イメージとことば

禅宗に〈不立文字ふりゅうもんじ〉ということばがある。二項対立の世界から飛び出せという教えだ。無分別や不二ふじは体験しなければわからない。不二とは一見別々の二つのように見えるものが、実は一体であったり互いにつながっていたりすること。分別だらけの日々に悪戦苦闘していては、人は救われない。無分別、不二へと踏み込むことによって、人は悟りへと到る――こんなイメージである(いま、ことばで綴った内容を「イメージ」と呼んだ。この点を覚えておいていただきたい)。

ところが、悟ってしまった人間が言語分別ともサヨナラしたら、もはや現実の世界を生きていくことはできない。なぜなら、現実世界では二項が厳然と対立しており、ああでもないこうでもないと言語的分別によって意思決定しなければならないからだ。何もかも悟ってみたい(そのために学びもしている)、しかし、それでは実社会とかけ離れてしまう。このあたりのジレンマを鈴木大拙師は次のようになだめてくれる。

「人間としては、飛び出しても、また舞い戻らぬと話が出来ぬので、言葉の世界に還る。還るには還るが、一遍飛び出した経験があれば、言語文字の会し方が以前とは違う。すべて禅録は、このように読むべきである。」

ぼくたちにとって、悟りの修行に打ち込むような機会はめったにない。と言うことは、言語と分別に浸る日々のうちに脱言語・無分別の時間を作り出すしかない。はたしてそんなことができるのだろうか。


冷静に考えれば、イメージとことばを二項対立と見なすこと自体が勘違いなのだ。広告業界にしばらく身を置いていたが、「コピーとデザイン」を分別する場面が目立った。文字とビジュアルが別物だと錯誤しているクリエーターが大勢いたのである。「今は言語だ、次はイメージだ」などと作業の工程と時間を割り振りすることなどできるはずがない。このように言語をイメージから切り離してしまえば、さすがに過度の言語分別に陥る。戒められてもしかたがない。

「右脳がイメージをつかさどり左脳が言語をつかさどる」などという脳生理の知識も、イメージとことばを対立させたように思う。脳科学的にはそんな役割があるのだろうが、イメージ一つも浮かべないで文章を書くことなどできないし、ことばが伴わない絵画鑑賞もありえない。ことばは脳内で響き、イメージは脳内に浮かぶ。右脳の仕業か左脳の仕業か、そんなこといちいち調べたことはない。ただ、ことばもイメージも同時に動いていることは確かである。

人は言語なくして絵を描くだろうか。ことばが生まれる前に人類は絵を描いただろうか。「テレビを見てたら、チンパンジーが絵を描いていたよ。ことばがなくても描けるんじゃないか」と誰かが言っていたが、チンパンジーは絵など描いていない。与えられた筆と絵の具で、人の真似よろしく戯れているだけだ。絵を描くのは非言語的行為などではない。大いに言語作用が働かねば、対象も題材も何も見えず、鉛筆で一本の線すらも引けない。

ラスコーの洞窟壁画は24万年の間で諸説あるが、クロマニョン人は当然ことばを使っていた。言語的に処理されていない絵やイメージなどがあるとは到底思えないのである。もっとも、イメージから独立した話す・書くもありえないだろうし、聴く・読むとなるとイメージとことばが協働していることがありありと実感できる。イメージはことばに変換されるし、ことばもイメージに塗り替えられる。そもそも言語とイメージはコインの裏表、不可分の関係にあるのだ。これが冒頭段落の最終文の意味。極論すれば、ことばはイメージであり、イメージはことばなのである。

普遍的ということ

定義原理主義者ではないけれども、〈普遍〉という概念について書こうと思えば、世間一般に流布している定義を避けて通るわけにはいかない。定義に手を抜くと、小うるさい連中から問い詰められたりもする。煩わしいが、まずことばの定義から始めることにする。

あまり知られていないが、パスカルが〈定義〉について遵守すべき3つのルールを次のように示している(原文をアレンジした)。

1.定義しようとしている用語”W”以外に明快な用語がないならば、Wを用いればよい(つまり、定義の必要なし)。

2.少しでも不明なところがある曖昧な用語なら、そのままにしてはいけない(つまり、必ず定義すること)。

3.用語を定義する時は、完全に知られているかすでに説明されていることばだけを使うこと(つまり、定義しようとしている用語Wを、WまたはWの一部で定義してはならない)。

