いい加減……欺瞞的……怠慢……こんなことばで形容したくなる人物がいるかと思えば、どこまでも真面目で几帳面、気の毒になるほど純粋な人物も少なからずいる。今日はあまりにも純粋な人たちが聞きたがる読書に関する質問を取り上げたい。
質問をした人たちからすれば、ぼくは物知りなんだそうである。物知りのことを博覧とも言うが、博覧と強記がくっついて「博覧強記」なる熟語が生まれる。強記とは「よく覚えている」ということだ。ただし、よく覚えていても、覚えていることを開示できなければ意味がない。知っていることを取り出してこその物知りだ。
講師をしている時のぼくは、聞き手に対して話し手を演じている。一応、話し手は聞き手の知らないことを知っていることになっている。当該テーマについては聞き手よりも知っているのは当然で、しかも黙っていては仕事にならないから、知っているかぎりのことを惜しみなく伝えるのは当然だ。他人様に褒めてもらってもぼくには自惚れている余裕などない。いつもどうすればもっと知の統合ができるのか考えて苦悶しているのだから。
さて、その質問の中身だ。真面目で純粋な人たちは「ぼくがどんな本を読んでいるのか?」を知りたいと言うのである。いやはや、殊勝な心掛けである。しかし、読んでいる本のすべてを枚挙するのは不可能。当該研修に関係がありそうな参考文献は示せるが、いちいち何かを参考にしてテキストを編んだり話したりしているわけではない。それでも、コミュニケーションや仕事、企画や発想に役立ちそうな図書を書き出しているので、およそ100冊ほどの参考文献は示せる。しかし、たまたま講師を務めた初対面のぼくが読んだ本を参考にすることにいったいどんな意味があるというのだろう。
もしぼくが古典日本文学マニアなら、『古事記』から始まって井原西鶴の『世間胸残用』までを紹介するかもしれない。動植物マニアならファーブルの『昆虫記』やユクスキュルの『生物から見た世界』が愛読書だと告げるかもしれない。しかし、質問者はこの種の書物をぼくが読んでいるとか推薦するとかいうことは想定外のはずである。彼らは「読んでためになる本」を期待している。読んでためになる本とは何か。たいていヒューマンリテラシーに資するノウハウ本や実務書なのである。
もしすぐに役立ちそうな気がする本を知りたいのなら、その種の本をめったに読まないぼくに聞くのは間違っている。そもそもぼくにとって書物は、そこに書かれていることをぼくの記憶領域へ単純移植するための出所などではない。高校時代までに反吐が出るほど本の中身を覚えさせられたのに、実社会に出てからも何の義理があって同じことをしなければならないのか。好奇心に突き動かされて読みたい本を読めばいいのである。いや、できれば本など読まなくても困らないという前提のもとに読めばいい。
苅谷剛彦の『知的複眼思考法』に次の一文がある。
「本や論文から得た知識は、私には十分に定着しなかったようです。それでは、あれだけの文献を読んだことは役に立たなかったのか。なにも残らなかったのかというと、そうではない。知識に代わる『何か』が身についたといえるのです。それは、考える力――あるいは、考え方のさまざまなパターンを身につけたということです」
まったく同感である。不案内なテーマの本と知的格闘する。もっと簡単明瞭に言ってのけられることを、わざわざ小難しい概念を持ち出して論じる本によって脳に鞭打つ。誰かが書いたいい話を脳に格納するよりも、もっとわくわくする知的興奮が読書にはあるのだ。それを一言で言ってしまえば、自力思考の習慣を身につけるということにほかならない。さらに、その本のテーマである〈トポス〉――主張のありか――を見つけ出すことが読書の愉しみだ。それが、長い目で思想の基軸になってくれる。そのような意識があれば、いつか再生するかもしれないという上記のような一文に目配りができ、抜き書きするようになるのだ。そのノートをすぐにピンポイントで取り出せるかどうか、これは読書とは別の技である。