本と本棚と、時々読書

「無用の用」――つまり、「無用とされるものでも役立つこと」――を否定してしまうと、日々の暮らしやおこないの何もかもが無用に見えてきて空しくなる。だから、一見無用だけれど何がしかの役に立っていると自分を慰めて生きていく。仮に役に立つとまで言えなくても、無用の自浄作用に期待しておく。

本と付き合っていると、この無用感に苛まれながらも、いやいや、本こそ無用の用なのであると思い直す。読書行為において無用と用がせめぎ合う。しかし、無用を無駄だと決めつけていたらこれまで本など読まなかっただろう。少なくとも読書の時間は単純な無駄でなかったことは明らかである。

自宅の何千冊もの本をデジタル化して一台のPC内で所蔵するとしよう。あのことが書いてあったのはどの本だったかと本棚から本棚をさすらうことはなくなる。キーワードを入力して検索すれば、即座にいくつかの候補が見つかる。本を探す時間とエネルギーは省かれる。そして、何よりもありがたいのは、本に支配されている空間が解放されることだ。


だが、よくよく考えてみたら、そのキーワードが頻出語であったりすると、何十冊、何百箇所もの候補がヒットするだろう。おびただしい候補のリストから見当をつける労力は並大抵ではない。もし候補を減らしたければ、キーワードをかなり絞り込む必要がある。キーワードの絞り込みとは詳細に修飾語をトッピングすることだ。それができるためには、検索時点で明確に対象が意識されていなければならない。いずれにせよ、キーワードで抽出された書名や本の一節を見つけ出すのも一苦労なのだ。既読の本であれば、記憶を辿りながら実物の本を探すのと手間暇は変わらないような気がする。

私の本棚

最近『私の本棚』という本を読んだ。二十数名の文筆家らが本と本棚と読書について書いたエッセイ集。本のジャンルに読み手の個性が出るように、本棚そのものも読者のアイデンティティを反映する。おもしろいことに、読書家たちは、本を選び買う以上に、また読書すること以上に、蔵書のやりくりや本棚をどうするかという苦労を背負う。蔵書家でもある読書人にとっては、本棚の問題が解決しないかぎり、読書どころではないのである。

本棚に割り当てる空間は壁さえあればよく、奥行20センチか30センチだけの話である。しかし、本を取り出して読むことを前提にしているのだから、背表紙が見えなくてはならない。背表紙が見え、出し入れするにはさらに数十センチの余裕が必要になる。こうして、たとえばぼくの書斎の場合、三つの壁面に本棚が聳え、居場所を圧迫している。

何とかしなければならないという危急の思いと、デジタルデータではなく現物の本でなければならないというこだわりが葛藤し、結局は実物の本棚に本が埋まり、収まり切れない本が行き場を失っている。それでもなお、本棚の前で右往左往しながら、どの本のどこに何が書いてあったかと、バカにならない時間を費やして渉猟する日々。一発検索の魅力に劣らない望外の発見に恵まれるからである。読書さえできればそれでいい、というわけにはいかないのはもはやさがだろう。本があって、本棚があってこそ、時々読書が可能になるのである。

コンセプトと連想力(8)

最終稿になりました。「コンセプトの絞り込みと一言化」というテーマでまとめにしようと思います。コンセプトづくりに四苦八苦したら、腕を組んで黙りこむのではなく、ことばをアイスプレーカー役にするに限ります。氷を砕くようにフリーズした思考を解体するのです。ブレーンストーミングの作業では、アイスブレークを比喩的に使い、発想の硬直状態をほぐす潤滑油効果の意味で使います。用いることばは極力斬新な表現であるのが望ましく、陳腐な表現や常套句ではアイデアの行き詰まりを打開できません。カント哲学者の中島義道は『概念的生活』の中で次のように語っています。

(概念とは)言語によって捉えられたものであり、概念的把握とは言語によって捉える把握の仕方である。」

子どもの表情や性格を、笑顔の子どもとか素直な子供などと表現して済ませがちですが、実はかなり大雑把な捉え方であり言い回しです。このような曰く言い難い人の資質や喜怒哀楽に関しては、適材適所で表現しづらく、つねに不満がつのります。食べ物や飲み物の感想がその最たる例であり、言いたいことを精細に描写する忍耐がないと、結局「うまい」というアバウトな表現で場をしのいでしまいます。

