観光ブームの光と影

観光の専門家でもなければ都市論に精通しているわけではない。それでも、行政で政策形成の研修に何百回と携わり、二千以上の企画案を指導し評価してきた。そのうち、観光をテーマにした企画は少なく見積もっても500事例はあったはずである。きわめて偏った視点かもしれないが、観光について私見を披歴する資格はあると思う。と言うのも、外国人観光客が増えて本格的ブーム到来との声高らかであるが、実際に観光都市に赴くと残念な場面に遭遇するからだ。

観光客のための街づくりという考え方にぼくはくみしない。旅人だけに指向して整備された街はやがて飽きられるし、俄か観光地の振りをするにとどまる。そうではなく、住民がふつうに日常生活を送っていなければならない。彼らの生活と固有の歴史文化がケレン味なく融合して観光資源になっているのがいい。フィレンツェ、ボローニャ、ウィーン、パリ、バルセロナに滞在してみれば、生活空間と観光価値が自然発生してきたことがわかる。もちろん、これらの都市でも観光客を対象にした政策やビジネスは存在する。けれども、その都市ならではの固有の特性までは損なわれていない。土産物通りが出しゃばって主役の歴史を食うなどということがないのである。

わが国はどうか。残念ながら、観光に強いと言われる都市にさえ、観光客向けの強い作意を感じてしまう。観光客のための意匠が歴史地区の持ち味を土足でけがしているのである。魅力ある街のほとんどは、観光地である前に、歴史的文化的キャンバスの上で生活を営んでいるものだ。

日常〉にない〈異種体験ハレ〉を求めるのが旅の本質だろう。ふだん見慣れた光景とは異なる印象を刻み、思い出を振り返る。観光とは「光を観る」。旅人たちは珍しい光を観に来るのである。ここまでは、パッケージツアーでも個人旅行でも変わらない。観光の質に雲泥の差が出るのは、現地での行動の裁量と自在性である。ツアーならどこに行って何を見るか、何を食べてどこで泊まるかに意を払わなくて済む。個人旅行は自由度が高いが、何から何まで自前で調べ決めなければならない。事前知識と現場での情報が食い違っても、自己責任で対応しなければならないのである。


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個人旅行者は見知らぬ観光地にあって的確な情報を求める。ガイドブック、地図、交通路線図、そして観光案内所は不可欠である。観光案内所が近くになければ住民らしき通行人か店で尋ねることになる。ぼくのヨーロッパの旅のほとんどは、目新しい光を観るばかりでなく、わからぬことを人に尋ねる旅でもあった。国内の出張時でも、下手に邪推などせずに人に聞く。ご当地の人はある意味で権威なのだから。今年の一月、広島の県北で研修を依頼され、初めての地に赴いた。JR広島駅までは何の手引きもいらなかったのは言うまでもない。

大阪を出る前に電話で問い合わせておいた。備北交通の高速バスで美土里バスターミナルへ行きたいと言えば、JR広島駅の南口を出て右手に手前からABCとターミナルがあり、14:05発はCから出発すると説明してくれた。心強い。さて、Cターミナルに行けば、行先が5つほどに分かれていた。何度も行先と時刻表をチェックするが、ぼくの目的地の表示が見当たらない(後でわかったことだが、微熱でぼうっとしていたぼくの見落としだった)。不安になりバス待ち人に尋ねるも、同じ行き先の人はおらず、「知らない」。誰に聞いても「知らない」。最後に尋ねた人は「もしかして北口では」と言う始末。もし北口が正しいなら、もう間に合わない。階段の上り下りがあるし、手ぶらで速足でも7、8分はかかるから。

焦ってもどうにもならない。冷静さを取り戻して、向かいのBに停まっているバスまで行き、運転席の窓ガラスをノックして運転手の注意を引いた。面倒臭そうな顔をして運転手が窓を開ける。行き先を告げCで合っているのか確認した。すると、運転手はこう言ったのである、「これはH電バス。お宅が乗る高速バスは他社だし、その路線はよくわからない」。最終手段である専門家に聞いてもわからないならしかたがない。腹をくくってCで待った。案ずるより産むが易しと言うべきか、ぼくは無事に現地に着いた。

別に怒り心頭などしなかったが、観光ブームの影のほうを目の当たりにして呆れ、がっかりした。広島の良識ある人々がどんなに観光都市宣言をしても、交通や地理についてプロの運転手たちが自社以外に関して「情報鎖国」をしているかぎり、旅人は満たされることはない。観光地に到着する前に、ぼくたちは公共交通を使うのである。そこでの印象が旅全体に、ひいては街の印象に及ぼす影響は少なくない。バス会社間の連携はおろか、情報共有すらできていない状況でどんな観光都市を目指すのか。観光でメシを食っているプロたちが自らの商圏にとどまる。問われても、それ以外のことはわからないで済ませる。ちょっと調べてあげよう、誰かに聞いてみようと思わない。瑣末なことだと言うなかれ。名所旧跡だけが観光ではないのである。

PR、サービス、魅力」が観光立国の3要件であるとはよく知られているが、サービス向上は未だに道険しと言わざるをえない。別に言わなくてもよかったのに、世界に向けて「おもてなし」と有言してしまった。今のところ、理想と実態の格差を浮き彫りにした恰好である。

