オムニバスな休日

携帯ショップで様々な手続きを終えた。終えたのは手続きだけで、スマートフォンとタブレットの新機種を別々の日に受け取らねばならず、また、光回線の工事の日も自宅でスタンバイしなければならない。IT時代は楽ではない。便利のために手間暇がかかる。手間暇以上にお金がかかる。ショップで説明を受けること、約二時間。胃痛をともなう空腹感に襲われ、さあランチにするか、それとも控えるかと思案した挙句、食欲に負け天丼で腹ごしらえした。

フランドル
フランドル2

近くに喫茶店があったのを思い出す。本町通りに面したビルの通路の突き当たり。何ヵ月か前に通りがかって入店しようとしたら、ちょうど店じまいの準備中だった。と言うわけで、今日が初めて。てっきり「仏蘭西フランス」だと思っていたが、よく見たら「仏蘭」。ドル記号はぼくのPCでは表示できない「Sに二本線」。一瞬、漢字の「弗」かと思った。これで「フランドル」と読ませる。フランスではなく、オランダやベルギーのイメージだ。コーヒーの強い苦味と店の雰囲気に昭和の名残りをとどめている。

綿業会館

綿業会館の前に出た。このあたりはよく歩いている。近くに顧問税理士のオフィスがあった。十数年前に会館1階のレストランでご馳走してもらったことがある。古いビルに入っている老舗レストランでの食事は、ぼくらの世代には贅沢このうえない。大阪ガスビルの食堂での昼餐も印象に残っている。味の印象ではない。ぼくのサラリーマン最後となった会社の幹部に離職を慰留されたのがそこだったから。三十年前のことだ。その一か月後退職して起業した。

花屋

備後町から瓦町へ。色合いと装いがパリで見掛けそうな花屋。このあたりを行き過ぎる時はたいていその先に目的がある。だから、さほど印象に残らない。今日は休日、目当てはない。携帯ショップで疲れ、その流れで惰性で北へ東へと歩いたにすぎない。本町、淀屋橋、堺筋本町、北浜あたりにはレトロな建物が点々と残っている。もちろんリフォームされたものばかりだが、新築のビル群にあって束の間の落ち着きを与えてくれる。

大川大川2

数キロメートル歩いて、最後にいつもの天神橋、大川にやって来た。まばらに人がいて、新緑の春の休日を絵にしたようである。動きも音も何もかもが実にのんびりしていて、風景に吸収されている。東へ向かう船もまったく急いでいない。河岸の小径を歩くぼくが容易に追い越せたくらいである。明日は予定がない。予定のない明日に何となくわくわくする今夜は幸せである。

コンセプトと連想力(3)

アイデアと概念のことから話を始めます。すでによく知られている概念と、目新しいアイデアを背負った概念とでは、表現方法を当然変えるべきです。同じ名辞を使うとアイデアの新しさを表現できないからです。前回例に挙げたキャベツは十分になじみのある名前です。キャベツを新しく概念化しようとするなら、表現を言い換えるか修飾語をトッピングするしかありません。すなわち、差異化です。スマホも従来の携帯と差異化するために名付けられました。「パソコン機能を搭載し、高度な通信も可能な携帯電話」というコンセプトを「スマートフォン」とし、言いやすいようにスマホと表現しました。概念イコール名辞の例です。

新約聖書の『ルカによる福音書』に「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」ということばがあります。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、力のある「ボジョレヌーヴォー」が皮袋を張り裂き、皮袋もぶどう酒も失ってしまうという教えです。紀元前の頃、液体を保存する袋は羊やヤギの皮で作られていました。皮は古くなると柔軟性がなくなります。そこに新しいぶどう酒を入れると発酵が進んで破れるのです。ゆえに、新しいぶどう酒は柔軟性のある新しい皮袋に入れよ、というわけです。このエピソードから、新しいアイデアも新しい名辞で包むべきであるという教訓が導けます。せっかくのアイデアやコンセプトも古い名辞で表現されると陳腐だと判断されるでしょう。

名辞は不可欠か? 答える前に一つのシーンを想定しておきます。

ホテルのラウンジでぼくはコーヒーを飲みながら談笑している。少し離れた壁に大きな絵が飾ってある。その絵の作者やタイトルはわからないし、特に気にもならない。BGMが聞えてくる。作曲者も演奏者も題名も不詳のままにして、ぼくは耳を傾けている。今いるこの場所では絵も音楽も匿名的である。知らなくても不安にならない。苛立ちもしない。通り掛かりに出合うポスターの作家やミュージシャンの身元を特に明かしたいと思わないのと同じである。