コンテンツイメージ・コンセプト・表現

絞り込みとはエッセンスを抽象することなのですが、これは他要素の捨象を意味します。コンセプトを生み出すにあたって、イメージとして思い浮かぶありとあらゆるコンテンツを拾うことはできません。潔く何かを度外視する意思決定が必要です。何がベストかはわからないまま、コンセプトをことばで仮止めすることになります。そのとき、迷うほどさまざまな語り書きうる言語表現の選択肢がありえます。イメージの題材を根拠にして、ことば探しをするのがコンセプトづくりの作業ということになるでしょう。


一枚のリーフレットを想定します。そこには、ある車を広告するための特徴や一般情報が盛られています。

920日・21日大試乗会、特別金利ローン実施中、カーナビ標準装備、クラス最高の静粛性、GFPドイツ安全基準金賞受賞、側面衝突基準対応、ダイナモ搭載パワーエンジン、UVカットグラス標準装備……

捨てがたい気持ちのあまり、これらすべてを拾っていてはコンセプトは定まりません。とにかく捨てなければならない。多忙な顧客の視点から、消費者の心情から、市場傾向から、そして何よりも売り手にとってのメッセージ効果の視点から、捨てることを英断します。足し算ではなく、引き算によって一言化されたコンセプトが生まれます。当然、賛否両論はつきまといます。最終的には根拠と説得にすぐれたコンセプトが選ばれることになります。

「想像」と「空想」という、よく似た二つの概念・表現が存在するのは、両者に差異があるからです。ある概念・表現と別の概念・表現とには差異がなければなりません。そして、おもしろいことに、差異があるのは類似性もあるからなのです。

ともすれば、ぼくたちが平凡なアイデアや陳腐な発想で手締めをしてしまうのは、ことばを渉猟しようとする知的スタミナ不足と語彙不足のせいです。さもなければ、リスクを回避しようとして前例踏襲に落ち着くからです。この結果、流れに棹差し、無難でなおざりな正解探しで終わります。差異のあるコンセプトづくりにあたっては、何が何でも個性的かつ一回性であろうとする意気込みをユニークさの源泉にしなければならないのです。

《終》

コンセプトと連想力(7)

「アナロジーと連想」が今回の主題です。ある表現に満足できない時、言い換えをするものですが、言い換えの一つとして類比や比喩が使われます。類比や比喩をまとめて〈アナロジー〉と呼ぶことにします。おびただしいことばを駆使しても伝わらない時は伝わらない。むしろ、たった一つのアナロジーが連想を刺激して意味を鮮明にしてくれることがあります。

こんな例があります。ある日、広告マンのオグルビー家の飼い犬テディが行方不明になりました。主のオグルビーは迷い犬の広告を新聞に掲載することにします。子どもたちが書いた広告文はコリー種だの毛色だのと特徴を細かに長々と描写したものでした。「これだけの情報を誰も頭に叩き込んでくれない」と父親は言い、行方不明になった場所、飼い犬の名前を書き、「ラッシーのような犬」とだけ付け加えました。当時「名犬ラッシー」はアメリカでは国民的ドラマでしたから、誰もが知っていました。単純な比喩でした。しかし、単純なだけに連想しやすく気に留めやすくなりました。飼い犬はすぐに見つかりました。

何となくわかっているつもりのことを、いざ伝えようとするときに、誰もが言い表わせないもどかしさを覚えます。ある表現を思いついても何かぎこちなく、満足できない……もっと別の言い方があるのではないか……こんな思いはいつも付きまといます。野矢茂樹の『語りえぬものを語る』に興味深い一節があったので引用します。

芽吹き始めた早春の山の、まだ緑が白っぽい初々しい姿。そんなふうに描写しても、どうもうまく言い表わせている感じがしない。あるいは、黒い雲が垂れこめて、いまにも風雨が強まりそうな、そんな空の様子。これもまだ、うまく言えている気がしない。だが、「うまく言い表わせない」とは、どういう現象なのだろう。目の前に広がるのは実際に黒雲の垂れこめた空であり、それを「黒雲の垂れこめた空」と描写するのは、けっしてまちがいではない。