続・大笑いするほどではないけれど……

“It”の話  今年のゴールデンウィーク、キャサリン妃に女の子が生まれた。あの「街の告げ人」であるおじいさんは“It’s a girl!”と言った。赤ん坊と言えども人間だ、なのに“it”(それ)とは失礼な、とネイティブでない人たちは思ったらしい。女の子だから“She’s a girl.”ではないのかと。いやいや、赤ん坊は“it”でいいのである。この主語に特に意味はない。“It rains.”(雨が降る)の“it”みたいなもので、「それ」と言っているわけではない。だいいち「それは女の子!」だと言うはずもないだろう。「彼女は」とか「彼は」と言えば、もう性別は明らかになってしまう。“He’s a boy!”などは「一見、女の子に見えるけど、実は男の子なんだ!」というニュアンスになる。あのおじいさんは「赤ん坊は女の子!」と告げたのである。

ミニホットうどん (2)

定食屋の話  仕事柄いつどこにいても文字や表現を真剣に見る。看板も店員の名札もメニューも。注文の品が出てくるまでは壁に貼ってあるポスター類に目を配る。ある定食屋で壁に掲げたお品書きに気づいた。コロッケセット、いいだろう。ミニ冷しうどん、いいだろう。では、その下のミニホットうどんって何なのだ!? ふつう「うどん〈温・冷〉」と表記するが、「ミニホットうどん」なのである。「温」ではなく「ほっと」でもなく、カタカナで「ホット」なのである。これはおそらく日本初のアヴァンギャルドではないか。

傾聴力の話  傾聴力の話をしていたのに、誰かが「盗聴力」と言い間違えた。最初明らかに言い間違いだと思ったが、彼は傾聴と盗聴が同じだと思っていたかもしれない。両者には一所懸命に聴くという共通の意味がある。

ディベート活動をしていた頃、ホテルの会場を予約してくれた女性は電話口で「関西ディベート交流協会」と言った。「念のためにファックスしたほうがいいよ」と助言したが、彼女はそうしなかった。開催当日、会場前には「関西リベート協会」という貼り紙があった。以前、薬局で「眼精疲労」と言ったら、「男性疲労?」と聞き返された。欲しいのは目薬、精力剤ではない。言い間違いに聞き間違い、結構ある。

まさかと思うだろうが、従弟いとこ徒弟とてい紅葉もみじ紅茶こうちゃ落葉おちば落第らくだいなどの読み間違いも少なからずあるらしい。ワープロ全盛の今、手書きの書き間違いは枚挙にいとまがない。

鮨屋の話  今日ランチタイムのピークを過ぎた鮨屋に入った。店内25席だが、誰もいない。あいにくお目当ての海鮮丼は売り切れ。十貫の並にぎりを注文してしばし待つ。耳に入ってくるのは鮨屋らしくないBGM。曲が変わり、次はトワ・エ・モワ。♪ 今はもう秋 誰もいない海 ……。タイミングが良すぎる。「今はもう昼過ぎ、誰もいない店」と即興替え歌の一丁上がり。ちなみに、この曲を引き継いだのは加山雄三。茶化すネタはなかった。

翻訳の話  英仏伊の文章を読む時には面倒でも辞書を引くようにしている。自動翻訳システムが文法に弱いことを知っているので、決して頼ることはない。しかし、馬鹿げた日本文に苦笑することになるのだが、たまに腕前を見てやろうと思うことがある。先日、m(_ _)m という顔文字の下に「翻訳を見る」という表示があったので、クリックしてみた。初めて自動翻訳の完璧な訳にお目にかかった。訳された結果は m(_ _)m だった。

机上と現場

ふと6月上旬のことを思い出した。珍しく出張が少なく、ほとんど大阪にいた。休みの日に出掛けてもなるべく近場で済まし、散歩もいつものお決まりの経路、毎朝毎夕の自宅とオフィスの行き来もほぼ同じ道を辿っていた。こういう日々が半月ほど続くと発想やものの見方が変異するのがわかる。感じること、語ること、書くことののことごとくから現場感覚が引き算されてくるのである。行為する自分――状況や物事に接する自分――の観察眼が弱まっていく。道すがら光景を見ているはずなのに、実は見えてなどいない。旅先なら、出くわすものを頭で考える前に条件反射的に観察できるというのに……。

装飾的な感じ方や書き方をもう何十年も遠ざけてきたから、今さら嘆くには及ばない。現場に居合わせて写実しているつもりが装飾過多になり、やがては心象の描写にも転移して自己満足に陥ることを知っている。けれども、このことを差し引いても、あの6月前半は変調だった。オフィスと自宅の机に交互に向かいながら、現場とつながる感覚がもっとあってもいいはずだと反省しきりだった。出張や旅に出掛ける時の、あの「しばしそこに佇む」という余裕がなくなっていた。〈いま・ここ〉に集中せよと人に言っているくせに、今ではなく「次」がいつも頭のどこかに引っ掛かっていた。大袈裟に言えば、形而上学的なまなざしだけを机上に向けていたような気がする。

その6月の中旬に一泊二日で検査入院することになった。翌週の診察時、病院の待合室で小林秀雄の『平家物語』の一節を久々に読む機会があった。

(……) 整然とした秩序のなかで、細々とした自然描写は無用であろう。伊吹山が見えたら、見えたと言えば足りる。大磯小磯を打過ぎてで充分だ。動いていく重衡の肉体は、もうしっかりと動かぬ自然に触れている。(……)
自然の観照について、細かく工夫を凝らした夥しい文学に比べてみれば、「平家」は、まるでその工夫を欠いているように見える。あの解り切った海や月が何とも言えぬ無造作な手つきで、ただ感情をこめて摑まれる。