1.は問題ない。「餅」を「米を蒸してつき、粘りのあるうちに丸や四角に形を整え、そのまま食べることもできるが、固まったものを保存して後日調理して食べる食品」などと懇切丁寧に定義しても、何が何だかさっぱりわからない。餅は「もち、モチ」でいいのである。餅を知らない人はそれをどのように理解すればいいのか。餅に出合って何度も食べて体験的にわかってもらうしかない。

議論や会議をする時の出発点で共通認識が必要だから、2.のルールも納得できるはず。簡単なようで、とても厳しいルールが3.である。なぜなら、空腹を「腹がすくこと」と新明解国語辞典のように定義すれば、ルールに抵触してしまうからだ。利益なども「利」や「益」という漢字抜きで定義しづらいし、「社会適応力」という表現を定義しようものなら、「社会」や「力」を重複して使わざるをえなくなる。


さて、本題の〈普遍的〉である。辞書には「広く行き渡るさま」とあり、転じて「きわめて多くの物事に当てはまること」を意味する。「普遍的な性質」と言えば、若干のニュアンスの相違はあるものの、「共通の性質」と言い換えてもよい。しかし、「共通」に目ぼしい対義語は見当たらないが、「普遍」には「特殊」または「個別」というれっきとした反意語が対置する。要するに、普遍的とは特殊でも個別でもないということだ。

さほど深く考えて普遍的という語を使っているのではないが、おおざっぱに「いつでも、どこでも、誰にでも当てはまること」をそう言っている。では、「これは世界に普遍的な現象である」などと言う時、一つでも例外があってはいけないのか。まさか、そこまでストイックである必要はない。そんな厳密な意味で使っているはずがない。ならば、どんな状況を普遍的と形容すればいいのだろうか。

一例を示そう。「私は食べることにおいて量ではなく質を重んじる」という文章において、主語の「私」を「あなた」「彼」「彼女」などと置き換えることができ、なおかつ「わたしたち」や「あなたがた」や「彼ら」に置換してもおおむね原文が成立するようなら、その文章のメッセージを普遍的と見なしてもよいと思われる。但し、「おおむね」であってもよい。一部の例外があるからと言って普遍が成り立たないわけではない。そこまで杓子定規で寸法を測ることはない。「ケースバイケース論」が大手を振らず、影を潜めるようなら、その事象を普遍的と称してもいいのである。

二項対立と二律背反

一見酷似しているが、類義語関係にない二つの術語がある。誰かが混同して使っているのに気づいても、話を追っているときは少々の表現の粗っぽさには目をつぶってやり過ごすので、その場で指摘することはない。つい最近では、〈二項対立〉と〈二律背反〉を混同する場面があった。この二つの用語は似ているようだが、はっきりと違う。

二律背反とは、テーゼとアンチテーゼが拮抗している状態と覚えておくのがいい。たとえばディベートの論題を考えるときに、論題を肯定する者と否定する者の立場に有利不利があってはならない。現実的にはどちらかが議論しやすいのだろうが、ほぼ同等になるように論題を決め記述するという意図がある。「ABである」に納得でき、「ABでない」にもうなずけるとき、両命題が同等の妥当性で主張されうると考える。

これに対して、二項対立は、本来いろんな要素を含んでいるはずの一つの大きな概念を、たった二つの下位概念に分けてしまうことである。人間には様々な多項目分類がありうるにもかかわらず、たとえば「男と女」や「大人と子ども」のように極端な二項に分ける(老若男女とした瞬間、もはや二項ではなくなる)。方角は東西南北と四項だが、世界は「西洋と東洋」あるいは「北半球と南半球」と二項でとらえられることが多い。「先進国と発展途上国」でも二項が対立している。


なお、二項対立と二律背反には共通点が一つある。それは、多様性に満ちているはずの主張や議論や世界や対象を、強引に二極に単純化して考えることだ。明快になる一方で、二つの概念がせりあがって鋭く反発し合い、穏やかならぬ構図になってしまう。とはいえ、二項対立の二つの概念は対立・矛盾関係にあるものの、もともと一つの対象を無理やり二つに分けたのであるから、支え合う関係にもなっている。「職場と家庭」や「売り手と買い手」には、二項対立と相互補完の両方が見えている。