言いたいことを言い表わすということに「間違い・正しい」という尺度はふさわしくありません。つまるところ、自分の頭の中の表象や概念とことばによる表現の間には、永久に続く不一致がありそうです。不一致を埋めようとすれば、もはや何も語れないし何も書けないでしょう。どこかで見切らなければなりません。見切りをつけるきっかけになるのがアナロジーの一つである「隠喩メタフォー」です。「苦渋に満ちて泣き出しそうな空」とか「早春の山は、入園当日の園児のように初々しかった」などと試みるのです。もっとも、それでもなおしっくりといく保障はありませんが……。

的

しかし、このような表現の試行錯誤を繰り返してきた結果、未知の概念が「共通の概念」として定着するようになりました。現在辞書に収録されていることばはすべて歴史を背負っています。かつて誰も編み出したことのない概念を思いついたとき、ただひたすら言い表わせるように繰り返し努力をするしかないのでしょう。安易に「~的」でしのいではいけません。たしかに、日本と日本的、ぼくとぼく的、結果と結果的などの間には差異があります。「的」は明確ではない何かを伝えようとする気分の表われかもしれません。しかし、「~的」で終わっているかぎり、コンセプトにふさわしい表現は決して見つからない。自分への戒めも込めて、そう言っておきます。

連想を掻き立ててくれる、ぼくのお気に入りの比喩があります。地球の歴史46億年と人類の歴史500万年を対比させるにあたって、地球の歴史を一年のカレンダーにたとえた例です。地球の誕生を元日とし、現在を大晦日から新年に変わるちょうど午前零時に見立てました。この一年のカレンダーから、それまでの46億年対500万年という単純な数字比較では見えないことが見えてきます。このカレンダーでは、人類は大晦日の午後3時に生まれ、今除夜の鐘を聞いていることになります。一年のわずか9時間のうちに、人類はありとあらゆる営み、文明文化、科学技術などを集中的に生み出したのです。人類よりも長い栄華を誇った恐竜は12月中旬に生まれ、クリスマスの頃に滅んだことになります。この比喩から、地球が――ひいては宇宙が――人類に永住権を与えてなどいないことがわかります。まだたった9時間しか存続していないのですから。

《続く》

風土と緯度の話

地理に詳しいわけではないが、手を伸ばせば届くところに地図を置いていて、気が向けば眺めている。イタリアやフランスによく旅していた頃、街の2キロメートル四方程度がわかる地図を頼りにしていた。現地で国全体の地図を見ることはない。

ところが、帰国すると、旅した街を当該国の中で確認し、さらには世界地図を広げて旅を振り返る。ローマは3月だったのに暖かかったとか、パリの11月は朝夕はまずまず冷え込んでいたけれど、昼間はさほど寒くなかったとか……。「風土」という概念で納得しようとしたこともある。しかし、地図を見ているうちに緯度に目配りするようになった。

日本地図を欧州に置いてみた

ある日、日本とヨーロッパの縮尺率が同じ地図帳を持ち出してきて、マジックで透明フィルムに日本地図の輪郭をなぞり、緯度に合わせてヨーロッパの上に置いてみた。認識が根底から覆された。パリ、ロンドン、ベルリンと同緯度の都市は日本に存在しないのである。旅したミラノやヴェネツィアは、日本最北端の稚内の緯度とほぼ同じ。日本地図の上半分は南欧から地中海、下半分は北アフリカに位置していることになる。ぼくの中では日本はもっと高緯度にあるはずだった。

同じ緯度にある都市なのに、地勢的な条件や寒流・暖流の有無によって寒暖の差が生じる。気候、水質、地質、地形など、総じて風土と呼ばれる特性は、そこで暮らす人々の生活や考え方に大きく影響する。食い意地の張っているぼくは、風土のうち「食」に大いに関心を示し、日本では米と魚類、欧州では麦と肉類と大雑把に対比させたりしていた。学生時代に読んだ和辻哲郎の『風土――人間的考察』を取り出して再読したりもした。「食物の生産に最も関係の深いのは風土である。人間は獣肉と、魚肉のいずれを欲するかにしたがって牧畜か漁業かのいずれかを選んだわけではない」という指摘は実に興味深い。ヨーロッパの人たちはパンと肉が好きだったのではなく、麦作と牧畜に適した風土に食性を決定づけられて今に到っているのである。


