論より証拠???

諺は嫌いなほうではない。諺を自分なりに解釈するのが発想のトレーニングに役立つようなので、時々立ち止まってみる。諺の多くは反面教師でもある。「である」になるほどとうなずく一方で、「ではない」にも一理ありと共感する。長年ディベートの指導をしてきたので、そういう見方が習性になっているのかもしれない。

 「論より証拠」が口癖になっている人もいるだろう。ディベートにおいては、論の質や流れを評価できないジャッジがついつい証拠びいきになってしまう。証拠の中身をしっかりと見てくれればまだしも、証拠の量で議論の勝者を決めてしまう(ちなみに、ディベートでは証拠のことをエビデンス=evidenceと呼ぶ)。

 証拠を並べ立てた議論はおもしろくない。まるで調査報告を聞かされているみたいだ。証拠は必要。しかし、5分の主張のうち4分が証拠の引用というひどい立論スピーチは退屈である。証拠至上主義になると、論理思考、臨機応変の表現、理由づけがおろそかになる。

 「証拠より論」という逆説を100パーセント持ち上げる勇気はないが、「論も証拠も」という新説があってもよい。証拠なき論を「空論」と批判するのなら、論なき証拠に「空知」という皮肉を献上しようではないか。  少しニュアンスは違うが、「論より証拠」が「花より団子」に通じるように感じる。いずれも実利優先の命題だ。最近ディベートの審査がおもしろくなくなってきたのは、まずいお団子をたらふく食べさせられるばかりで、議論に花がないからだろう。

気分的にはディベート指導の一線を退いたつもりではあるが、個性的な花が咲き競うようなディベートを愛でてみたい―内心、そう思っている。

聞き上手の話

話すことに関しては達者だと自負する二人。いつもわれもわれもと喋るので、口論が絶えない。二人は猛省して、『聞き上手』に関する本を読んだ。皮肉なことに同じ書物だった。

後日、精読した二人が再会した。お互い睨みあって一言も発しない。延々と時間が過ぎ、日が暮れた。それでも二人は口を開けようとしなかった。二人が読んだ本にはこう書いてあった。

「相手を尊重して、先に喋ってもらうこと。それが聞き上手の第一歩だ」


聞き上手というのは、質問上手であり、傾聴力にすぐれているということ。寡黙だけれど聞き上手という人にはあまり出会ったことがない。

「議論は知識のやりとり、口論は無知のやりとり」。これは、あるアメリカ人コメディアンのことばだ。以前の二人は無知のくせに喋るから口論になっていたのだろう。無知のまま聞き上手に変身することなどできない。知識をバックボーンにして少々のユーモアで味付けすれば、口論は議論へと止揚する。

人間誰しもわがままに自分に酔う。この習性をよく理解すれば、マーケティングセオリーにも応用がきく。

顧客はエゴイストである。

顧客はナルシストである。 

牛乳を飲むか、牛乳を配達するか?

もう15年も前の話である。人間ドックで「健康心得ガイド」なるものをもらった(もちろん、そんな古い小冊子はすでに手元にはない)。しっかりと記憶に残っているのが、紹介されていた英国のジョーク。「牛乳を毎日飲んでいる人よりも、牛乳を配達している人のほうが健康である」。

ともすれば運動よりも栄養指向に傾きかけていたぼく自身への警鐘と受け止めた。それにしても、なかなかの命題である。このジョークは「ことばの階層」について、二つのことを教えてくれている。

1.具体性

だれが読んでも、「運動>栄養」という図式を自嘲気味に納得してしまう。もし、階層上位の「運動は栄養よりも健康体をつくる」となっていたら、「ちょっと待てよ」と保留者が続出し、是非論にまで発展しかねない。「環境保全か社会貢献か?」というような四字熟語を用いると、二項対立してしまうのだ。

ある企業では、「環境保全 vs 社会貢献」とご丁寧にも“vs”を入れたため、排中律の激論になってしまった。階層下位の「自然を守る」と「ゴミを拾う」にしておけば、「森へ行って空き缶を集める」という折衷もありえただろう。

2.軸移動

飲料を「配達物」として機敏にとらえたユーモアの味付け。軸をずらされて苦笑する。牛乳は飲料のみにあらず、運ばれるものでもある。牛は草を仕入れ、体内で乳を生産し、その乳を人間が盗み、水増しして売りさばき、瓶に詰め込むという一連の別シナリオが見えてくる。

事物には人間が意図した特性と、意図はしたが忘れかけている特性と、まったく意図していない特性がある。これら三つの特性を冷静に眺めれば発想も豊かになるに違いない。