金川欣二著『脳がほぐれる言語学』では、「ステーキと胡椒」も二項対立扱いされている。「おいしい焼肉」の極端な二項化と言えるが、少しコジツケっぽい。傑作だったのは、「美川とコロッケ」。両者が属する上位概念も対立もうかがえないが、相互に補完し合っているのは確かである(美川憲一が一方的に得をしているという説もあるが……)。

二項対立は、ある視点からのものの見方であり定義なのである(だから、人それぞれの二項があってよい)。また、いずれか一方でなければ必ず他方になるような概念化が条件である。たとえば、「日本と外国」において、「日本で生まれていない」が必然的に「外国で生まれている」になるように。ところで、知人からのメルマガに「情緒と論理」という話があった。日本人は情緒的でロジックに弱いという主張である。日本人は同時に情緒的にも論理的にもなりえるから、両概念は二項対立していない。同様に、「感性と知性」や「言語とイメージ」なども、つねに併存または一体統合しているので、二項対立と呼ぶのはふさわしくない。

以上の説明で、二項対立と二律背反を混同することはなくなるだろう。但し、これで一安心はできない。難儀なことに、二項対立は「対義語」と区別がつきにくいのである。この話はまた別の機会に拾うことにする。

人を象徴するもの

ここ二、三年、目線がリテラシー、思考、言語に向いている。仕事上の場数のお陰で、ずいぶんいろんな人たちと付き合ってきて、ようやく他人の発想メカニズムが見えるようになってきた。少し話せば、ものの見方や考え方の特徴がある程度わかる。もうしばらく付き合えば、頭の使い方の上手・下手までも診断して処方してあげられる。さらに、その人の長所を減殺している固着観念が何であるかもだいたいわかる。

別に予言者であるかのように自分を持ち上げているのではない。よく他人を観察することの意味、他人のどこを見るかというコツがつかめれば、将来の予言は無理だとしても、「おそらくこんな人だろう」と言い当てることくらいは誰だってできるようになる。占いの専門家には悪いが、人間というものは、手のひらや水晶やトランプや生年月日や星座にではなく、ことばの使い方や仕事ぶりや日々の暮らし方により強く象徴されると思う。

「あの人は背が高く、ハンサムであり、金回りがいい」などというのも、その人の形容である。いろいろある特徴から目ぼしいものを引き出したという意味で、この表現は彼を「抽象」したものと言える。しかし、こんな特徴はまったく個性的ではない。希少なようで案外そうではなく、「背が低く、不細工であり、金がない」と象徴される人たちと同数かそれ以上いるような気がする。身長や美醜や貧富ごときで人を知ろうとするのは甘い。この意味で、雑誌によく掲載されている心理テストの類も胡散臭い。


人間は「言語的動物」という表現によって象徴される。鳥類が「飛翔的動物」であり、魚類が「泳流的動物」であるように。ぼくたちはことばで羽ばたき、ことばで泳いでいる。どこを? 人間関係が複雑に入り組んだ社会環境を。ことばをよく用いないということは、鳥が羽ばたくことをやめ魚が泳ぐことをやめることに等しい。ことばを鍛錬することは環境適応のための必須要件なのである。

言語は思考に先立つ。このことをリテラシー能力でつまずいている人たちに何度も伝えている。外部環境から遮断された状況で、書きも語りもせずに、沈思黙考することなど不可能なのである。沈思黙考という四字熟語はお気に入りの一つではあるが、これは多分にイメージ的であって、現実的に考えることとは違う。むしろ脱言語的世界に没入して、「思索よりは詩作」するような感じではないか。

その人が何を考えているか。一つの質問に対する答え方でわかる。その人の書くこと、語ること、意見を交わすこと以外のどこに、その人の思考の痕跡を見い出すことができるのか。どこにもない。人間が言語的動物であるかぎり、言語のありようを見れば人がわかる。

「きみ、よく考えているか?」
「はい」
「じゃあ、その考えていることを、一つぼくに聞かせてくれないか?」
「できません」
「なぜ?」
「うまく表現できないのです」
「……」。

これを、考えているがうまく話せない状態と勘違いしてはいけない。「考えていないから話せない」のであり、「話さないから考えられない」のである。思考の活性度は言語の活性化によって高まる。大江健三郎に『「話して考える」と「書いて考える」』という本があるが、言語と思考の関係をとらえて言い得て妙である。