この一節を読んで、現場感覚の量が減ってきたとか、物事に接しての描写が不器用になったなどと神経過敏にならなくてもいい思い、少し気が楽になったのである。よくよく考えれば、現場に身を置いて感じているつもりがまったく感じていないことがある。数え切れないほどの現場経験を積んでも、その経験が茫洋としたままのイメージでしか再現できなければ威張れない。では、イメージの代わりに飾り立てることばをふんだんに用いればどうか。いや、それでもなお、言いえぬ思いは空回りするだけだ。現場での経験を過剰に粉飾しなくてもいいのだろう。むしろ感覚を想像力で抱擁し、素直なことばで仮止めしておくことに意味があるのだろう。

木漏れ日

木々の中をそぞろ歩きする……樹間から射してくる光、繁る葉で狭められる空、名も知らぬ鳥の啼き声三つ、四つ。そこでは、静寂であるだとか深閑であるだとかの観念的な表現は浮かんでこない。二次的に処理されたことばに出る幕はない。しかし、部屋に戻って文章を書き始めると、徐々に現地の印象が希薄になり、加工しようとする意識が優勢になってくる。現場での視聴覚体験から机上の思考へと軸足が動く。机の前に座る時間が長くなると、必然机上の空論を弄することになるのである。

おびただしい形容詞で細密描写したからと言って経験が生かされているわけではない。たとえ机に向かっていても、現場とつながっていれば思うことの表現は簡素かつ平明であってもいいのである。むしろそのほうが再現性に優れていると言えるだろう。ところで、このように一文を結んで知らん顔して終えるのに苦はないが、現場の経験と机上のことばを簡潔につなぐには高級な知が働かねばならず、ぼくごときにとっては道は険しいと言わざるをえない。

習作した頃 #4

  占拠

 

深夜、物音に気づいた。機械の擦れ合うような音だった。時折り小さな部品を勢いよくぶつけ合っているような音が紛れ込む。その音がひときわ強く聴覚を刺激した。

まず「軽量の金属製品を町内の誰かが運んでいるのだろう」と推理した。しばらくして、その推理が気配と食い違っているように感じたので、夜逃げだろうか? と推理した。いや、馬鹿げている。突拍子もない思い巡らしに苦笑してしまった。もしかすると、泥棒か? とすると、ちょっと厄介だと思ったが、とっさに身を起そうとしない自分に不条理なまでに安堵している。察するほど危険が迫っていないことを自身の落ち着きぶりが証しているかのようだ。

時計は零時四十三分を示していた。こんな時刻に何事かと怪訝に思うばかりで、頭も気持ちも冷めていた。もし泥棒の仕業ならこの時刻の営みは常識的だろうが、音を立てるのは未熟者に違いないと思ったりした。
占拠

形のない空想が頭をよぎり始める。焦点の定まらぬ視線の先には影すら見えない。ただ音が聞こえるだけである。視覚は意味を失い、聴覚が上滑りする。この時点で、無視を決め込むにはやや神経が昂ぶりかけていた。それでも、身体は鈍感なままで動きたがらない。窓を開けて外の様子を窺えばよかったのだろうが、それをしなかった。依然として音は止んでいなかったが、いずれ止むに違いないと自分に言い聞かせ、少々昂ぶっている神経をなだめようと努めた。

読みかけの推理小説が余すところあと二、三十ページだ。ちょうどクライマックスに差し掛かっているところでもある。愉しみを放棄してまでわざわざ聴覚を研ぎ澄ますことはない。そう考えると、気にするほどの音でもないような気がしてきた。読みかけの箇所に戻り、前の段落をざっと読み直してから先に進んだ。

それでもなお、小説と並行して、無視しえない現実の筋書きを別の回路で追いかけようとしているのに気づく。

(もうパジャマに着替えたしなあ……一度ベッドに潜ってしまうと朝まで身体を起こす気にはなれないんだ……)

こうなると、頼りは三軒隣りの爺さんしかいない。朽ちたような瞼をこすりながら寝間着姿で外へ出て大声で怒鳴りつけてくれる望みはある。耳は遠いが、爺さんは皺だらけの皮膚で音を聴く。あの年季の入った集音装置がいつまでも物音を聞き流すはずがない。

いや、ちょっと待てよ。爺さんは末娘の所へ出掛けていて、自宅にはいないかもしれない。そう言えば、この二、三日見掛けていない。きっとそうだ。爺さんは不在なんだと早々と見切る。爺さんに期待できなければ、喫茶店の女房あたりはどうだろうか。あの女なら血の気も多いし、町内のささいないざこざにも口を挟むのだから、この異様な物音を聞き捨てるはずはない。(お節介な耳と冗漫な口と贅肉を型にはめたらああいう女が出来上がる……)
爺さんの入れ墨のような顔の皺、喫茶店の女房の豊満な体躯を思い浮かべているうちに、物音が聞こえなくなっていた。いや、実は依然として消えてはいなかったのかもしれないが、気がつけば本に戻っていた。小説の筋書きに不安、緊張、愉快、興奮と一通りの感情の起伏を乗り越えて、とうとう読み終えた。最後のページに深く荒い鼻息を吹きかけた時には、すでに物音は止んでいた。時計の短針は四十五度近く動いていた。

