそ、異論が生まれる。異論を無理に統一すれば人間の集合体の中でひずみが生まれる。もし一つにしなければならないのなら、話し合うしかない。これを議論とかディベートと呼んだのである。

企画を指導していていつも感じることがある。自分の企画したものを「これでいいのか、正しいのだろうか」と不安になる人たちが少なからずいる。彼らは「世間の尺度」、ひいては「偉い人や権威の尺度」が気になってしかたがない。そんな尺度で測られてたまるもんかという威勢のいい若者はめったにいないし、もしいたとしても、世間からは寸法違いだと見放されてしまう。

世界は偉人たちの水準で生きることはできない。

『金枝篇』を著わした社会人類学者ジェームズ・フレーザーのことばだ。こんな話をしながら随所で権威を引くとは複雑な気分である。ともあれ、世界にはいろんな人間がいる。千差万別の認識のしかたがある。偉人の尺度は参考にはさせてもらうけれど、呪縛されるわけにはいかない。ちっぽけかもしれないが、ぼくにはぼくの生き方、考え方、仕事の方法という都合があるのだ。

文化とことば

最初に聞いた「ぶんか」という音は、おそらく「文化住宅」ということばとしてだった。ぼくが子どもの頃に町内のあちこちで建ち始めた簡易な集合住宅である。文化住宅と文化が違うらしいことは、しばらく後になってわかった。文化住宅とは、実は「文明の産物」だったのである。

一語の辞典 文化

さて、ここに『一語の辞典 文化』(柳父章著)という本がある。文化ということばだけを字義的にあれこれと考察している本だ。久しぶりにページを繰っているうちに、いろんなことが脳裡に思い浮かんだので書いてみようと思う。

「哲学」「科学」「時間」などの術語は幕末以降に生まれた和製漢語であり、「文化」もその一つであった。英語やドイツ語を「やまとことば」に置き換える代わりに、二字の漢字で言い表そうとしたのである。他に、“concept”は「概念」とされたし、“information”は「情報」になった。いずれも「おもひ」、「しらせ」とはならなかった。


明治40年(1907年)発行の『辞林』に【ぶん-くゎ】という見出しで文化が収載されている。「世の中のひらけすゝむこと」とある。ついでに、英語も併せて数冊の辞書に目を通してみた。定義はいろいろである。「文明が進んで生活が便利になること」というのがあった。文化の説明に文明が持ち出されるのも妙な気がする。他に「真理を求め、つねに進歩・向上をはかる、人間の精神的活動」というのもある。これはわかりやすい。

英語の“culture”には、まず「耕作」や「栽培」という訳語が当てられ、次いで、抽象概念の「教養」や「文化」が続いた。なるほど、植物を土と光と水によって培い養うのと、人の精神を育むことに大きな違いはなさそうだ。農業を意味する“agriculture”にはちゃんと“culture”が含まれている。

さっき「文化の説明に文明が持ち出されるのも妙」と書いたが、「文明>文化」という視点を感じるからである。文化(≒culture)と文明(≒civilization)の間には一線を引くべきだ。二つの概念はまったく違うのだから。文明開化という時の文明にぼくなどはテクノロジーやエンジニアリングを感知してしまう。ゼネコン的で公共的で巨大インフラ的なものをである。河川を工事したり巨大都市を建設したりするのが文明なのだ。

文明に比べれば、たしかに文化などみみっちくて卑小に見える。だが、芸術や工芸や芸道をピラミッドの前景に配して強弱や優劣を語ることにほとんど意味はない。文明はハードウェアであり文化はソフトウェアである。ハードとソフトはコンピュータにおいては一体的な協同関係にあるが、生活世界においては文明と文化は二項対立的な共存関係にある。どんな関係か……たとえば、スカイツリーやあべのハルカスを背景にして一句をひねってみれば、そのことが実感できるかもしれない。