無反応、つまり無責任

「責任」ということばはてっきり和製漢語だと思っていた。ところが、近代以降の翻訳語を調べてみたらそうではなかった。中国語には「责」ということばがある。ただし、わが国で使われた目ぼしい形跡はなさそうだ。

多数の和製漢語が明治以降に生まれたのはよく知られている通り。英独仏語の概念的な術語をやまとことばに置き換えずに、せっせと漢語に翻訳したのである。自由、哲学、恋愛などは和製漢語の代表格だ。

英語の“responsibility”やフランス語の“responsabilité“の訳語として新たに造語せずに、「責任」という語を拝借したのだろう。英仏語ともにラテン語の“respondere”という動詞に由来し、元々は「(何かに)応じる、答える、反応する」という意味だった。現代イタリア語にはほぼそのまま残っているが、二つ目のアルファベットが”e“から”i“になって”rispondere“と綴られる。

すべての英和辞典で“responsibility”という見出し語の筆頭に「責任」という意味が挙がっている。研究社の新英和中辞典は「自分が引き受けたり与えたりした仕事の義務を遂行する責任」と懇切丁寧な解説を付けている。しかし、遂行責任でいいのか。よくよく考えてみれば、責任という漢語には強さはあるものの、“responsibility”の定義としてはちょっとアバウトな気がする。「責任をとる」や「責任感」などという表現では、いっこうに責任という概念が鮮明になってこない。それが証拠に、「きみの言う責任とはいったい何か?」と尋ねてみればいい。ほとんど満足のいく答えは返ってこないだろう。


responsibility

まさしく今書いた「答えを返す」のが”responsibility“の本来の意味だった。これは「レスポンスする能力」のことである。反応する能力とは、打てば響くさまを示す。対話や行為にともなう人間関係において、相手の言動をしっかりと感受して何がしかの反応をしてみせることなのだ。それは一つの能力であり、その能力を発揮することを責任と呼んでいるのである。

常識レベルで言えば、プレゼントされたら「ありがとう」と反応するのも能力。能力がなければお礼の挨拶もできない。仕事上質問を受けたら、その問いに適切な応答を返すのが能力。相手が自分に働きかけてきているのに、御座なりな対応で済ませたり、不言や不実行という無反応でやり過ごしたりするのを無責任と言うのである。テニスや卓球でサーブを打ち返さなければ試合はおもしろくないが、それよりもまず、あのプレイヤーは能力がないと評価される。

他者からの依頼や問いや指示を包括して「刺激」と呼ぶならば、一つの刺激に対して必ず一つの反応を返すのが良識というものである。しかも、誰に対してもどんな刺激に対しても機械的な反応であってはならない。その刺激にのみ有効な反応をしてみせるほどの覚悟がいる。覚悟だからコミットメントであり責任なのである。この話は「他者―自分」という関係だけに止まらない。決意したにもかかわらず自分との約束を守らずに三日坊主に終わるのも、決意に対する無反応を決め込んでいるからである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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