寡黙から失語へ

「ことばの実感」。少し奇異な表現だけれど、どんなものだろうか。ことばを使っているという実感。「読む・聴く」は認知系なので受け身のように思われるが、獲物を追うように読んだり聴いたりすることもある。そんな時は、こちらからもことばの矢を放ちことばの網を張っている。反応的ではあるが、かぎりなく「ことばを使っている」という状態に近い。とは言え、その状態が可能になるのは、「書く・話す」という主体的・能動的言語活用があってのことだ。

少々背筋が寒くなる話だが、丸々一ヵ月間一人で暮らし、まったく言語を使わない状況を想像してみる。実際にやってみてもいいのだが、おぞましい人体実験になるような予感がする。新聞や本を読んでもいいし、テレビを観たりラジオを聴いたりしてもいい。しかし、ことばを書いたり発したりする行為は一切禁じられる。誰かと話すというのもダメである。この時、わずか一ヵ月ではあるが、ぼくたちにどんな変化が起こるだろうか。実は、パソコンに向かう日々はかぎりなくこれに近い。

文字を読んだり音声を聴いたりしているので、完璧に非言語的環境に隔離されるわけではない。しかし、日記やメモを書いたり独り言を喋ったりすることができないのである。つまり、読んだり聴いたりすることに対してリアクションが許されない。ただ読みっぱなし、聴きっぱなしである。こんな状況で、ぼくたちはことばの実感を持ち続けることができるのだろうか。「考えるという行為にはことばの使用実感がある」と思いたいが、残念ながら、ことばを使用するからこそ思考実感が起こるのである。ことばを書き話すことが制限された状況で、はたして考えることができるのだろうか。


直前の段落で「~だろうか」と二度問いはしたが、答えが「できない」であることくらいはわかっている。一人だったら、人はことばを使わなくなる。使わないからことばが磨かれることもない。デリケートな意味合いも徐々に失われていくだろう。読んだり聴いたりするだけでは、自分に向かってくる道の意味は形成されるが、こちらから世界に出て行く道の意味は生まれてこない。ことばは、インプットとアウトプットという頻繁な出入り、自他間の活発な意味の往復運動によって鍛えられる。そうして、やがて思考も強靭になっていく。

寡黙が美談だったのも今は昔。そんなことでは、情報化社会を生き抜けるはずがない。いや、いつの時代も、人間関係の第一要件は「おしゃべり」だったのだ。言語と思考の不可分な一体性を思えば、語ることをおろそかにしてはならないのである。空理空論に雄弁であっても、日々のコミュニケーションに手を抜いてダンマリを決めこんでいては行動が伴わない。日々の寡黙は失語を招く。ちょうど、毎日歩かないとやがて歩けなくなるように。

話さない者は話せなくなる。現実の世界を無批判的に生き、疑念の一つも抱くことなく、時間を流し時間に流されて生きていく。こうしてことばの実感が失われていく。ことばの実感とは自己の実感である。自己が感じられなくなれば、いっさいの可能性も消失する。いや、可能性が残るとしても、その有無を誰かと論争する必要があるだろうか。昨日と同じ今日、今日と同じ明日でいいのなら、言語は影に隠れ、やがて不在となる。そして、言語に不要のラベルを貼った瞬間、もはや思考は起動しなくなる。

人が話さなくなるきっかけはいろいろある。成人の場合は、都合が悪くなったりジレンマを抱えたりしてうろたえ、やがて口を閉ざすようになっていく。遅疑逡巡するとことばの出番が少なくなるのである。

明快表現のパラドックス

「意味の共有」はコミュニケーションの重要な原義の一つであった。他者に自分の意図を伝えて理解してもらうことであるから、現在もなお必要不可欠なコミュニケーションの機能である。言うまでもなく、言語を通じて共有化する意味は、不得要領ふとくようりょうであるよりは明快なほうが望ましい。丁寧で遠回しな表現では意味理解に時間を要する。むしろ、少々露骨であっても単刀直入な言い方のほうが意味は伝わりやすいのである。