全神経を外部と小説に向けていたから、部屋と自分への感覚は麻痺状態に陥っていた。いま物音からも小説からも解き放たれて、ようやく我に返った。

気がつくと、部屋には得体の知れない金属のような物体が現れていた。不思議なほど恐怖心を抱かない。それどころか、懐かしささえ覚えながら物体に近づき右手を差し伸べてみた。しかし、触ることができない。指が、手の甲が、手首が突き抜けてしまう。そうか、これは幻影か……そして、物音は幻聴だったのか……かと言って、そう感じている自分は幻なんかじゃない。朝方に目が覚めたら幻は終わっているだろう。いや、終わっていてほしい。いつまでも続いたらたまったもんじゃない。ぐったりするほど疲れていた。そして眠りに落ちた。

読了した本は傍らに置かれたままだった。虚構の文字世界に生まれた『占拠』と題された作品は、いま現実の世界に寄生し始めたようだった。朝方になっても、また次の日も、さらに何日も寄生状態は続いた。ある日、寄生が終わった。寄生の終わりは別の状況――占拠――の始まりだった。そして、来る日も来る日も視聴覚的存在として部屋を支配し続けた。

岡野勝志 作 〈1970年代の短編習作帖より〉

文体とイデオロギー

いきなりイデオロギーなどと書き出すと怖気づく人がいるが、恐がるほど難しいカタカナ術語ではない。まず、ぼくたちは判断や行動に先立って考える。これはいいだろう。状況を見ながらそのつど考えることもあるが、拠り所となる体系があっておおむねその枠組みで考える。このような体系は個人的なものではなく、生きている時代や集団的慣習、支配的な思潮によってほぼ形作られる。マルクスはこのイデオロギーを社会階級固有のものとして考えたわけだ。たった一人だけのイデオロギーなど聞いたことがない。イデオロギーは集団的な観念体系なのである。

あるイデオロギーが生まれて浸透する背景には集団を成す人たちがいる。思想や政治に限った話ではない。観念であるから必ずしも不変ではない。また、流行とも無縁ではないので、一過性のつながりのはずのミーハー的グループでもイデオロギーは生成される。生成されはするが短命に終わるのが常であるから、また別のイデオロギーに取って代わられたりする。業界用語や専門用語を口癖のように交わす企業集団にもイデオロギーは根づく。常套的な共通言語で意思疎通する異業種交流会もイデオロギーの匂いをプンプンさせている。あまり好きな匂いではないが、だいぶ嗅がされてきた。

文体とイデオロギー

集団内の言語はイデオロギーによって色付けされる。主義や流派が似ていれば話法や文体、語彙も似てくるものである。1970年前後の学生オルグなどはメッセージも表現も似たり寄ったりだった。オルグに励む当事者たちはそのことに気づきにくい。たとえばエゴイストだらけの集団では、一人称による主観的な主張が幅を利かせる。日本語に主語はいらないと言われるが、話の中身をよく聞けば隠れた主語が自ずとわかってしまう。主語が言明されていなくても、「思う」と言えば一人称で話しているのと同じ。一人称で綴り始めると構文はある程度限定され、よく似た内容や表現が生まれやすい。


文末を決定する動詞を工夫すればいろいろな変化も可能だという意見もある。しかし、いったん「私」を主語にして思いや体験、心象を述懐したり他者に伝えたりしてみればわかる。たいてい「思う」「考える」「感じる」などで終えるしかない。そして、「私は……と思う」という構文で文章を綴れば、同一イデオロギー内では「……」に入るメッセージもたいてい同じになる。私小説などはこんなふうに綴られる。ある日常について「私が感じ思うところ」を書けば、動詞が制限され、名詞を形容詞で修飾するようになり、毎度毎度よく似た文体の文章を綴ることになる。少し礼を尽くした手紙の場合も同様で、時候の挨拶や社交辞令を安売りするような定型文でしたためられる。

文体がイデオロギーを醸成し、イデオロギーが文体に影響する。読み書きのリテラシーとイデオロギーは不可分の関係から免れにくい。関係を切り離したければ、人称や動詞の音読み・訓読みのバランスを取り、文章は長短を織り交ぜ、重文や複文にも踏み込んでみる。要するに、あの手この手でアヴァンギャルドなスタイルを試みるしかない。

ところで、ぼくたちは理解し考えることを書く。理解し考える内容は読んでいる本と強く関わっている。読むリテラシーが高まってくると様々なジャンルの本でも手の内に入ってくる。しかし、どんなジャンルの本を読もうと、底辺の観念体系は似通ってくるものだ。「いろんな本を読んでいる」と胸を張っても、知らず知らずのうちに特定イデオロギーのお気に入りばかりが増えてしまうのである。こうして、イデオロギーゆかりの文体も一緒に身についてしまう。誰もがこうなるわけではないが、人生も半ばを過ぎてしまったら、このほうが楽になる。

同一著者の本だけを数年単位でまとめて読んでみると、著者の文体が自分の文章スタイルの中に徐々に忍び込んでくることがわかる。名文家の書物を読めと先人たちが勧めてきたのは、文体の刷り込みがおこなわれることの証にほかならない。先に書いたように文体は観念の形成と無縁ではない。読み慣れた文体を通じてイデオロギーが徐々に自分の内に浸透してくる。あらゆる刷り込みや洗脳というのはこうして深化していくものなのである。このことを是とするか非とするかは自分で決めるしかない。

「君の読む本を言いたまえ。君の人柄を言い当てよう」(ピエール・ド・ラ・ゴルス)が成り立つなら、「君の読む本が君の文体でありイデオロギーである」くらいは朝飯前に断言できそうである。