昨年の10月末、大リーグのロイヤルズ対メッツの試合をテレビで観戦していた。場所はニューヨーク。ニューヨークの冬は厳しく大雪に見舞われることがある。観客のほとんどはすでに冬装束だった。11月下旬にパリで目撃した服装に比べてスタジアムの人たちは極端に厚着だった。緯度に関心がなければ、ニューヨークのほうがパリよりもかなり北方に位置すると思うかもしれない。ニューヨークの緯度は40度、これは青森と同じ。パリはと言えば、稚内の45度よりもさらに高い48度だ。地理好きから言えば、別段驚くべき情報ではない。しかし、現地に旅しても自覚したり見えたりしないのに、不思議なことに地図の上で事実があぶり出されることがある。ロンドンに数十回も旅した知人は「ロンドンと札幌がだいたい同緯度だよ」と自信満々だった。地図で確認すればその認識が間違いだとわかる。

ヨーロッパは北大西洋海流という暖流の恩恵を受けている。特に北や西の気候が穏やかで安定しているのはそのせいだろう。札幌の冬の厳しさに比べれば、マルセーユやローマやバルセロナはほどよい気候に恵まれている。

都市の緯度比較

日本は緯度が低い。ヨーロッパ、中東、北アフリカの主要都市と比べてみようと一覧表も作ったことがある。大阪に住むぼくはいったいどの都市と同じ緯度に住んでいるのか……。ナポリやマドリードよりも、アテネやシチリアのパレルモよりも低い。なんと北アフリカのカサブランカや中東のバグダッドとほぼ同じ位置だ。このことはもうすでに重々知っているのだが、あの日欧重ね地図を、そしてこの一覧表を見るたびに、まだ信じられない気分になる。ヨーロッパ内で大阪と同じ緯度の場所はクレタ島くらいしかない。本格的な夏間近、クールビズでは間に合わないくらい、亜熱帯大阪は暑くなるのだろうか。

コンセプトと連想力(6)

何かを分かるための手っ取り早い方法、それは「分ける」ことです。「分ける」と「分かる」はおそらく同じ由来だったのでしょう。大きくて掴みどころがない対象を分かるためには、要素に分けたり属性を抽出したりするものです。たとえば「木とは何か」と考えるとき、まず木を構成している要素を列挙します。根、幹、枝、葉、花や実……という具合に。物事のわかりやすさには分けるという作業が伴います。ここに「概念カテゴリー」という考え方が生まれます。

一年は12ヵ月に分節されています。1月から12月までのカテゴリーがあるわけです。古くからわが国ではさらに二十四節気にじゅうしせっきに分けていて、今も季節の移ろいを語る際には立春だの穀雨だの冬至だのと使います。ネコもイヌも大きな概念でくくればどちらもネコ目。しかし、次位の概念カテゴリーではネコ科とイヌ科に分岐します。ふだんぼくたちは両者を分別していて、イヌをペットにしている人が「ネコ目の動物を飼っている」とは言いません。ちなみに、ハイエナもネコ目。どちらかと言うと犬顔なのでイヌ科かと思いきや、独自のハイエナ科を形成しています。

「英会話力」(A)に必要な要素として、たとえば藤原晃司は、「イディオムの知識、単語量、挨拶ができる、音を聞き分ける力、正しいアクセントの把握、口語表現力、英作文力、正しく発音できる、英文構造認識力」(B)を挙げています(『「わかりやすい表現」の技術』)。Aの要素がBの諸々であるならば、Bを学習すればAが手に入るということになります。実際にそうなるかどうかは不明です。要素が過不足ないと証明するすべはなく、あくまでも概念上の想定にすぎないからです。なお、「B9要素を内包したものがAの英会話力」であることを即座に理解しにくい場合は、外延と内包の中間にわかりやすい概念カテゴリーを置くことがあります。一つの試案を示すと、B1{イディオムの知識、単語量}、B2{挨拶ができる、口語表現力、英作文力、正しく発音できる}、B3{音を聞き分ける力、正しいアクセントの把握、英文構造認識力}というようなくくりです。B1は語彙力、B2は発話力、B3は理解力と言えるでしょう。