上記の状況とは裏腹に、原則として名辞が不可欠であると考えています。美術館で絵画を、コンサートで音楽をそれぞれ鑑賞するときも、作者不詳、タイトル不明では居心地が悪くなります。「名実ともに」などと言うように、名辞と名で示される実体は不可分であり、ゆえに名辞は不可欠なのです。『無題』という作品はごろごろありますが、あれは題名です。『題名のない音楽会』も題名。イタリアの画家ジョルジュ・モランディは『静物』と題されたおびただしい作品を描きました。絵を見ないかぎり、題名だけでは自分の他作品や他の画家の作品との差異化はできません。


Red Balloon

パウル・クレーの絵が気に入っていて、十代の頃から展覧会があると足を運んできたし、今も書斎で画集や図録を眺めます。写真は1922年の作品。さて、画家の名前は書きました。作品名はまだ書いていません。今、タイトル不明のまま、この絵画を鑑賞し続けられるでしょうか。見終わった後も、タイトルを認証できないので、誰かに説明するにしても、絵の前に戻って指を差し示しながら「この絵はね……」と言うしかありません。
(この絵の原題は“Roter Ballon”、英語では“Red Balloon”、日本語では『赤い風船』というタイトルです。)

タイトルは作品の一部なのか、作品の一部ではなく単なるインデックスなのか、作品ではないが別物でもない関係の内にある何かなのか……というような捉え方がありえます。タイトルと作品の関係には一筋縄ではいかない命題が潜んでいるのです。佐々木健一著『タイトルの魔力――作品・人名・商品のなまえ学』に、絵画の鑑賞に関しておもしろい視点があります。

教養派とは、絵を見るよりも早く、真先にプレートをのぞき込み、誰が画いた何という絵なのか確かめる。(……)プレートから得られるこれらの知識が、その絵を理解し観賞する上で不可欠のものと考えているからに相違ない。それに対して、審美派は次のようにふるまう。かれ/彼女はプレートには目もくれない。静かに絵だけを見つめ続ける。そして次の絵に移ってゆく。

タイトルと作品は不可分で一心同体であるというのがぼくの考えなので、審美派ではありません。しかし、上記で描かれている教養派とも言い切れない。絵そのものとプレート――タイトル、画家、画材、所蔵美術館、制作年など――の両方を見ますから。絵を見てプレートという場合もあるし、その逆もあります。プレートの情報をすべて読むこともあれば、タイトルしか見ないこともあります。

タイトル不明のまま絵を鑑賞できないのは、名のない食材や料理を口にしづらいのに通じるものがあります。名を教えてもらわない初見の食材、コンセプトを感受できない料理を食べるには覚悟が必要です。その代わり、好き嫌いはないので、名前さえわかれば何でも食べてみせます。けれども、詠み人知らずの和歌や作品名のわからない小説なら拒絶はしません。ことばで紡がれた作品だからです。作品内のことばがタイトルやコンセプトを補うからです。しかし、表象を扱う絵画や音楽にタイトルがないと落ち着きません。勝手に見えてくるビジュアルやたまたま流れてくる旋律は別として、自発的に鑑賞しようとする対象に名辞は不可欠なのです。タイトルは表象的な作品の主題を鑑賞者に伝える、作品と一体となった語り部にほかなりません。

《続く》

コンセプトと連想力(2)

今回と次回のテーマは「コンセプトの創造」。今日はコンセプトと本質の関係、コンセプトと要素の関係についてです。最初に心得ておくべきこと。それは、コンセプトは自然界に存在しないという点です。コンセプトは人によって作られます。「コンセプトの発見」などとよく言いますが、正しく言えば、発見ではなくて創造なのです。

鷹と鷲のコンセプト

たとえば、タカと呼ばれる鳥とワシと呼ばれる鳥がいます。それぞれ漢字一字で「鷹」、「鷲」と書きます。英語でも“hawk”“eagle”を使い分けます。ことばでは区別されていますが、実はタカもワシも「タカ目タカ科」であり、専門家でも個体識別するのは難しいと言われています。

でも、何かが違うから別々の名辞――概念のことばによる表現――を与えたわけでしょう。本には「タカに比べて大型のものをワシと呼ぶ」などと書かれていますが、これこそまさにコンセプトが慣習的に取り決められた証です。鷹狩りはあっても鷲狩りはありません。もしかすると鷹を訓練しているのではなく、狩猟用によく訓練された鳥を鷹と呼んだのかもしれません。中央アジアからアラブ圏ではこれが「ハヤブサ」だったりします。

キャベツ、茄子、玉ねぎ、アスパラガスなどは「畑で作られる、副食となる植物」という共通項を内包しています。このように概括的に基本形態を捉えるのもコンセプトです。そして、このコンセプトの名辞を受け持つのが「野菜」ということば。野菜なので穀物とは概念上区別されています。但し、食べ物と言ってしまうと、野菜も穀物も同じカテゴリーに入ります。ブロッコリー、レタス、カリフラワーはキャベツの仲間です。名辞が違うのでそれぞれに異なったコンセプトを与えているはずです。ちなみに、キャベツだけでもいろいろな定義が可能で、「葉が厚くて大きく、巻いて球状となる」というのもその一つ。これが一般的な辞書の定義ですが、この記述からではお好み焼きに使う千切りのキャベツは連想しづらくなります。


