昭和30年代初期の記憶

昭和の年に25を足すと西暦の下二桁になる。昭和30年だと25を足して55、この前に19を置けばいい。つまり、1955年。西暦のその年から東京五輪開催の1964年までが昭和30年代である。

一円玉

現在流通しているアルミニウムの一円玉は昭和30年に発行された。その翌年に五歳年下の弟が母の実家で生まれる。ぼくも立ち会っていた。当日のことは今でもよく覚えている。祖母から十円硬貨をもらい、近所の店にポンせんべい(満月ポン)を買いに行った。当時、十枚で5円だから一枚0.5円の勘定になる。つまり、50銭(1円は100銭に相当)。

1円未満の商品がまだあったので「銭」という単位は「仮想的に存在」していたが、銭の通貨はもはや出回っていなかった。だから、ぽんせんべいは一枚だけは売ってくれない。いや、奇数の枚数だと50銭のお釣りがないから、必然的に偶数の枚数を買うことになる。十枚買うことにし、十円硬貨を手渡した。お釣りは5円。てっきり五円玉を受け取ると思っていたら、手のひらにのせられたお釣りが一円玉5枚だった。初めて見る一円玉。キラキラと光っていた。家に戻って親族に見せびらかした。よほどうれしかったのだろう。

昭和34年(1959年)の夏に引っ越した。大阪のとある下町から別の下町へ。生まれて八歳まで過ごしたエリアの近くに半月前に行く機会があり、寄り道してみた。住んでいた家は当然跡形もなく、別の家が建っていた。どの家にも見覚えはないが、西川金物店が看板を掲げて存在していたのには驚いた。町内に何十軒もの家が立ち並ぶ中、昭和33年にテレビを所有していたのはその金物店だけだった。大相撲やプロレスの日には溢れるほど人が集まってテレビ観戦していた。誰でも気さくに招き入れた西川の爺さんの顔が思い浮かぶ。


テレビ観戦で印象に残っているのが、昭和33年のプロ野球日本シリーズ。西鉄ライオンズvs読売ジャイアンツの対戦だ。巨人3連勝の後、西鉄が4連勝して制覇し、奇跡の逆転劇シリーズと言われる。西鉄の稲尾投手が全7戦のうち6戦に登板、うち4戦が先発という獅子奮迅の活躍を見せた。「神様、仏様、稲尾様」はこの時に生まれたことばである。

町内に物乞いに来るホームレスの男性がいた。いつも来るのではなく、忘れた頃にやって来る。西鉄と巨人の日本シリーズが終わった後に来た。ボロを纏っていても礼儀正しいところがあったので、子どもたちはなついていた。彼の歩く後をついて回ったりした。彼は特殊な才能の持ち主だった。どこで手に入れたか知らないが、ラジオを持っていて、いつも野球放送を聞いていた。そして、アナウンサーの一言一句を一試合分丸ごと覚えてしまうのである。「西鉄と巨人の第7戦」の実況も見事に再現したのだった。テレビで観戦済みのぼくなどは、もう一度ラジオ放送を聞く気分で昂ぶった。今にして思えば、サヴァン症候群の天才だったのかもしれない。

町内に唯一モダンな住居があった。当時のことばでは「洋館建ての家」。世帯主の職業は知らない。玄関を入って右手にガラス張りの応接間があり、ひときわ目立っていた。その家を見るたびに外国をイメージしたものである。

路上での遊びはビー玉であり、ベッタン(メンコ)であり、相撲であった。信じがたいことだろうが、小学校一年の頃、春から夏の季節になると、学校から帰宅してすぐに浴衣に着替えていた。子どもは浴衣姿で遊んだものである。大人も子どもも、暮らし方も気質も、食べ物も習慣も現代とはまったく違っていた。初期の昭和30年代はおそらく何かにつけて今とは別物であり、もっと言えば、昭和40年代・50年代とも様相が異なっていた。遠く過ぎ去ったはずの大正・明治の影を引きずっていたと思うのである。

人工知能と専門性

ぼくのたしなみの一つに将棋がある。二十代の頃にプロに少し教わった短期間を除けば、独習ばかりで実戦経験も多くなく、腕前のほうはたかが知れている。決して強くはないと自覚しているが、まわりにいる将棋好きには負けた記憶がない。今も時々詰将棋や次の一手問題を解いて自己満足している。