概念カテゴリーと属性

似た概念を大きな概念カテゴリーにまとめる一方で、一つ一つの概念に独自の属性を見つけるということがあります。動植物や事物が他の何かから区別されるのは、属性が同じではないからです。キリンの属性は他の哺乳類の属性と異なり、東京の属性は他都市の属性と異なっています。属性はいくらでも挙げるというわけにはいかないでしょうが、少なくとも三つ四つの属性を比較すれば違いが見えてきます。飲み物と言ってしまえば茶もコーヒーも同じカテゴリーになりますが、属性差異にこだわって両者の関係を対比させると、際立った属性が浮き彫りになってきます。

『新明解国語辞典』で飲み物を調べてみたら、「嗜好品として飲む液体」と書かれています。さらに具体的な飲み物をチェックしたところ、ワインは「ぶどう酒」、コーヒーは「コーヒーの木の種を煎って粉にしたもの。また、それを、熱湯を通して濾すなどした飲料。特有の香気と苦味がある」、ココアは「カカオの種を煎った、独特の香りと苦みのある粉(……)」、茶は「嗜好品の一つ。茶の木の若葉から作った飲み物」とありました。これらの語釈から違いを感じ取るのはさほど容易ではありません。コーヒーの「特有の香気と苦味」とココアの「独特の香りと苦み」はほとんど同じことを言っていて、文章上は同じ概念カテゴリーでいいのではないかと思ってしまいます。両者を対比させてみれば、表現の差異が際立っていないことがわかります。

岡倉天心の属性を見極めて概念化する感覚の前では辞書の定義はかすんでしまいそうです。明治時代、岡倉天心はワインとコーヒーとココアのコンセプトを煮詰め、茶の概念との差異化を次のように試みました(『茶の本』)。

ワイン:奢りたかぶり
コーヒー:過剰な自意識
ココア:作り笑いした無邪気さ
茶:想像力を掻き立てる繊細さ

もちろん異論はあるでしょう。飲み物自体の特徴には触れずに、五感を通じての概念的な解釈なのですから。しかし、「最もそれらしい属性」に着目して、同一カテゴリー内の他のものとの関係性を踏まえた上で概念を言語にするのは個別的な試みであり、個別ゆえに、ある人たちにとっては強引に見えることがあります。ともあれ、たった一つの正しい概念カテゴリーがあるはずもなく、また、たった一つの正しい属性表現があるはずもないのです。

《続く》

コンセプトと連想力(5)

今回は「表象から表現へ」というテーマを取り上げます。ぼんやりと浮かんでいる思いやイメージをことばとして現わすということです。手始めに電話でのやりとりを想定しましょう。電話の相手が「鉛筆とファイルを買ってきて」と言いました。「えんぴつとふぁいる」という音が耳に入った瞬間、意識にもののイメージが浮かびます。これが表象です。音に見合ったものが参照されるはずです。

外部にある事物で、いま目の前に実物がないものを認識するときは、この表象を手掛かりにします。そして、表象が仮に同じであっても、それを表わすことばを共有していなければ二者間で通じ合うことはできません。なにしろ実物がないわけですから、ものをことばで表現して伝えるしかないのです。鉛筆を知っていても、たとえばフランス人に「えんぴつ」と言っても通じません。通じるためには、言語文化的な壁を越えなければなりません。

ものがあってその呼び名があれば、名辞の単独レベルでは理解し合えます。では、ものなのかどうかわからない、しかも初めて耳にする音。こんな未知の概念にぼくたちはどう対処しているのでしょうか。相手が「かんかくてきちょっかん」と言ったとします。初耳なので、それが「感覚的直観」だと即座に理解できないかもしれない。しかも、鉛筆やファイルのように具体的なイメージが浮かび上がりそうもありません。もっと身近な「しごとのひんかく」という例でも、事物のようには鮮明に見えてきません。以上を整理すると、音がわからなければ表象が浮かばない、音がわかってもイメージの湧く事物ではない、音とことばがわかっても感覚的直観や仕事の品格などの意味が話し手と聞き手で一致するとはかぎらない……。表現したことが伝わり理解されるのは簡単なことではありません。しかし、ことばで打開するしかすべはないのです。