ものの本質がコンセプトになることもありえます。「商品には固有のドラマがある」というレオ・バーネットの言は、見えていなくても商品には独自の本質が内在することを示しています。バーネットは広告業界のカリスマ的存在で、「テーマに没頭し、考え抜き、自分の予感を愛し尊ぶこと」をモットーにして、広告の仕事をコンセプトの掘り起こしと見なしました。「コンセプトを作る」とは本質に近づくことなのです。『新明解国語辞典』で概念の項を見ると、「『…とは何か』ということについての受取り方(を表わす考え)」と説明されています。これも「本質」ということになるのでしょう。

辞典の定義は通念や辞書編纂者の経験・知識に基づくことが多く、大きく変わることはほとんどありません。時々、ものや概念よりも先に辞書の定義が存在していたのではないかと錯覚することがあります。どこかプラトン的な普遍のイデアに似通っています。最初に本質があって、それが現象化しているにすぎないというのがイデア論。これは本末転倒ではないかとヘーゲルなどは反発しました。また、小林秀雄も「美しい花はある、花の美しさというものはない」と言いました。個々の現象とその感じ方はあるけれども、抽象概念はないという意味です。もし「花の美」がイデアのように先に存在していれば、花がその美に合わせて咲いているということになります。

コンセプトは本質的なのですが、普遍的な本質なのではなく、そのつど固有であり、TPOやコンセプトの担い手の主観に応じて変化します。先のキャベツの話に戻ると、たった一つの定義でキャベツのコンセプトを縛ることなどできません。畑で育つキャベツ、段ボールに詰めたキャベツ、スーパーで売られているキャベツ、冷蔵庫に入っているキャベツ、千切りになったお好み焼きのキャベツ、ロール状にして煮込まれたキャベツ……。これらすべてに共通する〈キャベツらしさ〉なるものを一つのコンセプトで言い表わすのは至難の業です。もしそうしようと思えば、結局辞書の定義と同じになってしまいます。

あるもののコンセプトを作るためには、そのものの要素に気づかねばなりません。本の要素、犬の要素、仕事の要素……。要素化とは分解することです。「分ける」は「分かる」です。要素化していく過程で主と副が見えてきます。同時に、分解作業にはリスクが伴い、ともすれば全体特性を見失うことになりかねません。要素が見えれば見えるほど、全体構想できなくなるというのは、ぼくの企画の仕事ではよくあることです。全体はつねに部分の集合以上であり、全体あっての要素であることを忘れてはいけません。

《続く》

コンセプトと連想力(1)

コンセプトと連想力

『コンセプトと連想力』について何回かにわたって話したいと思います。〈コンセプト〉ということばを随所で使います。別の文脈では〈概念〉と言い換えることもあります。まず、その概念という術語についておさらいをしておくことにしましょう。

コンセプト(concept)は動詞”conceive“(考える)から派生したので、やまとことばの「おもひ」と訳してもよかったはずです。あながち外れているわけでもないですから。しかし、コンセプトということばに出合った明治時代の知識人は、「おもひ」では意味にズレが生じると考えたせいでしょうか、あるいは、当時の訳語(love→恋愛、society→社会、nature→自然など)のほとんどが漢字の二字熟語だったからでしょうか、おもひと言い換えずに、中国の古い文献にあった「がい」に注目して「概念」という和製漢語を発案しました。ちなみに、「概」とは粉や穀物を升に入れて計量する際に、升の上に盛り上がった部分をかき落とす棒のことです。なお、conceiveには「はらむ」という意味もあり、現代では「アイデアを宿す」という意味への転用もあります。

概念は哲学で頻出することが多く、決してわかりやすいとは言えませんが、まずまずよくできた翻訳語だと思います。なぜなら、コンセプトには知覚した対象のイメージや属性から性質の違うものを「捨象」し、その代わりに、共通のイメージや属性を「抽象」するという意味があるからです。抽象などと言うと、わかりにくいとか曖昧だと決めつけられがちですが、抽出液などと同じで、元々はいらないものを捨てて必要なものを取り出すという意味です。要素を絞り込むという感じでしょうか。