対象や現象をものの見事にピンポイントで表現できればどんなに気持ちがいいことか。しかし、百万言を費やしてもそんな気分になれることは稀である。語彙が豊富な表現上手にとっても、最適語でメッセージを言い表わそうとする課題はおそらく生涯つきまとうに違いない。対象や現象なら、文字通り、ある程度「かたどどられている」が、観念や感情の意味となると、つまびらかに語り尽くし書き留めるのは難業である。

繰り返すが、ある事柄の輪郭を鮮やかにとらえてその内実を浮き彫りにするのは容易ではない。だが、自分と他者が意味を共有するためには避けて通れない試練である。にもかかわらず、ぼくたちはなぜその試練に立ち向かわないのか。好球を必打するようにことばを駆使しようともせずに、なぜ敢えて表現を迂回させようとするのか。迂回とは持って回った婉曲的語法のことである。差し障りのないよう、穏やかに、また露骨にならぬよう「ぼかしことば」を頻繁に用いるのはいったいどうしてなのだろうか。


人にはトラウマがあったり語りえぬ苦悩があったりする。社会には触れてはならぬタブーがあり、他者の心情や人権への配慮が求められる。今さら肝に銘じるまでもなく、まずまずの良識を備えていればわかることである。そう、良識ある人々は差別的表現を遠ざけようと意識する。差別的なことばは具体的で直接的な表現の一種なのである。ある意味で、名と実が近接して関係が明快なのだ。明快であるからこそ具合が悪い。したがって別のことばに言い換える。ここにぼかしことばの出番がある。

数年前からボケや痴呆症を「認知症」に言い換えようと厚労省が主導してきた。言い換えても実体に影響を及ぼさないが、従来の表現で苦痛を覚えてきた人たちの気持ちをやわらげることはできる。それでも、『ボケになりやすい人、なりにくい人』という書名の本は存在するし、普段の会話では「痴呆症」ということばを耳にする。差別語論はさておき、痴呆のほうが明快であり事態の深刻性を醸し出している。認知症を病だと「認知」していない人もいる。「認知していればそれでいいではないか」というわけである。

言い換えられた新語で傷つく人もいる。人にはそれぞれの痛みの「ツボ」があり、すべてのことばが万人に快く響くわけではない。婉曲表現のそのまた婉曲表現などということになれば、意味を共有するどころか、会話そのものがなぞかけ合戦と化してしまう。表現をぼかせば通じにくくなり、これではいけないとばかりに明快な表現を用いると相手に棘が刺さってしまう。これが明快表現のパラドックスである。パラドックスではあるが、別に悩むことはない。綱渡りさながら明快な表現を探し工夫することに躊躇する必要などさらさらないのである。

「知っている」の意味

すっかり身近になった用語の一つに〈パラダイム〉がある。起源はギリシア語だが、ラテン語“paradigma”を経由して英語の“paradigm”へと変化した。接頭辞“para-“には「並べて」という意味があり、この語根をもつ単語はけっこう多い。パラダイムはもともと「範例、模範、典型」などのことだが、一般的には「ものの見方」や「知の枠組」という意味でも使われるようになった。ものの見方や知の枠組は自分に固有なものと思いがちだが、発想や知識は、時代と文化の制限をかなり強く受けている。

あることを部分的に知らないという理由だけで、その人を無知呼ばわりすることはできない。知識の無さや知恵の無さをひっくるめて意味するのが無知だ。ゆえに、無知は無知以外の何物でもなく、その状態に程度というものはないのである(無知な人は自らが無知であることすら知りえない)。これに対して、「知」はいろんなレベルの階層に分かれる。ピンからキリまでの「知っている」がありうるのだ。ほとんど内実を知らないくせに「知っています」と見栄を張ることもできるし、よく承知していても「少しだけ知っています」と謙遜することもできる。

W.V.クワイン著『哲学事典』の「知識(knowledge)」の項に、「『知る』という語は『大きい』と同じように、程度の問題として受け入れる方がいい」という記述がある。教訓的な助言だ。「知識とは真の信念である」ものの、信念の背後にある裏付けには確実性と曖昧性がつきまとうから、真なる信念の確からしさによってのみ「何かを知る」ということがありうるのだろう。「私は政治を知っている」という主張そのものは政治の知識の程度を示してはいない。知の多寡は精細な裏付けの検証によってようやく判明するものかもしれない。


