英国首相だったウィンストン・チャーチルがおもしろいことを言っている。
「私としては、いつでも学ぶ姿勢をとっているつもりだ。ただ、教えられるのが好きじゃないだけなのさ。」
まったく同感である。ぼくの学校時代、生徒に自発的な学ぶ姿勢などはほとんどなく、ただ教えられることだけが習慣化されていた。学生からすれば教えられることが教育のすべてであり、教師からすれば教えることが教育の主眼であった。教え教えられるという単純な構造が教育であった。社会に出てこの構造から解放されたにもかかわらず、大人たちの大半は未だにこの習慣に縛られている。誰かに強制されているのではなく、勝手に自縛状態に陥っている。
学ぶ意欲が横溢し学ぶ姿勢もスタンバイしているのなら、誰かに教えてもらうことなどない。「大人なのだから」というのは説得力のない理由だが、そう言うしかない。大人なのだから、いい加減に受動的・反応的に教えられる態度を改めて、能動的・主体的に学ぶ姿勢に切り替えるべきなのだ。言い換えれば、学びの他力から独力への転換である。独力とは、デカルトが言うように「理性の力」だ。この一点においてのみ、子どもの学習と大人の学習が峻別されるのである。
学校で解答を間違ってもペーパー上で減点されるだけである。減点、つまり成績が悪いことがその後の人生と無関係であるとは言わない。しかし、一枚の紙ごときで人生の何事が決められるのか、決められてたまるものかと意地を張ることはできる。他方、実社会で誤れば、減点はペーパー上ではなく、生活上や仕事上ひいては人生上に罰としてはねかえる。だからこそ、集団教育内の過ちから得るのとは比較にならないほどの教訓をぼくたちは社会での失敗から学ぶことができる。他力によって教えられる学校よりも、独力によって学ぶ社会のほうが、人生の真理に近いのである。
厳密に言えば、独学と独習は異なるが、ここでは一括りにして独学としておく。学校に通わず先生にもつかず、もっぱら本を頼りにして自分で内容とレベルを想定するのが独学である。自力がすべてであり責任も自己に帰着する。他方、脱権威の自在性があり自由裁量があり、他の誰かと異なる固有の、しかも非体系的な学習が可能になる。だが、独学は孤独である。その覚悟はしなければならない。社会に出てからのぼくはつねにそうしてきた。生活と仕事の現場と本以外の手段から教わったことは一度もない。だから物事の体系などあまりわからない。いっさいの資格を持たない。学者ではないからそれで困ったことはない。
大人になってからの集団学習は、必要悪とまでは言わないが、教育の創造性欠如による妥協策にほかならない。みんなで学ぶのは一人で学ぶよりも何となくいいのではないかという程度の認識で「集団共学」がおこなわれている。だが、これほど効率が悪いものはない。ある人は教わる事柄の何十分の一しか学ばず、仕事に役立てることもままならない。レベル分けされている資格系の学びを除けば、たいていの実学系講座は受講対象者を問わない。足りているものばかり教わって、足らざるものは依然として不足気味。教師や教材も選べない。強い学びの意欲があれば上位者と席を同じくして伸びる可能性があるが、その可能性が開かれた者は独学もできてしまうはずである。
己に厳しいハードルを課して高みを目指すなら独学に限る。しかも、効率的なのである。みんなと一緒に学ぶという心理的安心感に見切りをつけて独学すれば、教えられる共学などという甘えた精神で学ぶ者たちに負けることはない。彼らのほとんどは知らないことを学ばず、知っていることをただなぞるだけなのだから。朱に交わっても赤く染まらぬ。強い個人として思想を鍛える。本を読み、熟考し、意見を構築し、誰かをつかまえては対話をし、折りに触れて考えるところを書いてみる。このようなやり方で資格を取得するのは難しいが、資格などどうでもいい人間にとっては、独学は個性的な知性を形成する最上の方法であるとぼくは思っている。
「そう言うあんたは私塾や研修で教えているではないか!?」という反論が聞こえてくる。それは誤解である。ぼくは学校の先生のように教えていない。そもそも教えなどしていない。大した人物ではないが、独学してきた一存在として自分の経験と知識を教材として、あるいは語りとして提供しているにすぎない。学び手にとって一つの触媒になれれば本望なのである。