ジェスチャーをしてもイメージを描いてもコンセプトはなかなか他人には伝わりません。コンセプトはことばによって表現するしかないのです。もっとも、ことばにしても、伝わる保障はありません。いずれにせよ、意識に浮かぶ感覚的なイメージである表象をことばで仕立ててはじめてコンセプトが生まれます。たとえば、「はさみ、鋏、ハサミ」などの文字を見たり耳で“ha-sa-mi”という発音を聞いたりする時、意識に[✂]が浮かびます。この逆に、まず表象として[👓]が浮かぶとき、「めがね、眼鏡、メガネ」などのことばに置き換えます。ことばは音声と文字とイメージを一つにしたコンセプトの表現になっているのです。ポツンと[☁]という図を示されるよりは「雲」と言ってもらうほうが伝わりやすいでしょう。そのコンセプトをどんなふうにイメージ再生するかは、もちろん人それぞれです。

「感性でうけとったものを、知性でとらえなおす。対象を右手から左手へともちかえるようなこのプロセスで〈概念〉が生まれてくる」と中山元は『思考の用語辞典』で述べています。つまり、表象による認識を「感性的」とするなら、表象をことばによって概念化するのが「知性的」と呼べるでしょう。対象を概念として摑むということは、ことばで言い表わすことにほかなりません。

人にはそれぞれの参照体系があります。「知のリファレンス」です。あることを簡潔に言い表わすにあたって――もちろん外部から新たに仕入れることもありますが――まずは、自前のリファレンスを探っていくことになります。コンセプトをどんな表現で包み込もうかと創意工夫する習慣を身につければ、知のリファレンスは活性化し連想力も高まってきます。一つのことばやイメージから連想されることを列挙し要素化して概念を形づくる……表現を縦横無尽に連想する以外に目前の対象や、ひいては現実世界をよく把握するすべは見当たらないのです。

《続く》

見せかけの笑顔

笑顔

見せかけの笑顔……取って付けたような笑顔……うわべだけの笑顔……わざとらしい笑顔……いろんな表現がある。では、これらの笑顔の逆の「正真正銘の笑顔」を何と言い表わせばいいのか。真心のこもった笑顔? 素直な笑顔? 嘘偽りのない笑顔? 自然な笑顔? これもいろいろありそうだ。

昨日来客があり、雑談の中で愛想笑いの話が出た。客人の一人が「ロシアではどこの店に入っても店員はにこりともしない」と言う。ロシア全土でもモスクワに限定してもいいが、店員を一括りにして「誰もが」と一般化するのは危険である。経験上の話であって、全サンプルを調べ尽くしたわけではないのだから。以前、チェコに旅した人もよく似たことを言っていた。だからと言って、「東欧諸国のレストランの店員は……」などと結論を急いではいけない。

五輪招致のプレゼンテーションで「お、も、て、な、し」とスタッカート調子で大見得を切って以来、接客業はそれに見合う店員教育にさらに力を入れているのだろうか。大見得を切るずっと昔から、わが国のサービス業は接客マナーの向上に力を入れてきた。海外からも異口同音に賞賛されているのは周知の通り。しかし、マナー教育が行き届いているはずのこの国でも、無愛想で不機嫌な表情の店員を見かける。例外に属するのかもしれないが、いることはいる。だから、日本人の店員のマナーがいいと、これもまた一般化はできない。それに、にわかマナーと年季の入った滲み出るマナーははっきり見分けがつく。


数年前までよくイタリアの都市を旅していた。ご飯を食べるにはレストランへ、アパートで自炊するにしても食材求めて市場へ、エスプレッソをひっかけるならバールへ、そして、買うにせよ冷やかすにせよ、小物雑貨の店にも足を運んだ。店に行けばイタリア人店員に接客され会話の一つも交わす。そして、何十という店に入ってみていろんな店員がいることに気づいた。ラテン系は陽気でいつも笑みを湛えているなどという刷り込みがあると、50パーセントの確率でがっかりする。とりわけ、職人が販売も兼ねている店や一人で商売している店ではその確率がさらに高くなる。

それはそうだろう。アジア人の男が一人で店に入って来るのである。冷静に考えれば、どんな相手にも初対面でつねに満面笑みを浮かべるほうがむしろ不自然ではないか。客であるこっちにしても、いきなり愛想よくされても対応に困ることがある。レストランで黙ってテーブルに案内され、鞄の店でキッと警戒感を顕わにされ、観光案内所や駅の窓口で表情一つ変えずに地図や切符を差し出されたりしているうちに、それで接客上何か問題があるはずもないと思うようになった。郷に入って郷に従っているうちに免疫ができたということだが、ぼくには「郷」のほうが快適だということがわかった。

最初のうちは質問にぶっきらぼうに答え、黙って商品を指差すだけのこともある。しかし、空気がほどけるにつれてフレンドリーな対応に変わってくる。身構えから打ち解けへ……これが自然なのではないか。マナー教育で強いられたような意味のない愛想笑いのほうがよほど不自然、いや、不気味でさえある。わが国の大衆居酒屋やコンビニの笑顔は心底から湧き出ているようには思えない。「ありがとうございました。またお越しくださいませ」と、両手をへそのあたりで重ねながら深々とお辞儀されるのも苦手である。そういう所作や作り笑いであっても、ないよりはましと言う意見もある。そうかもしれない。だが、社会一般で決着すべき是非論ではなく、ぼくが好まないというだけの話である。