前掲書の当該項目の後段に「いかに・・・を知ることとできる・・・ことが交換可能である」という行がある。「知る」と「できる」が同じ意味で使われるのは、ヨーロッパ諸言語に顕著な事例である。たしかに方法を知っているということは「できる」ということになるのだろう。英語で“I know how to swim.”は、ほとんどの場合“I can swim.”を意味している。もっと言えば、「~の方法を知る」とは「~を知る」ことにつながり、それは自ずから「~ができる」ことでもあるのだ。ゆえに、“I know chess.”は十中八九“I can play chess.”と同義になる。

「チェスを知ってる?」
「うん」
「じゃあ、やろうよ」
「いや、できない」
「なんだ、知らないじゃないか!?」
「名前は知っているけど、駒の動かし方はわからないんだ」
「それを知らないと言うんだ!」

ありそうなやりとりだが、不自然な会話にも聞こえてくる。ぼくたちも英語圏の人たちと同様に「知る」や「知っている」を使う。「チェス? 知っていますよ」と日本人が言う時、ゲームの名前、ゲームの方法、ゲームの道具のどれについて語っているのかは即座にわからない。もっと神妙に考えてみると、仕事や読書や趣味についても、いったいぼくたちは何をどのように知っているのだろうか、と不安になってくる。パラダイムが「並べて示す」であるなら、胸を張って知をずらりと並べることなどできそうもない。


仕事を知っていると言うのは簡単だが、プロフェッショナルの程度はどのくらいか。その本を知っているのなら、何をもってそう言いうるのか。こんなふうに自分が知っていると信じていることを順に問い詰めていくと、ほとんどの事柄に関して「聞いたことがある」や「名前だけ知っている」に変更せねばならないことに気づく。知識が真の信念の域に達しているのならば、誰かに説明できるはずである。もし暗黙知の次元に達していてことばにできないのなら、「できる」というお手本を示せるだろう。

knowkncancnを比べて見よ」とクワインは言う。なるほど似ているが、同一語源かどうかまでは不明だ(もしかすると、こじつけかもしれない)。しかし、「ドイツ語ではもっと明白で、kennenkonnenという語になっている」と言われてみると、「知る」と「できる」の酷似性が際立ってくる。少なくとも、知には「行動知」という要素があることを認めざるをえない。「知っているけれど、できない」を容認してはいけないのだと思う。できないことは知らないことに等しいのである。

ことばを遊ぶ

暇つぶしに辞書を読む人がいた。調べる対象となる用語を決めて読むのではなく、調べるついでに別のページをめくって読むという感覚らしい。ぼくにもそんな覚えがある。ある語を調べたついでに辞書の中を徘徊していたという経験なら誰にでもあるに違いない。但し、手持ちぶさたなときに首尾よく辞書が手元にあるとはかぎらない。それもそのはず、辞書を携えて外出することなどほとんどありえないのだから。また、辞書というものは、時間と場所をわきまえずに引けるものでもない。

それにしても、ことばには我を忘れさせる愉快な魅力がある。辞書にのめり込むと、飛び石伝いにことばは別のことばへと連なっていく。たとえば、一昨日のブログでたまたま「曲学阿世」という四字熟語を使った。そして、書いてからしばらく凝視していたら、阿世の「阿」という文字が気になってきた。大阪市内の南東部にある「阿野」という地名は身近な存在である。同じ「あべの」でも、近鉄の駅は「阿野橋」と書く。「倍」と「部」の違いがある。こんなことを思い巡らすうちに、阿がますます不思議な造形に見えてきた。

阿は、表記としては稀だが、「阿る」という動詞として使われる。クイズ番組の国語の問題に出そうな難読字で、当てれば「ファインプレイ!」と褒められるだろう。「おもねる」と読む。へつらうという意味だ(へつらうも漢字で書けば「諂う」で、これまた難読字だ)。ここから先、辞書世界に埋没していくことになる。「阿諛あゆ」という語を思い出して調べ、これが世間に媚び諂うという意味で阿世に通じていることがわかる。阿とは「山や川の曲がって入り組んだ箇所」だと知る。阿と安は万葉仮名の「あ」を代表している……などなど。