インクの色で気分一新

夏の休暇の過ごし方――人混みと遠出を避ける、近場を歩く、落ち着いた喫茶店でアイスコーヒーを飲む、本屋に立ち寄る、映画館に入る、たまに質素に外食する、等々。他にもいろいろあるが、威張るようなハレの行動は何一つない。自宅ではだらっとして本の拾い読みをするか音楽を聴くか、欧州紀行のテレビ番組を観るか、思うところがあればノートに文章を綴り、機が熟せばパソコンに向かって活字にする。この小文はいきなりキーボードを叩きながら書いている。

この十数年、少し長めの海外の旅を企てた時は閑散期に休みを取る算段をしてきた。それとは別に、世間と同期する長期休暇が当然ぼくにもやって来る。鋭気を養えればいいが、なにしろこの暑さである。暑気が意欲を萎えさせマンネリズムを助長しかねない。そう、八月の休暇には倦怠や疲労のリスクが潜むのである。この時期の過ごし方は難しい。うまく気分一新を図って多忙な秋に備えなければならない。

マニアでもコレクターでもないが、万年筆で気晴らしをすることがある。最近、拾い読みした数冊の本に偶然万年筆の話が出てきた。そのうちの一冊にドイツ文学者の高橋義孝の随筆がある。

「古本を買ってきて、中にセピアのインクで線が引いてあるのを見ると、ヨーロッパの十九世紀の学者の書斎をちょっとのぞいたような、たのしい気持がする」

別に何と言うこともない文章なのだが、こういう一文に刺激を受けることがある。このくだりに気持が少し弾み、「そうだ、万年筆の手入れをしよう」と思った。このペンにはこのインクと思いつきで決め、一度決めると数年間踏襲することが多い。万年筆の適材適所に応じてインクの色を見直すことにした。十数本所有する万年筆のうち、よく使うのは五本。この五本にそれぞれの役割を決めてインクを入れ替えてみた。三日前のことである。


万年筆インク替え

あれこれと悩んだ挙句、万年筆とインクの「パートナーシップ」を決めた(写真、左から順に一本目、二本目……)。

一本目。パリで買ったウォーターマン。外国で初めて買った万年筆だ。やや太字。はねや曲線の微妙な書き味に難があるが、どんな紙の上でもまずまずなめらかに走る。誰かのまとまった話を聴きながらノートを取るのに向いている。これにはフロリダブルー〉というインクを合わせた。

二本目。加藤製作所製の万年筆。握りがぼくに合っていて速筆しやすいペンである。このペンは自分が何かを考えて書くのに向いている。どんなインクがいいかずいぶん悩んだが、買った当時から使い続けている〈ロイヤルブルー〉しか思い浮かばない。そのまま継承することにした。

三本目。モンブランのマイスターシュトゥックNo.149。十万円超の万年筆だが、こんな高価な逸品を自腹では買わない。幸いなことにこれは頂きものだ。細字なのであまり気に入らず、めったに使わなかった。しかし使わなければ永久になじまない。食わず嫌いをしてはいけないと思い、数年前から時々使うようにしている。署名をしたり一文だけ書き添えるのによい。条約締結などの場面で重宝されてきたのもうなずける。この五本の中では実用性に乏しく出番が少ないのは否めないが、「見せびらかしの万年筆」としては高級腕時計以上に威力があると万年筆達人が言っていた。インクは複数候補の中から、ひとまず〈ラピスラズリ〉を指名。

四本目。廉価版のシェーファー。ペン先にやや弾力があるので、筆圧を変えれば細くも太くも書ける。数行の文章向きと判断して、誰かが書いた原稿や企画書の添削やコメント書き込みに使うことに決めた。神戸INK物語シリーズの甲南マルーンという名の〈ワインレッド〉を充填した。青を使っていた頃とは雰囲気が一変する。書き味までよくなったような気がするから不思議である。

五本目。小ぶりなペリカンの細字。細字の割にはインクの出も悪くないので、小さな用紙に小さく書くときに重宝していた。しかし、それなら水性ボールペンでも十分。そのためペンケースに入ったままということがよくあった。先の高橋義孝の一文の「セピアのインクで線が引いてある」がヒントになって、この万年筆を読書時に使うことに決めた。すでに試し始めたが、大胆に傍線を引き欄外にメモを入れるのに都合がいい。手元にあった地味な〈セピアグレー〉をインクに選んだ。線の引き始めと引き終わりに滲みが出ていい感じである。

大人の独学

英国首相だったウィンストン・チャーチルがおもしろいことを言っている。

「私としては、いつでも学ぶ姿勢をとっているつもりだ。ただ、教えられるのが好きじゃないだけなのさ。」

まったく同感である。ぼくの学校時代、生徒に自発的な学ぶ姿勢などはほとんどなく、ただ教えられることだけが習慣化されていた。学生からすれば教えられることが教育のすべてであり、教師からすれば教えることが教育の主眼であった。教え教えられるという単純な構造が教育であった。社会に出てこの構造から解放されたにもかかわらず、大人たちの大半は未だにこの習慣に縛られている。誰かに強制されているのではなく、勝手に自縛状態に陥っている。

独学

学ぶ意欲が横溢し学ぶ姿勢もスタンバイしているのなら、誰かに教えてもらうことなどない。「大人なのだから」というのは説得力のない理由だが、そう言うしかない。大人なのだから、いい加減に受動的・反応的に教えられる態度を改めて、能動的・主体的に学ぶ姿勢に切り替えるべきなのだ。言い換えれば、学びの他力から独力への転換である。独力とは、デカルトが言うように「理性レゾンの力」だ。この一点においてのみ、子どもの学習と大人の学習が峻別されるのである。