本来笑顔は相手に反応して自然に浮かぶものだ。笑顔にシナリオがあってはたまらない。相手構わずに、かくありきという笑顔の練習をしても「おもてなし」の域には達しないだろう。最近、見せかけの笑顔が「見せびらかしの笑顔」に見えるようになってきた。

誤植と校正の思い出

本を買うスピードに読むスピードが追いつかない。つまり、未読本がどんどん増えていく。図書館じゃあるまいし、どうするつもりなのか!? と自分を詰問してもしかたがない。どうすればいいか分かっているからだ。新たに買わずに、所蔵本から未読のものを読めばいいだけの話だろう。ところが、ところてんの原理によく似ていて、すでに「そこにある本」を読むには新しく買い求める本で「天突き」しなければならないのである。

誤植読本

この一週間で五冊買い求め、そのうち一冊は申し訳程度に通読したが、残りはまだページすら捲っていない。しかし、一昨日の夜に天突き効果が出た。書棚から偶然取り出した一冊を寝床に持ち込んで読み始めたのである。奥付に2013610日発行とある。三年前に買った記憶などすでにないが、とにかくおもしろいので、今もコーヒーを飲みながら読み、読みながら文章を書いている。

誤植・校正には少なからぬ縁がある。長らく英文広報誌の執筆・編集に携わっていたので、文を書いた後には編集者に早変わりして事実関係のチェックや文字の校正作業をするのが常だった。日本人二人とネイティブライター二人に加えて発行人の企業の担当者も校正する。英語に精通していない印刷関係者も原稿と付き合わせてアルファベットの文字面もじづらをチェックする。以上の作業を数回繰り返す。これほどの「厳重体制」を敷いていても、入稿直前に誤植が見つかることがあったし、残念ながら、印刷され配布された後に見つかったこともある。


英文広報ではいくつかの基本的な約束事がある。たとえば、見出しはゴシックでもいいが、長文の本文には日本語の明朝に相当するセリフ付きの書体(ローマン体など)が望ましいというのがその一つ。文字の線の太さが均一になるゴシック――たとえばヘルベチカという書体――では、l(エル)とi(アイ)とj(ジェイ)、t(ティー)とf(エフ)などが判読しにくくなる。ゴシック体で長文を読まされると目も疲れる。つまり、校正の際にも見誤りが生じやすい。セリフや明朝の書体のほうが可読性が高く、パターン認識しやすいことがわかっている。

先の『誤植読本』には作家や編集者ら53人の誤植・校正にまつわる体験エッセイが収められている。諸々の失敗談にぼくの体験が重なる。某家電メーカーの海外販促部長には、まだ校正段階だと言うのに、誤植をいくつか指摘されて怒鳴られたことがあった。もっとも、聖書に誤植が見つかると校正者が処刑された国がかつてあったそうだから、怒鳴られるくらい何ということはない。万全を期して校正したはずなのに、雑誌や本が刷り上がった瞬間、誤植が見つかる。不思議なくらいその確率が高い。校正作業が何かの法則に支配されているとしか思えない。

ぼくが今書いているような千数百字の文中の一文字と、わずか十七音の俳句の一文字では校正の重みが違う。拙文で咎められないミスが俳句では命取りになる。俳人の富安風生の話に共感する。著者は言う、「(……)一句の意味が通らなくなってくれるとまだいい。いけないのは誤植が誤植で、別の意味に通るときである」。そうなのである。誤字・脱字によって意味が滅茶苦茶になってくれるほうが、書き手は下手な言い訳をせずに済む。ところが、別の意味が形成されてしまうと作意と異なる作品が出来上がってしまう。「あれは誤植でして……」と関係者や読者に説明するのは見苦しい。と、ここまで書いたら夜も10時を回った。まだまだ書き足らないがここで終わる。読み返していないし、もちろん校正もしていない。

問題を解くということ

答えを見つけることができるのは、答えが存在するから。そもそも答えのある問いだったから、答えが見つかったわけだ。そういう答え探しのほとんどは学校時代に終わった。社会に出ると、答えは見つける対象ではなく、思考され創案される対象になる。どこにもない答えを捻り出すことが重要であって、どこかに潜んでいる答えを見つけようなどと意気込んではいけない。調べて見つかるような答えを手にしても、問題解決には何の役にも立たないのだ。何とか検定に受かろうとするのは、基本、学校時代の答え探しの魂胆に同じ。