メルロ=ポンティの「思考がことばを操るのではなく、ことばが思考を実現する。(……)ことばはことば自身について語ることができる」という主張は、イメージとことばとの関係についても言えそうです。頭に浮かぶ鉛筆やファイルのイメージがことばを随え操っているのではなく、ことばがイメージを実現している。テーマである「表象から表現へ」の背後に、ことばによる表現あってはじめてイメージのかたどりが可能になるという前提がありそうです。思考を思考で示すことはできないし、イメージをイメージで現わすことはできません。いや、できるかもしれないけれど、堂々巡りに陥ります。しかし、ことばはことば自身について語ることができ、意味を膨らませたり絞り込んだりしながら、イメージの輪郭を描き出すことができます。

ムンクの「あの絵」に言及したいとき、あの絵では伝わらないから『ムンクの叫び』と言います。いったん「叫び」だと知ってしまえば、頬に両手をあてがい白目をむいて口を縦に大きく開けるあの表情は、叫んでいるとしか見えません。タイトルが絵の実体を語り、恐怖と不安が漂っています。しかし、あの絵はもともと漫画用のイラストが下地だったこと、両手は叫びを増幅させる所作ではなく、もしかすると耳を塞いでいるのかもしれない……などという情報を言語的に知ってしまうと、これまで鑑賞していた名画の表象的意味が一変するでしょう。

トランペットとエンゼルトランペット

かつてブルグマンシア(別名キダチチョウセンアサガオ)と呼ばれていた花は、それがどう呼ばれようが実体は同じです。しかし、ブルグマンシア時代にさほど売れなかった花が「エンゼルトランペット」とリネームされて売れ出したと知り合いの花屋さんは言っていました。ことばが、表現が実体を変えたわけではありません。実体の表象が、その意味と価値を変容させたのです。再びメルロ=ポンティを引くなら、「ことばはひとつの完結した事象を鏡のように映し出すものではない」のです。

テクストとウンベルト・エーコ

本を読んでわかる、あるいは読んだ本を自分の記憶として再利用する――知はそんなふうに活発になったり膨張したりするわけではない。ものの見方の風通しを良くしてこその知だ。知識は放っておくと澱んでしまう。つねにメンテナンスよろしく攪拌する必要がある。対話もそうだが、主に読書がその攪拌の役割を担う。言うまでもなく、攪拌とは秩序ではなく、混沌である。

テクストがある。テクストを学んでいるのではない。テクストを読むとは、テクストの話と自分を重ね合わせることである。誰が読んでも同じテクストなど存在しない。読み手の知識・経験がテクストと葛藤し入り混じる。このようにテクストと向き合うことが知の実践そのものであり、テクストそのものを生きることにほかならない。書かれたものを学んでいつか役に立てよう――そんなタイムラグのあるやり方は知の形成には都合が悪いのである。

テクストは開かれた世界であり、解釈をする者は無限の相互関係を発見することができる。
言語は、そこに既にあるものとしての、唯一の意味を捉えることはできない。

エーコの読みと深読み

ウンベルト・エーコの『エーコの読みと深読み』の一節。原題を直訳すると「解釈と過剰解釈」。古書店で出合ったこの本を読んでいたさる2月、エーコの訃報に接した。享年84歳。数万冊を超える読書経験に裏打ちされたエーコのテクスト論は難解だが、ぼくの能力不足のせいばかりではないだろう。実に読み解きづらい翻訳がいっそう小難しくしてしまっている。この翻訳が、まさにエーコが言うように、「言語は思考の不適切性を映し出す」ことを証明しているかのようである。