学校で解答を間違ってもペーパー上で減点されるだけである。減点、つまり成績が悪いことがその後の人生と無関係であるとは言わない。しかし、一枚の紙ごときで人生の何事が決められるのか、決められてたまるものかと意地を張ることはできる。他方、実社会で誤れば、減点はペーパー上ではなく、生活上や仕事上ひいては人生上に罰としてはねかえる。だからこそ、集団教育内の過ちから得るのとは比較にならないほどの教訓をぼくたちは社会での失敗から学ぶことができる。他力によって教えられる学校よりも、独力によって学ぶ社会のほうが、人生の真理に近いのである。


厳密に言えば、独学と独習は異なるが、ここでは一括りにして独学としておく。学校に通わず先生にもつかず、もっぱら本を頼りにして自分で内容とレベルを想定するのが独学である。自力がすべてであり責任も自己に帰着する。他方、脱権威の自在性があり自由裁量があり、他の誰かと異なる固有の、しかも非体系的・・・・な学習が可能になる。だが、独学は孤独である。その覚悟はしなければならない。社会に出てからのぼくはつねにそうしてきた。生活と仕事の現場と本以外の手段から教わったことは一度もない。だから物事の体系などあまりわからない。いっさいの資格を持たない。学者ではないからそれで困ったことはない。

大人になってからの集団学習は、必要悪とまでは言わないが、教育の創造性欠如による妥協策にほかならない。みんなで学ぶのは一人で学ぶよりも何となくいいのではないかという程度の認識で「集団共学」がおこなわれている。だが、これほど効率が悪いものはない。ある人は教わる事柄の何十分の一しか学ばず、仕事に役立てることもままならない。レベル分けされている資格系の学びを除けば、たいていの実学系講座は受講対象者を問わない。足りているものばかり教わって、足らざるものは依然として不足気味。教師や教材も選べない。強い学びの意欲があれば上位者と席を同じくして伸びる可能性があるが、その可能性が開かれた者は独学もできてしまうはずである。

己に厳しいハードルを課して高みを目指すなら独学に限る。しかも、効率的なのである。みんなと一緒に学ぶという心理的安心感に見切りをつけて独学すれば、教えられる共学などという甘えた精神で学ぶ者たちに負けることはない。彼らのほとんどは知らないことを学ばず、知っていることをただなぞるだけなのだから。朱に交わっても赤く染まらぬ。強い個人として思想を鍛える。本を読み、熟考し、意見を構築し、誰かをつかまえては対話をし、折りに触れて考えるところを書いてみる。このようなやり方で資格を取得するのは難しいが、資格などどうでもいい人間にとっては、独学は個性的な知性を形成する最上の方法であるとぼくは思っている。

「そう言うあんたは私塾や研修で教えているではないか!?」という反論が聞こえてくる。それは誤解である。ぼくは学校の先生のように教えていない。そもそも教えなどしていない。大した人物ではないが、独学してきた一存在として自分の経験と知識を教材として、あるいは語りとして提供しているにすぎない。学び手にとって一つの触媒になれれば本望なのである。

調べる、調べない、思い出す

経験や知識がどのように記憶されているかについて日々めったに気にすることはない。「今年一番印象に残っていることは?」と聞かれてはじめて、読んだ本の書名と著者名を思い出し、また旅先での印象を語ることができる。精度はともかく、少しでも語れるのは記憶に残っているからだ。

遠近法

経験や知識は、ある部分ではイメージとして、また別の部分ではことばとして記憶の複雑な体系を成している。但し、現物の書類やファイルのように整理整頓されているなら取り出しはさほど難しくないが、〈記憶の図書館〉ではディレクトリーがはっきりと決まっているわけではない。年月のラベルがでたらめだったり、いざと言う時に思い出が想起できなかったりする。

ぼくは36歳の時の1987年に起業した。その数年前から1995年頃まで香川県高松市に毎年二、三回出張していた。本四架橋である瀬戸大橋が開通したのが創業年の前後という記憶はあるが、正確な年度は(今この文章を綴っている時点で)思い出せない。十年以上の空白があって、ここ数年は再び高松からお呼びがかかる。その時代に比べて讃岐うどんがすっかり全国区になった印象がある。

さて、今は新大阪から岡山まで新幹線を使い、岡山から高松へは快速マリンライナーで大橋を渡る。その前は大阪の天保山から高松までジェットライナーの海路だった。さらにその前は、新大阪から岡山までは新幹線、岡山から在来線で宇野港まで行き、高松までは宇高連絡船というフェリーに乗っていた。当時は「大阪伊丹空港-高松空港」というフライトがあったので、一度予約したことがあった。あいにくひどい天候不良のため飛行機が飛ばず、急きょ伊丹からタクシーで新大阪へ向かった。得意先の幹部のどなたかに「大阪から高松に飛行機という発想がそもそも間違っている」というようなことを言われたような気がする。


記憶力を鍛えたいという欲求があり、その欲求に応えてくれそうな方法を喧伝するセミナーや書物がある。しかし、上記のように思い出を振り返りながら思うのだ。脳みそのひだに一度刻み込まれた記憶のことごとくをいつも正確に再現する必要などあるはずもない。心象やことばの一部が欠落するのは当たり前だろうし、その逆に、経験とかけ離れて誇張されるのもよくあることだ。年月や場所や経験をデジタル的に完璧に記憶再生をしても、その見返りとして、感覚の誤差や認識間違いという人間味は失われてしまうに違いない。思い出そうとする脳の自然な働きを封じ込めて何でもかんでも調べて確かめるというのは考えものである。

