桜のアンビバレンス

花の情緒がさほどうるわしくない街に住み、働いている。そんな街でもこの季節になれば、通りや公園や校庭は桜の花で満たされる。手元の歳時記の四月三日のページには「かげろう」とある。漢字で「陽炎」と書くように、地面から気が炎のように立ちのぼり、その向こうの物体や景色を揺らめかせて見せる。ぽかぽか陽気の春ならではの現象だ。今日の昼前はまずまずの温かさだったが、かげろうが立つほどではなかった。

刺激の少ない、単調で単純な生活を送っていると、脳がそのパターンに適応する。変わらぬ光景を日々見慣れているうちに感動は薄まってくる。もし桜が年中咲いていたら……と想像してみよう。ずっと咲いているのだから、いつ咲くのかと待ち焦がれない、開花時期が気にならない、散り際に居合わせることはできない。今日見損なったら明日見ればいい。酒と弁当を手にして花見をしようと思わなくなる。桜を巡る感情は緊張と繊細さを失う。

さっと咲いてさっと散るからこその桜なのだ。桜はもちろん現実の花である。だが、この国では桜は他の花々とは比較にならないほどシンボル的でありイメージ的存在であり続けてきた。今も桜には「プラスアルファ」が被せられる。はかなさを思う人がいて、宴に心を弾ませる人がいる。「同期の桜」が秘める情念には好悪の思いが交錯する。「桜は概念」だとぼくは思うのだ。


桜花は趣の深い「あはれ」を秘め、ある時には爛漫を謳歌する。おびただしい詩歌がそのように桜を扱ってきた。ところが、ひょんなことから孤高の気分に襲われたりすると、桜の花はあはれでも華やかでもなくなってしまう。萩原朔太郎は孤高かつシニカルに感じ、その心情を詩篇にした。「憂鬱なる花見」は、桜をおぞましく嫌悪している。

憂鬱なる桜が遠くからにほひはじめた
桜の枝はいちめんにひろがつてゐる
日光はきらきらとしてはなはだまぶしい
私は密閉した家の内部に住み
日毎に野菜をたべ 魚やあひるの卵をたべる
その卵や肉はくさりはじめた
遠く桜のはなは酢え
桜のはなの酢えた匂ひはうつたうしい
(……)

ここまでやり込めなくてもいいだろうと思う反面、桜の色とイメージに憂鬱を誘う何かが潜んでいそうな気がしないでもない。人が賑わえば賑わうほど、宴の声が高まれば高まるほど、桜をうとましい存在に感じて遠ざかりたくなることがある。人を鬱陶うっとうしくさせるフェロモンを桜が出しているはずがない。ただ、はかなさから来る桜のイメージに不安心理を重ねてしまうのだろう。

中大江公園の桜4

ぼくが訪れた公園はと言うと、満開間近の風情だった。一本の木が咲かせる桜花の密度が際立っていた。遠目に淡い色を見るもよし、近づいて枝花を見上げるもよし。しかし、アンビバレントな桜の観賞はつくづくむずかしいと思う。静かに一人で眺めている分にはいい。いったん人混みに紛れたり集団花見を強いられたりすると、気が詰まり息苦しくなることがある。そのちょっと先に萩原朔太郎の厭世観があるのかもしれない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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