略語系はやりことば
これも遊べる。遊びというよりも「もてあそび」に近い。ぼちぼち「古い!」と言われそうだが、“KY”なる略語に未だに違和感がある。これで「空気読めない」としたのはセンスが悪いのではないか。KYなら「空気読める」の略でなければならない。空気が読めないのなら“KYN”ではないか。あるいは“Not KY”だろう。“AKB48″は「あくび48回」と読める。「今年はお世話になりました、来年もよろしくお願いします」を“KONRYO”とするのはやり過ぎかもしれない。

ツイッター
タレントが元夫の不倫をツイッターで流した一件で、「ツイッターはつぶやくものだから、あんなメッセージは度を越している」と誰かが言えば、「もはやツイッターにそんな原初的な純粋機能などはない」と別の誰かが反論している。すべてのことばは早晩発祥時の意味を変えて、はやったり廃れたりしていく。ことばが生き残るかぎり、意味は変遷しおおむね多義を含むようになる。よく語の起源はこうだった、にもかかわらず現在はズレてしまったなどと批判されるが、変化を批判しても詮無いことである。ツイッターは「つぶやき」を起源としたかもしれないが、誕生と同時に「無差別ばら撒きビラ」の機能も併せ持ったのである。

草食系
一年ほど前の調査だが、肉食系を「貪欲で積極的に活動する人」という意味にとらえ、対して、草食系が「協調性が高く優しいが、恋愛などに保守的になりがちな人」と考える傾向が明らかになった。動物界では、草食系のほうが肉食系よりも行動的な気がするのだが、どうだろう。猛獣は明けても暮れても動かないし、食事は腹八分目で比較的禁欲的である。草食系の協調性は保全のための群れの行動である。草を求めてよく移動するし、肉食系よりも食欲旺盛ではないか。

ことば遊びに正解はない。遊びの本領はイマジネーションにある。そして、ことばの意味についてあれこれと思い巡らすことが、おそらく概念的に考えるということにつながっている。

対話と雑談

「根っからの」と言えるかどうかはわからないが、ぼくが対話好きなことは確かである。口論は好まないが人格尊重を前提とした激論なら歓迎する。ぼくは議論を対立や衝突の形態と見ていない。ゆえに、ジャブのように軽やかに意見を交わすようにしているし、必要とあればハードパンチを打ち合うこともある。このようなぼくの対話スタイルは少数派に属する。そのことをわきまえているつもりだから、対話に慣れない人たちが議論などおもしろくないと思うことに理解を示す。

だが、一人であれこれ考えるより少し面倒でも対話をしてみるほうが手っ取り早い。他者と意見交換してみれば容易にテーマの本質に迫ることができるのだ。一人熟考するよりも、あるいは読書を通じて何事かを突き詰めていくよりもうんと効果的だと思うのである。トレンドが起こるとアンチトレンドが煽られるように、ある立場の意見は対立する別の「異見」によって照らし出される。意見対立を通じて見えてくる知の展望に比べれば、反論される不快さなどたかが知れている。挑発的な質問や当意即妙の切り返しの妙味は尽きないのである。

たしかサルトルだったと思うが、「ことばとは装填されたピストルだ」と言った。拳銃のような物騒な飛び道具になぞらえるのはいささか極端だが、対話や議論のことばには弾丸のような攻撃的破壊力がある。猛獣のように牙を剥くことさえある。たいていの人はことばの棘や牙に弱く、免疫を持たない。たった一言批判されようものなら顔を曇らせる。しかし、少々の苦痛を凌ぐことができれば、対話は有力な知的鍛錬の機会になりうる。論争よりも黙殺や無視のほうが毒性が強いことを知っておくべきだろう。口を閉ざすという行為は、ある意味で残酷であり、論破よりも非情な仕打ちになることがある。


何事にも功罪あるように、対話が息苦しさを招くのも否めない。かつて好敵手だった同年代の連中の論争スタミナも切れてきて、議論好きのぼくの面倒を見てくれる者がうんと減った。また、若い連中は遠慮もあってか、検証が穏やかであり、なかなか反駁にまで到らない。この分だと、これからの人生、一人二役でぼやかねばならないのか。だが、幸いなことに、対話同様にぼくはとりとめのない雑談も愛しているから、小さな機会を見つけては興じるようにしている。対話には屹然きつぜんとした線の緊張があるが、雑談には衝突や対立をやわらげる緩衝がある。雑談ならいくらでも「茶飲み友だち」はいる。

