昭和30年代初期の記憶

昭和の年に25を足すと西暦の下二桁になる。昭和30年だと25を足して55、この前に19を置けばいい。つまり、1955年。西暦のその年から東京五輪開催の1964年までが昭和30年代である。

一円玉

現在流通しているアルミニウムの一円玉は昭和30年に発行された。その翌年に五歳年下の弟が母の実家で生まれる。ぼくも立ち会っていた。当日のことは今でもよく覚えている。祖母から十円硬貨をもらい、近所の店にポンせんべい(満月ポン)を買いに行った。当時、十枚で5円だから一枚0.5円の勘定になる。つまり、50銭(1円は100銭に相当)。

1円未満の商品がまだあったので「銭」という単位は「仮想的に存在」していたが、銭の通貨はもはや出回っていなかった。だから、ぽんせんべいは一枚だけは売ってくれない。いや、奇数の枚数だと50銭のお釣りがないから、必然的に偶数の枚数を買うことになる。十枚買うことにし、十円硬貨を手渡した。お釣りは5円。てっきり五円玉を受け取ると思っていたら、手のひらにのせられたお釣りが一円玉5枚だった。初めて見る一円玉。キラキラと光っていた。家に戻って親族に見せびらかした。よほどうれしかったのだろう。

昭和34年(1959年)の夏に引っ越した。大阪のとある下町から別の下町へ。生まれて八歳まで過ごしたエリアの近くに半月前に行く機会があり、寄り道してみた。住んでいた家は当然跡形もなく、別の家が建っていた。どの家にも見覚えはないが、西川金物店が看板を掲げて存在していたのには驚いた。町内に何十軒もの家が立ち並ぶ中、昭和33年にテレビを所有していたのはその金物店だけだった。大相撲やプロレスの日には溢れるほど人が集まってテレビ観戦していた。誰でも気さくに招き入れた西川の爺さんの顔が思い浮かぶ。


テレビ観戦で印象に残っているのが、昭和33年のプロ野球日本シリーズ。西鉄ライオンズvs読売ジャイアンツの対戦だ。巨人3連勝の後、西鉄が4連勝して制覇し、奇跡の逆転劇シリーズと言われる。西鉄の稲尾投手が全7戦のうち6戦に登板、うち4戦が先発という獅子奮迅の活躍を見せた。「神様、仏様、稲尾様」はこの時に生まれたことばである。

町内に物乞いに来るホームレスの男性がいた。いつも来るのではなく、忘れた頃にやって来る。西鉄と巨人の日本シリーズが終わった後に来た。ボロを纏っていても礼儀正しいところがあったので、子どもたちはなついていた。彼の歩く後をついて回ったりした。彼は特殊な才能の持ち主だった。どこで手に入れたか知らないが、ラジオを持っていて、いつも野球放送を聞いていた。そして、アナウンサーの一言一句を一試合分丸ごと覚えてしまうのである。「西鉄と巨人の第7戦」の実況も見事に再現したのだった。テレビで観戦済みのぼくなどは、もう一度ラジオ放送を聞く気分で昂ぶった。今にして思えば、サヴァン症候群の天才だったのかもしれない。

町内に唯一モダンな住居があった。当時のことばでは「洋館建ての家」。世帯主の職業は知らない。玄関を入って右手にガラス張りの応接間があり、ひときわ目立っていた。その家を見るたびに外国をイメージしたものである。

路上での遊びはビー玉であり、ベッタン(メンコ)であり、相撲であった。信じがたいことだろうが、小学校一年の頃、春から夏の季節になると、学校から帰宅してすぐに浴衣に着替えていた。子どもは浴衣姿で遊んだものである。大人も子どもも、暮らし方も気質も、食べ物も習慣も現代とはまったく違っていた。初期の昭和30年代はおそらく何かにつけて今とは別物であり、もっと言えば、昭和40年代・50年代とも様相が異なっていた。遠く過ぎ去ったはずの大正・明治の影を引きずっていたと思うのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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