これまで拙い読書論を本ブログで20編以上書いてきた。その延長線上にある断片メモを拾い読みしながら今一度書いてみる。最近、読書――いかに読むか、何を読むか、どのように記憶するかなど――について二十代、三十代の人たちに尋ねられる機会が多い。彼らは「正しい読み方」を知りたがっている。そんな方法があるはずもないし、しかもぼくごときに聞くこともないと思うが、「正読」を求める動機には同情の余地がある。なにしろ本の読み方について義務教育はろくに指導していないのだから。
まず、何を読むかに対するぼくの考えは「必読書考」と題してすでに書いた。あっけないが、「読みたいものを読めばいい」というのが結論。次に、どのように記憶するかであるが、こんなハウツーに躍起になることはない。読書とは本に書かれたことを自分の脳へ移植することではないと割り切るべきだ。忘れたら読み返せばいい。記憶すべき材料ではなく、考えるきっかけを提供するのが読書である。知が統合されれば儲けものだが、それを最初から目指すべきではない。読書による知のネットワーク形成には読書以外の経験や技術が求められる。それは別の機会に書く。いまここで書きたいのは、考えるきっかけを前提とした場合の「いかに読むか」である。
2015年版年賀状で読書をテーマにして28種類の本の読み方を書いた。半分ギャグなのでまじめに読むと馬鹿を見るが、半分は本気で書いたから少しは参考にしてもらえたかもしれない。
さて、十代から現在に至るまで、いろんな読み方を試してきた。そして、「いかに読むか」の前に「何のために読むか」を置いてみると、読書行為が自分の経験や知識に行き着くことがわかった。読書とは読み手の経験や知識と照合することである。そこに書かれていることと自分とを照合せずに読むことなどはできない。照らし合わせることによって、知らないことやすでにわかっていることを新たに考えるようになるのである。
考えることに迷いや苦しみはつきものである。だから本を読みながらも時には迷い苦しむ。楽しもうとしているのだけれど、読書は決して楽ではないのだ。スポーツ選手は好きな競技を楽しもうとしているのに、試合中はずっと迷い苦しんでいる。一瞬たりとも楽はできない。それと同じ感覚が読書にも現れる。
迷い苦しみ考えること、そのことがやがて楽しみになること――苦痛ゆえに楽しいという被虐的な読み方がぼくの理想である。このことさえ可能になるなら、拾い読み、速読、精読など、どんな読み方であってもいい。たとえば米国の哲学者であり心理学者であるウィリアム・ジェイムズは「読書のコツは拾い読み」と言い切っている。同感である。これで十分に思考の刺激になってくれる。
では、速読はどうか。先に書いた「どのように記憶するか」という点に関して言えば、速読はほとんど役に立たない。すでにある程度内容がわかっている以外の本には無力だ。「私は速読コースを受講し、『戦争と平和』を20分で読めるようになった。あれはロシアに関する本だ」と、ウッディ・アレンは速読を小馬鹿にして言っている。但し、脳のパターン認識力を粗っぽく刺激したければ少しは役に立つかもしれない。
速読自慢の誰かに未読の哲学書、たとえばハイデガーの『存在と時間』を手渡してみる。数時間で速読してみせると豪語しても、ほとんど何も記憶に残らないだろう。それはいいとしても、考えるきっかけにすらならないはずである。ちょっと齧ってみればわかるが、一つの術語の理解だけでもそのくらいの時間がかかる。このような、「本を読む」ということばが適切でない書物があるのだ。「本を考える」と言うべき書物である。たまにはそんな本に出合って思考をレベルアップしてみる。そのときに読書への認識も深まることは間違いない。ハイデガー研究者で知られた木田元は「ハイデガー自身が舐めるようにアリストテレスを読んだ」と書いている。しかも「テキストの伝統的な読み方を根底から覆すような読み方をしてみせる」と言う。精読主義者が精読しなければならない本を書いたというわけである。ともあれ、考える行為として読書に向き合えば、おそらく精読するしかないだろう。
あれもこれも読みたい本は日に日に膨れ上がる。かと言って、読んでどうなるのかと自問するとき、別に急いで読むことはない、どうせ速く読んでも何も残らないと諦観する。そして、文学作品を除くかぎり、とりあえず一読・通読などという強迫観念を捨てて、潔く拾い読みしながら精読すればいいというスタイルに落ち着く。ある主題があってまとまりのある数ページ――場合によっては段落単位――をじっくりと読む。それだけで十分に立ち往生して苦しみ考え抜かねばならなくなる。その後の浄化作用は格別なのである。書棚の本を再読する。傍線や欄外メモを眺めていると、年月が経って読む箇所、考えるきっかけとなる箇所が変わっていることに気づく。
先週、哲学者中村雄二郎の『読書のドラマトゥルギー』の一節に刺激を受けた。その一節を引用して本読みのモノローグを終えることにする。
ときに迷路に入ってしまうこともあるだろう。迷路に入りこんで出られなくなっては困るけれども、まったく迷うおそれのない道というのは、歩いていて愉しくない。迷うことをとおして、私たちの惰性は揺るがされ、あらためて自分と世界との関係を見なおすようになる。そういう仕掛けが、読書という人間経験のうちにあるのである。