幸いにして答えを生み出せたとしても、そこで立ち止まっていてはいけない。留まっていると、すでに存在していた答えを見つけたのと同じ結果になる。問い詰めて、そして答えを編み出す――これはゴールではなく、問題解決前のささやかな一つの段階にすぎない。答えは、手に入れた後に「動かす」ことに意味がある。答えによって現状を変えなければならないのである。机上の答えを創造するまでは得意顔してできる人は多い。しかし、答えを現場で動かそうとする人はなかなか出て来ない。

話がややこしくなった。遅まきながら、答えを「方法」に言い換えることにする。方法自体は何も動かさないし何も変化させない。たとえば「問題解決の方法」という記述では、主眼は「問題が解ける」という点であり、決して方法ではない。方法を手にして人は安堵するばかりで、方法を実行することに向かわない。大組織では、実行者である機関車は数えるほどで、編み出した方法を誰かが実行するのを待つ客車が五万とある。客車は自動の力を持たない。


人間には「生得的な欲求がある」と、わざわざマズローの説を持ち出すまでもない。当たり前である。しかし、生得的な欲求が「問題を解決したい」という欲求になるとはかぎらない。人はそれぞれの経験を通じて芽生えてくる欲求のほうに敏感になるものだ。これが「習得的な欲求」である。習得的な欲求の強さこそが問題解決の原動力になる。ぼくたちは自分で選択した環境と用意された環境とが複合する世界に生きている。他の動物同様に、その環境世界の中で生き残り、適合して機能していくために努力する。では、生き残ってうまく機能していくためには何をするべきか。環境から情報を入手しなければならないのである。習得的欲求がこれを下支えする。

問題を解く

環境から情報を入手するのは言うほど簡単ではない。まず、ありとあらゆる情報を集めることはできないし、そんな欲求もないだろう。人は「ある種の情報」だけを求める。しかし、自分が持ち合わせている知識と入手しようとしている情報がまったく同じなら、求める必要性がない。図の[A]のように自分の知識と環境の情報が異なっているからこそ、手に入れる意味がある。ところが、完全に異なっている場合、よほどの強い好奇心や関心がなければ、見向きもしないということが起こりうる。若ければ新しい環境に適応する流動性も持ち合わせているが、加齢とともに衰えてくるのである。こうして知的閉塞が生じる。

保有している知識内に外部情報が取り込まれるためには「大同小異」の関係が前提になる。たとえば[B]のように重なっている状態。自分の知識が環境の情報を「同化」するとともに、情報のほうが知識の一部を「修正」する。知識はこのようにして再構築され、時々の環境で生き残るために役立ってくれる。経験を積むにつれて、人は強い自我で体系を作ろうとするが、それだけでは不十分である。時には自分の知の体系を崩してでも、環境からの情報に「順応」することが絶対になる。経験して獲得した知識をリセットしてはいけない。また、その圏内で止まっていてもいけない。

問題解決とは、以上のような、生き残るための「知と環境の同化・修正による調整作用」にほかならない。そして、それはそのつどの臨機応変が条件であることを意味している。

迂回的に学ぶ

岐路

いつの時代も当面必要なことだけを最短距離で学ぼうとする人たちがいる。ぼくもかつてその一人だったし、今も、やむをえずそういう手っ取り早い学びに時間を割いてしまうことがある。「今すぐ使えるフランス語」などはその類いだ。しかし、原則として間に合わせのハウツーに飛びつくなと自分に言い聞かせ、学びの岐路に立って二つの選択肢があれば、近道よりも遠回りのほうを意識的に選ぶようにしている。迂回的な学びのほうが先々の成果が大きいことを経験的に知っているからである。

二十歳前後から独学本位、しかも雑学好みできたから、学びの過程では寄り道や脱線が多かった。これでいいのだろうかと懐疑したことは一度や二度ではない。しかし、いい歳していつまでも他力を借り、しかも促成的な学びを目的としているのはさもしくて賤しいと思うのである。

『哲学な日々』で野矢茂樹が書いている。理系の学生に哲学を教えているのだが、まじめな学生ほどテーマと直接関係なさそうな話に興味を示さない。彼らはすぐに使えるものを学びたい。役に立つことを学び、それらを積み上げるように知識を脳に入力したいのである。野矢は言う、「分かっていることよりも分かっていないことの方が多いんだ。答えは本の中に書いてあるんじゃない。問いすらも、これから自分でひとつひとつ見つけていかなくちゃいけない」と。

不肖ぼくの企画研修を受けても、企画のハウツーは一部で、ほとんどの時間、受講生は自ら考えなければならないように仕組んでいる。うまく考えられず、実習で成果が出ないと学んだ気にならないだろう。しかし、それでいいのだ。安易に答えに飛びつかず、じっくりと考えた時間が将来実を結ぶのである。