事実に関しては、調べればたいていのことがわかる時代になった。ある事柄を苦労して記憶した人と、ネットで即席的に検索した人との間に現象面での差はない。むしろ、しどろもどろになる前者よりも直近でコピー&ペーストした後者のほうが精度に優れているかもしれない。しかし、文を綴らせたり話をさせてみたらすぐにわかるのだ。点だけを拾い出した調べものと線の記憶を辿ろうと思い出したのとでは熟成度が違うのである。調べることが容易かつ日常茶飯事になった時代だからこそ、「調べるべきこと」と「調べたいこと」と「調べなくてもいいこと」を峻別しなければならない。この三つの棲み分けは、脳を無機的なコンピュータにしないための手軽なコツなのである。

仕事を合理的におこない、経験をかけがえのないものにしたいのなら、調査の役割や要・不要をしっかりとわきまえるべきだろう。ある知識については精度が必要であり、ある経験については精度などどうでもいいことがある。ここで、小林秀雄の『無常といふ事』の一節を思い出す。ちゃんとノートに書いてあるから、それをそのまま書き写す。

「思い出がぼくらを一種の動物であることから救うのだ。記憶することだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。」

調べて覚えることに躍起になる暇があったら、数値や客観的事実に縛られぬ原体験のさわりを思い出そうと努めるべきだろう。想起した事柄は曖昧かもしれない。しかし、曖昧な思い出がデジタル的に再現されたデータよりも劣っていると決めつける根拠などどこにもない。

習作した頃 #3

 神々の論争

 

神々と人々、人々と他の生き物たちを分け隔てているのは何であるか、実はよくわかっていない。神、人間、他の生き物という序列に確定的な根拠など何もない。神は人間よりもはるかに優れているという定説があるが、人間と他の生き物とは紙一重の差だと言われることもある。

神々の世界には時間の観念がない。したがって過去も未来もないから、歴史が存在するはずはなく、つねに現在のみが進行している。人間の尺度でははるか太古の話のようであっても、神々の世界では出来事も神話も普遍である。

城府

蠅が神話世界の城市に棲みついて神々を大いに悩ませていた。神殿にまで神出鬼没しては耳障りな翅音を立てた。神々のことである、およそ大抵のことは神通力で何とか対処できたのだが、この小生意気な蠅どもには功を奏さず、それどころか、蠅どもは神々の焦り疲れるのを嘲笑うかのごとく自在に生を謳歌していた。わが物顔で振る舞う蠅は天下の一大懸案となった。ある満月の夜、壱の神は策を練らねばならぬとついに決断し、重鎮の神々を本城に招集した。

「われらが城市は湿潤温暖の気候にあるがゆえ、生命にとっては好都合なようで、近頃蠅どもがおびただしく発生しておる。汝らの力も及ばず、大いに閉口していると聞いた。さて、そこでだ。ひとつ列席の神々に尋常ならぬ智慧を絞っていただきたくお集まり願った次第である。何か妙案はないものかのう」

弐の神が顎髭を丁寧に撫でながら口火を切った。

「心配無用。いや、実を申すと、かねてより案を練っておったところだ。殺生すれば容易に済む話なのだが、殺生はわれわれの本意であるはずもない。だが、双方――すなわち、われらと蠅ども――を同時に救う手立てがあるのだ。僭越ながら、この妙案は壱の神の御趣意に背くものではないと自負……」

話を言い終えぬうちに、焦れた参の神が割り込んだ。

「もうよい、わかった。早うその先を言わんか!」

「御意。一刻を争っている時に余計な前口上は控えていただきたいものだ」と四の神も語気を強くして続けた。

「まあ、そう急ぎなさるな。昨日今日始まった難儀でもなかろう。そもそもこのように蠅どもが繁殖したのも、参の神、汝の方に因があることを忘れなさるな」と、弐の神が反論した。

小魚が一斉に川面に現れたかのようにざわめきが起こった。

「弐の神よ。言を慎みなされ。過ぎたる事をぶり返すのは潔くない。今宵の集まりはそのような咎め立てを云々することではない!」と、参の神の派閥に属する五の神が追い討ちをかけた。あちらこちらがいっそう騒然としてきた。たまりかねたように六の神が制しようとした。

「見苦しいではないか。少々気を鎮めたらいかがじゃ。皆の心の内は分からぬでもない。だが、弐の神の一案を聞かずして、この有様では話にならぬ。壱の神よ、ぜひともこの場を取り収めていただきたい」

 ところで、弐の神が言うところの「参の神の因」というのはこうである。蠅が湧き始めた頃、神々の間では早々に退治せよという意見と殺生に反対する意見が出た。殺生反対派を牽引したのが参の神であった。殺生せずとも、蠅は天井知らずのようには増殖しない……放っておいても大事には到らぬと、参の神は殺生派の神々を説得した。しかしながら、参の神の思惑とは異なり、蠅は増え続けた。その繁殖ぶりは神事に支障を来すに到った。見かねた壱の神が力を合わせて策を練ろうというのが、この集まりの趣旨であった。

さて、上気した顔をお互いに見合わせて神々は口々に異論や不満を吐き始めた。ほどなく堂々巡りが飽和してざわめきは徐々に消えて小声になり、やがて沈黙の時間が続いた。誰から合図するともなく、皆が壱の神の方に視線を向け始めた。

壱の神は大きく息を吸って、溜息を吐いた。深く刻み込まれた額の皺に掌を当てがって、しばらく黙っていた。皆の視線は熱を帯びて壱の神の口元に注がれた。それに応じるように壱の神はゆっくりと口を開いた。