読者はテクストの意味を固定させたがる。意味は本来無限のはずなのに。エーコはテキストが一義的幻想から無限の認識へと変容すべきだと訴える。そして、テクストの一行一行が秘密の意味を別に隠しているのではないかと疑ってかかることを読者に求める。これがテクストの意味だったのかと安堵するのもつかのま、いやいや、それは本当の意味ではないと疑い始める。終わりなき解釈? かもしれない。エーコは言う。

本当の意味ははるかかなたにある――この繰り返し。(……)敗者たちとは、この過程を打ち切って「分かった」と言ってのける者たちのことである。
テクストの秘密とは、それが空虚なことである――これを理解する者こそ「本当の読者」である。

なかなかテクストを理解できない読者への慰めか、あるいは、もしかするとリスペクトかもしれない。わからない……混沌として空しくなる……それでもテクストに向かおうとすること……これでいいと言っているのではないか。誤読ですら許されそうだから、読者の解釈に自在性が生まれるような気がしてくる。

深い読みがあり、浅い読みがあり、テクストの作者の意図通りの読みがあり、意図と異なる読みがある。テクストの意図の深読みほどつまらないものはない。それでいいのなら、誰か一人が読んで大勢にリレーするかシェアすればいい。実際、ウェブの世界ではテクストをそのように読むようになってしまったかのようだ。自在性を失ったテキストを救済できるのは賢明な読者を除いて他にない。

コンセプトと連想力(4)

今日の主題は〈コンセプチュアルスキル(conceptual skill)〉、すなわち、概念化能力です。一睨みするだけでは理解しにくい術語で、多義性も帯びています。元を辿れば、アメリカの大学で創案されたマネジメント能力の一つであり、この能力を説明するために、遂行能力である〈テクニカルスキル(technical skill)〉と対人関係能力に関わる〈ヒューマンスキル(human skill)〉と比較することがあります。

マズローの欲求五段階説と同様に、これら三つのスキルも段階論として展開されることがありますが、冷静に考えれば、あるスキルが達成された後に別のスキルを学ぶなどということは不自然です。これらのスキルは並行して身についていくと考えるべきでしょう。とは言うものの、仕事や業務によってテクニカルスキルは変化します。つまり、専門性の色合いが強くなります。これに対して、コミュニケーションの能力を含むヒューマンスキルや思考力に関わる概念化能力のほうが汎用性が高いと言えるかもしれません。

日本人は概念化能力が苦手だと言われてきました。苦手と言うよりも、実際にアカデミックの場で十分に訓練していないからなじんでおらず、なじんでいないから食わず嫌いになっているというのが現実です。学生は試験のために勉強する癖が抜けないので、学んで覚え、やがて忘れます。覚えていても、断片のまま放置するだけなので、知識や情報が体系的に統合されていません。統合の過程では必ず抽象化も必要になります。また、統合の反対の分類能力や要素化能力も欠かせません。手っ取り早い方法は、圧倒的な量の読書をこなすことです。そして、読みっぱなしにせずに、インプットしたものについて考え、共通しそうなテーマを見つけ、コンテンツを作ったり長文を要約したりする練習を積むのです。


概念化能力のうち特に重要な抽象化について考えてみます。よく「具体的に述べよ」と言いますが、具体的であることがいつも歓迎されるわけではありません。具体的とはその事例についてのみ言えることで、他のことについては言えるか不確実です。他の事例についても言い得るためには、一般化したり普遍化せねばならず、そこに抽象化の出番があります。哲学書を難しく感じるのは、哲学が一般性や普遍性を扱うからであり、具体的な事例や固有名詞が少ないからです。哲学や思想はケースバイケースを嫌います。概念化能力は全体像や本質を理解するためのスキルなので、匿名的でなければならないのです。「むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがすんでいました」という昔話のつかみは、物語を普遍的に綴るための手法にほかなりません。

概念化という概念

ABCという要素を統合したり共通性を抽象したりして概念化する作業と、概念化されたものを逆にABCという要素に分解する作業は、論理学の帰納と演繹に通じます。帰納は「特殊から一般へ」、演繹は「一般から特殊へ」と推論します。