「一生学び続けます」と悟ったようなことを言う人たちがいる。しかし、そう言いながら、自力で学んでなどいない。誰かに誘われて、誰かと一緒に集団で学んでいるにすぎない。学びが、自分で考えないという都合のいい方便になってしまっている。誰かから授けられた目先のハウツーを自分に移植してどうなるものでもないではないか。ハウツーは早々に陳腐化する。所詮、最後には自分で問いを立て、勇気を出して答えを捻り出し、検証しなければならない場面に遭遇する。これが考えるということだ。ハウツーほどの瞬発的威力はないが、長きにわたって様々な効能を発揮する。


学びに際して、足を踏み下ろしている現実を見、これまでの知識と経験を踏まえ、生活の諸々の場面を振り返ってみる。今生きている主体者としての自分の肉体や五感を強く意識する。学びの対象から現実の自分を切り離さない。言い換えれば、学びを自分に肉化させるということだ。自分で学びの対象を決め、ひとまず独学してみる。なぜ「肉化」などという表現を使ったかと言うと、学びが食べるという行為に類比できるからだ。食べ物が自分自身になっていく過程、カロリーに支えられて身体のエネルギーが漲る様子にとてもよく似ている。

昨日のブログ『学問の本趣意は読書のみに非ず』に続いて福沢諭吉の『学問のすゝめ』の十二編を引く。

(精神の)働きを活用して実地に施すには様々の工夫なかるべからず。「ヲブセルウェーション」とは事物を視察することなり。「リーゾニング」とは事物の道理を推究して自分の説をつくることなり。この二箇条にてはもとより未だ学問の方便を尽したりと言うべからず。なおこのほかに書を読まざるべからず、人と談話せざるべからず、人に向かって言を述べざるべからず、この諸件の術を用い尽して初めて学問を勉強する人と言うべし。

「ヲブセルウェーション」は“observation”のこと、「リーゾニング」は“reasoning”のこと。観察と類推である。他に、本を読んで知見を身につけなさい、対話をしてその知見を交えなさい、書いたり話したりして知見を広め生かしなさいというようなことを言っている。直截的に言えば、知見を活用してこその学問(学習)というわけである。学ぶことは簡単ではない。手間暇がかかる。インスタントな手法では学習対象のうわべを撫ぜるばかりで、知見構築には決して到らない。ましてや、その知見を活用することなどは望むべくもない。学びは、真正であればあるほど、迂回的にならざるをえないのである。

「学問の本趣意は読書のみに非ず」

読書

〈書評輪講カフェ〉と命名した読書会を不定期に主宰している。会合開催の前週や当該週になると操られたように読書について一考する。もう何年もこんな状態が続いている。

ところで、最近あまり本を読んでいない。今年に入って50冊ほど買っているはずだが、本気で読んだのは片手にも満たない。大半の本の取り扱いは、ページを適当に繰って拾い読みするか、目次をざっと走査して狙いすました章だけを読む程度である。冬から春にかけてのこの時期だからというわけではない。読書離れは突然予告なしに起こり、そしてしばらく続く。やがて、ダイエットの後にリバウンドが待ち構えているように、再び読書にのめり込む周期に入る。

「本を読むというのは、私たちの代わりに他の誰かが考えてくれるということだ。一日中おびただしい分量を猛スピードで読んでいる人は、自分で考える力がだんだんに失われてしまう。」

こう言ったのはショーペンハウエルだ。自分以外の誰かがすでに考えたことを無思考的になぞるのが読書行為であるとはやや極論かもしれない。だが、そうではないとも言い切れぬ。本の内容を素材にして考えるほうが、本を手にしないで考えるよりも負担は少ない。もっとも、本を読んでも思考力が衰えるのなら、本を読まないとバカはさらに加速するだろう。ショーペンハウエルの言は、「考える力のある人は読書に依存しない」と読み替えてみるのが妥当である。そう解釈しても、では、考える力の乏しい人がどのように読書に付き合えばいいのかという答えは出てこない。


何にでも関心を示して精進するわけにはいかない。教養はあるほうがいいし、ものは知らないよりも知っているほうがいいだろう。しかし、どれだけ頑張っても、知っていることは知らないことに比べたらつねに一握りにすぎない。「えっ、読書家なのに、あの小説はお読みになっていない? 絶対読まないといけませんよ」と年下の知人に忠告されたと仮定しよう。「先生ともあろう人が……」と追い討ちもかけられ、これは聞き捨てならぬと、ぼくのお説教が始まる。