「汝らよ。未だ聞きもしていない弐の神の腹案とやらがあるが、もうそれをもなかったことにしてはもらえぬか。と言うのも、先程からわしの耳元で数匹の蠅が唸っておる。この耳障りな音は何かを訴える声に相違ない。そう思い、汝らが静かになった直後から耳を傾けていたのだ。蠅も生き物だ。心があるようだ。驚いたことに、われらが神言を操るほどの賢さだ」

堂内はこれ以上ないと言うほど静まり返った。壱の神は続けた。

「これより先は世々代々に亘って神々に随い全身全霊で手を擦り合わせて生きていくゆえ、ぜひとも過ぎたるをおゆるしくだされと申しておる」

神々は恥じらうように項垂うなだれた。目線を落としたまま、両手を合わせて膝の上に置いた。互いに見られぬよう用心しながら、右手は右の太腿の上で、左手は左の太腿の上で、それぞれ微かに手を前へ後ろへと動かし始めた。神々の動作はまるで蠅のようであった。

神々と蠅には聖なることにかけては雲泥の差がある。しかし、事を顧みて自省の念にかられる時の動作は酷似している。神と蠅の位置取りにしてこうであるから、神と人間の差などは、あるようで実際は無いに等しい。当たり前だろう。一応神が神を模して人間を作ったという説が有力なのであるから、似ていないはずがない。今も人間世界では論議や審判をおこなう前に「神に誓う」習わしがある。これは神とそっくりのやり方をするという誓いにほかならない。

岡野勝志 作 〈1970年代の短編習作帖より〉

大笑いするほどではないけれど……

発想のヒントになるエピソードはどこにでも転がっている。エピソードのほとんどはことばを介してやって来る。だから、ことばへの好奇心のアンテナを折り畳みさえしなければ、意識のほうが勝手に拾ってくれるものだ。別の見方をすれば、愛用のノートに採集したエピソードの数がその時々の意識の強弱に正比例する。この一か月、線の加工を施さねばならない硬派なテーマ――たとえばギリシアや国立競技場など――には何度か立ち止まったが、点のまま書き出せるようなレアな小ネタとの縁は希薄だった。それでも、そのいくつかを書き出してみることにする。


魚の話  テレビの番組でハマフエフキという魚が紹介された。こいつが何目の何科かを調べようと思って魚の分類表をネットで調べようとした。「ハマフエフキ」でよかったのに、どういうわけか、「サカナ」と入力して検索ボタンをクリックした。おびただしい魚介類を尻目に、あの「サカナくん」が一番最初に出てきた。もうハマフエフキのことなどどうでもよくなるほど驚いた。

けれども、めげずにハマフエフキを調べた。鯛の種で、鯛はスズキ目。ついでに、イワシはニシン。マグロはスズキ目のサバ科……。目、科、属などのレベルで、これとあれが仲間だと初めて知る。魚だけに「目から鱗」が落ちる。

回文の話  〈知遊亭〉というオンラインの大喜利のイベントで「回文づくり」を出題した。回文とは上下同読のことば遊び。「たけやぶやけた竹藪焼けた」の類い。出題者のぼくもエキシビションとして長文の作品を投稿した。回文づくりにいそしむと、数日間は尾を引く。後日、「ちじのじち知事の自治」や「さんかんびはびんかんさ参観日は敏感さ」などが勝手に浮かんできた。高じてしまうと知恵熱が出たりする。

エッフェル塔

エッフェル塔の話  今では間違いなくパリ観光の集客の目玉であるエッフェル塔だが、建設当時は賛否両論で火花が散った。モーパッサン(1850-1893)は嫌悪していた。それでもパリで生活するかぎり、嫌でも巨大な塔は目に入ってくる。モーパッサンは考えた挙句、ついに塔を見なくてもいい場所を見つけた。「エッフェル塔のレストランで食事をしていれば醜い鉄塔を見なくてすむ」。こう言って、毎日エッフェル塔で食事をしたという。

ニュースの話  ほとんど毎日のように聞くNHK7時のニュース。「7時になりました」という言い方を奇妙に感じた83日(別にその日に意味はない)。どういう経緯で7時になったのか。勝手になったのか。いやいや、人間が便宜上7時にしているだけだ。しかし、ニュース番組のイントロは「7時です」ではなく「7時になりました」で始まる。英語では”It’s seven o’clock.“と言い、形式主語の”it“で暗に時刻を示す。つまり、「時刻は7時です」と言っている。それでいいはずなのに、「7時になりました」なのである。

わが国では(そして、たぶん日本語の特質でもあるのだろうが)、「何々はこれこれである」のように言うよりも「何々はこれこれになった」のほうが共感性が高い。学会でも「こういう結論を導きました」よりも「こういう結論になりました」と言うほうが収まりがいいと言われる。居酒屋の「こちら、焼酎のお湯割りになります」というのもこの亜流だろうか。

インド人の話  同じマンションの5階にインド人が住んでいる。一昨日の朝、エレベーターに彼が乗ってきた。「おはようございます」と挨拶を交わした後、彼のほうからぼくに声を掛けてきた。長年日本に住んでいるから流暢な日本語で「今日も暑くなりそうですなあ」と言う。「この時期の日本はインドより暑いんじゃないですか?」とぼく。「そうそう! インドはこの暑さの七、八分どまりですわ」と彼。「七、八分どまり」という達者な表現に感心した。なお、彼は大阪弁も堪能である。「今日はえらい暑うおまんなあ」とひねることもある。