雑談の良さは、ロジカルシンキングの精神に逆らう「脱線、寄り道、飛躍」にある。「ところで」や「話は変わるが」や「それはそうと」などを中継点にして、縦横無尽に進路を変更できる。雑談に肩肘張ったテーマはなく、用語の定義はなく、意見を裏付ける理由もない。何を言ってもその理由などなくてもよい。対話と違って、雑談の主役はエピソードなのである。「おもしろい話があるんだ」とか「こんな話知ってる?」などの情報が飛び交ったり途切れたり唐突に発せられたりする。

対話は知的刺激に富むから疲れる。かと言って、対照的に雑談が気晴らしというわけでもない。なるほど「今から雑談しよう」と開会宣言するようでは雑談ではない。また、「ねぇ、何について雑談する?」などと議題設定するのも滑稽だ。原則として雑談に対話のルールを持ち込むのはご法度なのである。けれども、雑談をただの時間潰しにしてしまってはもったいないので、ぼくは一つだけ効能を期待している。脳のリフレッシュ。ただそれだけである。

内容と表現の馴れ合い

ずいぶん長い間、情報ということばを使ってきたものだ。まるで呼吸をするように使ってきたから、立ち止まって一考する機会もあまりなかった。実に様々な文脈で登場してきた情報。ぼく自身も知識という用語から峻別することもなく、情報、情報、情報と語ったり書いたりしてきた。但し、数ヵ月前に本ブログの『学び上手と伝え上手』で書いたように、見聞きする範囲では情報という語の使用頻度は減っている気がする。

それでもなお、この語がなかったら相当困るに違いない。見たままなら「情けを報じる」である。「情け」というニュアンスをこの語に込めたのはなかなかの発案だった。一説に森鴎外がドイツ語を訳した和製漢語と言われているが、確かなことはわからない。確実なのは、広辞苑がここ何版にもわたって「ある事柄についての知らせ」という字義を載せていることだ。「知らせ」であるから、知識でも事件でも予定でもいいし、情けであってもまずいわけではない。

情報ということばは多義語というよりも、多岐にわたる小さい下位の要素を包み込んだ概念である。固有の対象を指し示すこともあるが、ほとんどの場合、具体性を避けるかのように情報ということばを使ってしまう。「情報を集めよう」とか「情報化社会において」とか「情報発信の必要性」などのように。つまり、内容を明確にしたくないとき、情報の抽象性はとても役に立ってくれるのである。


先に書いたように、情報は「事柄」と「知らせ」の一体である。内容と表現と言い換えてもいい。ぼくたちが欲しいのは情報の内容であることは間違いない。ところが、情報はオーバーフローするようになった。そして、ここまでメディアが多様に細分化してしまった現在、内容よりも「知らせ方」の意味が強いと言わざるをえない。知らせ方とは受信側からすれば「知り方」である。その知り方を左右するのは、情報を表現するラベルや見出しだ。

こうなると、内容あっての表現という図式が怪しくなってしまう。内容がなくても、表現を作ってしまえば内容らしきものが勝手に生まれてくるからである。情報価値などさほどないがラベルだけ一人前にしておく、あるいは、広告でよく見られるように、同じ商品だが表現だけをパラフレーズしておく。実際、近年出版される本の情報内容は、タイトルという表現によってほとんど支配されているかのようである。さらにそのタイトルが帯の文句に助けてもらっている。

眼が充血したので眼科に行けば、その向かいに耳鼻科の受付。『春子は、春子なのに、春が苦手だった』というポスターが貼ってあった。かつて見出しは『花粉症の季節』のようなものだったに違いない。そして、それは花粉症対策の必要性という情報と乖離することのない見出しだったはずである。ここに至って、本来の医療メッセージが、花粉症に苦しむ女性、春子さんに下駄を預けている恰好だ。これなら『夏子は、夏子なのに、夏が苦手だった』も『冬雄は、冬雄なのに、夏が好きだった』も可能で、これらの表現に見合った情報内容を後から探してもいいわけである。

情報内部で内容と表現が馴れ合っている。そして、ぼくたちはろくでもないことを、目を引くだけの表現で知らされていくのである。ことば遊びは好きだが、情報を伝えるときに表現を弄びすぎるのはいただけない。