「あいにくぼくはその作家に関心がない。ペンネームの漢字の読み方すら間違って覚えていたくらいだ。ベストセラーか評判の作品かどうか知らないが、なぜ右にならえのように読まねばならないのか。一億総同本読みか。では、聞くけどね、きみはガルシア・マルケスの『百年の孤独』を読んだかい? ほら、読んでいない。ノーベル賞作家だ。村上春樹がまだ受賞していないあの賞。『百年の孤独』でも他の本でもいいが、ぼくはきみに一度でも絶対読まないといけないと言ったことがあるかね? 断じてない! 本というのは人それぞれ何を読んだっていいんだ。いや、何も読まなくってもいい。世の中に読まねばならぬ本はなく、他人から勧められて半ば強制されるように読むべき本もない。ただ読んでみたい本があるのみ。きみとぼくの読む本の大半が重なるなんて、こんなおもしろくない話はない。重ならないからこそ、ぼくはきみの読んだ本の印象を聞いてみたいと思うのじゃないか……」

説教は、おそらく収まらない。さて、福沢諭吉の『学問のすゝめ』に読書に言及する一編がある。学問ということばを小難しく考えることはない。初歩的な意味は「学び習うこと」にほかならない。つまり、学習。一般的には教師や書物から新しい知識を授かることである。このことを承知した上で、同書の十二編を読んでみる。

学問はただ読書の一科に非ずとのことは、既に人の知るところなれば今これを論弁するに及ばず。学問の要は活用に在るのみ。活用なき学問は無学に等し。(……)学問の本趣意は読書のみに非ずして精神の働きに在り(……)

読書は学問の出発点でもなければ本質でもないということだ。読書によって何かを学んで習っても、インプットだけでは無学と変わらない。学習で重要なのは、活用だ、精神の働きだと言うのである。ショーペンハウエルが指摘したのもたぶんこれだ。本を読むな! と言ったのではなく、書かれていることを覚えるだけでは考えないだろう、生かさないだろう、精神が面目躍如として生き生きとしないだろう……というようなメッセージとして読み取れるのではないか。

読んだら書けばいい。自分の思考の拠り所を基礎として書評をしたためればいい。したためた書評を誰かとシェアすればいい。書評を読み返し思考と精神を時折り更新すればなおいい。このような繰り返しが日々の生き方・仕事の仕方に反映されてくる。机上の読書が現実に降りてくるのである。

桜のアンビバレンス

花の情緒がさほどうるわしくない街に住み、働いている。そんな街でもこの季節になれば、通りや公園や校庭は桜の花で満たされる。手元の歳時記の四月三日のページには「かげろう」とある。漢字で「陽炎」と書くように、地面から気が炎のように立ちのぼり、その向こうの物体や景色を揺らめかせて見せる。ぽかぽか陽気の春ならではの現象だ。今日の昼前はまずまずの温かさだったが、かげろうが立つほどではなかった。

刺激の少ない、単調で単純な生活を送っていると、脳がそのパターンに適応する。変わらぬ光景を日々見慣れているうちに感動は薄まってくる。もし桜が年中咲いていたら……と想像してみよう。ずっと咲いているのだから、いつ咲くのかと待ち焦がれない、開花時期が気にならない、散り際に居合わせることはできない。今日見損なったら明日見ればいい。酒と弁当を手にして花見をしようと思わなくなる。桜を巡る感情は緊張と繊細さを失う。

さっと咲いてさっと散るからこその桜なのだ。桜はもちろん現実の花である。だが、この国では桜は他の花々とは比較にならないほどシンボル的でありイメージ的存在であり続けてきた。今も桜には「プラスアルファ」が被せられる。はかなさを思う人がいて、宴に心を弾ませる人がいる。「同期の桜」が秘める情念には好悪の思いが交錯する。「桜は概念」だとぼくは思うのだ。


桜花は趣の深い「あはれ」を秘め、ある時には爛漫を謳歌する。おびただしい詩歌がそのように桜を扱ってきた。ところが、ひょんなことから孤高の気分に襲われたりすると、桜の花はあはれでも華やかでもなくなってしまう。萩原朔太郎は孤高かつシニカルに感じ、その心情を詩篇にした。「憂鬱なる花見」は、桜をおぞましく嫌悪している。

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
(……)

ここまでやり込めなくてもいいだろうと思う反面、桜の色とイメージに憂鬱を誘う何かが潜んでいそうな気がしないでもない。人が賑わえば賑わうほど、宴の声が高まれば高まるほど、桜をうとましい存在に感じて遠ざかりたくなることがある。人を鬱陶うっとうしくさせるフェロモンを桜が出しているはずがない。ただ、はかなさから来る桜のイメージに不安心理を重ねてしまうのだろう。

中大江公園の桜4

ぼくが訪れた公園はと言うと、満開間近の風情だった。一本の木が咲かせる桜花の密度が際立っていた。遠目に淡い色を見るもよし、近づいて枝花を見上げるもよし。しかし、アンビバレントな桜の観賞はつくづくむずかしいと思う。静かに一人で眺めている分にはいい。いったん人混みに紛れたり集団花見を強いられたりすると、気が詰まり息苦しくなることがある。そのちょっと先に萩原朔太郎の厭世観があるのかもしれない。