さて、概念化の中身を知るために、便宜上、「思考力」「共通性」「再構築」という三つの要素を取り上げます。定説ではなく、あくまでもぼくなりの概念化の捉え方です。

思考力 日々の仕事や生活場面でぼくたちは少なからぬ新しい情報に出合います。目の前の一つ一つの具体的な情報を認識して理解すると同時に、その事柄からどんな普遍的なことが言えそうかを考えます。具体的な事柄と一般概念の往復運動が思考することと言えるでしょう。

共通性 概念化は枝葉末節へのこだわりをほぐしてくれます。複数の事柄の共通性を見極め、個々の細かな情報を切り捨てていくと、細部に囚われていては見えない重要な共通点や法則に気づきます。

再構築 わざわざぼくたちが概念化しなくても、すでに概念が出来上がっていることもあります。そこで、従来一括りにされていた事柄を新しい概念によって再グループ化してみるのです。そうすると、それまでのものの見方とは異なる発想が生まれる可能性があります。ある種のパラダイムシフトと言ってもいいでしょう。

《続く》

伝わらないという方法

説明書きがある。説明とは何か。文字通り「説き明かす」ことだ。しかし、これでは同語反復で、説明不足を否めない。「内容や理由や事情をわかりやすく言ったり書いたりすること」。これでどうだろう。ポイントは、説明しようとする者の意図が理解しようとする者に過不足なく伝わることである。いま「過不足なく伝わる」とさらっと言いのけたが、実はこの過不足の加減が一筋縄ではいかない。

スーパーのイートイン

スーパーで買物をした後、イートインコーナーがあるのを思い出した。そこでコーヒーが飲める。コーナーの突き当たりに説明書きとコーヒーサーバーを見つける。写真の①の箇所には④の取り扱い方法が説明されている――扉を開けてカップを置き、スイッチを押し、ランプが消えるまで待つ云々という情報。次に②を見る。次のように書かれている。

備え付けの注文のカードをサービスカウンターで渡し代金と引き換えてカップを受け取って下さい。

ぼくの飲み込みが悪いせいもあったのだろう。「備え付け」という表現がここから離れた別の場所だと勝手に思い込んだ。その場所がサービスカウンターではないことはわかる。いったいそのカードはどこに備え付けられているのか……そう言えば、さっきベーカリー近くを通り過ぎた時、コーヒー豆の棚の上にカードらしきものがあったような……いやいや、あればエスプレッソマシーンの注文カードだったはず……と思案すること十数秒。


結論から言えば、②の説明文のすぐ下の③が備え付けのカードだった。備え付けとはよそよそしい。どこか遠くの場所と思ってもしかたがない。「 こちらの」でいいのではないか。あるいは、②と③の配置を変えれば、自然とカードが先に目に入るはず。あらためてこのコーナーのレイアウトを見つめてみる。①の説明を最初に読む必要性がまったくない。カップを手に入れることが先決なのだ。カップを手にした者だけが④に向かい、そして、必要に応じて①を読むのである。

ぼくの改善案が採用されたとしても、説明が十分機能するわけではない。肝心のカップを買うサービスカウンターを探さねばならないのである。その場所が、まずいことに、イートインから50メートルほど離れている。ぼくはすでに買物をしている。大したものを買ったわけではないが、イートインのテーブル席に袋を放置して離れる気になれない。両手に買物袋を持ってぼくはサービスカウンターに向かった。この時点でコーヒーを諦めるという選択肢があったはずだが、少々意固地になっていたかもしれない。

ゲットするのに時間がかかった紙カップをマシーンに置いてコーヒーを注いだ。カップさえあればこっちのものなので、もう一杯飲むことにした。自販機ではないから、スイッチさえ押せばコーヒーは出てくる。

日夜説明文を考えるおびただしい人がいて、過剰だったり不足だったりする説明文がいろんな場所で掲示される。説明者はよく伝わるように文案を練る。わかりやすさも考慮に入れる。それでもなお、その説明を読むほうは大勢であり、十人十色の解釈をする。ぼくのように説明のすぐ下の箇所にさえ気づかない者もいる。伝わる時はどう書いても伝わるものであり、「伝わるという方法」は確かに存在する。他方、いくら頑張っても伝わらない時はとことん伝わらない。だから、「伝わらないという方法」も生まれる。説明者は往々にして伝わっていないことを知らないものである。