最近は無料でダウンロードできる将棋ソフトが何種類もある。決して侮れない。強弱はいろいろあって、初級ソフトには勝てる。中級ソフトだと五分になる。ところが、最強ソフトになると十回のうち1回勝てれば御の字だ。もちろん、ぼくが遊んでいるソフトは、将棋のプロ棋士と互角に戦っているのとは違う。その手の最高峰とは何度対局しても、未来永劫勝てることはないし、惜しいという場面も一度も訪れないだろう。

つい最近、囲碁の人工知能「アルファ碁」が話題になった。人間が将棋で負けても囲碁で負けることはないと言われてきた。なにしろ囲碁の組み合わせは、将棋の何兆倍、いや、数字の単位の名称さえない圧倒的な桁数に到る。ところが、アルファ碁を相手に現役最強とされる韓国の棋士イ・セドルが5局戦い、14敗と惨敗した。これまでの人工知能は膨大なデータを単純計算するだけだった。しかし、囲碁は先の先までの変化を読むだけでは強くなれない。読みを支えるのは大局観である。アルファ碁はこの大局観を身につけた史上初の囲碁ソフトである。人の脳に近いシナプス回路のネットワーク技術を組み込んだという。もし大局観が互角なら、天文学的な手数を読む人工知能が人間よりも強くなるのは必然の結果なのである。

しかし、人の脳のシナプス回路は人工知能の比ではないほど複雑だと言われている。にもかかわらず、この結果になったのはなぜか。以前、人工知能と将棋のプロ棋士が対戦しているのを見て思ったことがある。人間はトイレに立たねばならない。眠くもなり疲れも出てくる。昼食休憩があれば食事もする。一息ついてお茶を飲む。将棋に専念しているようでも、諸々の雑用や人間関係や明日のことを吹っ切ることはできない。昨日読んだ本の一節も浮かぶかもしれない。ところが、人工知能のほうは一切の雑念とは無縁。当面の対局に完璧に集中できる。ただ一つの専門テーマに「全脳」を使い果たし、無関係なことには見向きもしない。


雑多なことが頭をよぎり、あれもこれもと考えてしまうのが人間らしい。日常生活も仕事も本来そういうものではないか。ところが、企業では専門性が加速している。専門性は、社会がグローバル化し多様化し複雑化する現象に対応する上で、必要不可欠な分化現象なのだろう。だが、その見返りとして、人工知能が人まねで身につけた大局観、つまり、全体を構想したり知を統合したりする人間固有の資質を犠牲にしてしまった。人間社会の専門性の様子と人工知能の方向性を並列的に眺めてみれば、あることが見えてくる――一見高度に思えるビジネスや研究分野の専門性は、その道一途であればあるほど、人工知能で代替されてしまうのではないかという点だ。専門性プラス構想力の人工知能に軍配が上がる日はそう遠くはないと思われる。

専門性の危うさはジリアン・テットの近著『サイロ・エフェクト』の主題でもある。まぐさを発酵させたり農産物を貯蔵するあのサイロは、「縦割り」を思わせる建造物だ。「窓がなく周囲が見えない状態」を暗示する。専門性と言えば聞こえはいいが、一点集中の危うさをつねに秘めている。他分野に目配りせず、専門分野だけを扱っていれば、個性が色濃くない人から順に消えていくだろう。たとえば、テキストを棒読みするような教師。それを専門家と呼ぶなら、eラーニングを高度化した人工知能を持つロボット教師のほうがよほどいい。ついでに、そのロボットにユーモアセンスが備われば、教壇に上がるのが人間でなければならない理由はなくなる。

知層と知圏

人工知能を使いこなす側に立つか、それとも人工知能に代替されない人間固有の能力を発揮するか……これが人の生きる道の二つの選択肢になりそうだ。しかし、前者の人は下剋上に怯えて生きるだろう。近い将来、仕事人としての出番を確保するには、人工知能に「この人間にはかなわない」と思わせるしかない。そのためには、膨大な専門知識をサイロ内に縦に格納するような〈知層〉の発想を放棄し、構想力や統合力に支えられた広がりのある〈知圏〉を生かすことである。人工知能よりも複雑だとされる脳のシナプスを生かすことに活路を見出すべきだろう。

両義性について

一つの語に一つの意味しかないのなら、辞書の説明から「㊀、2、➌」などの箇条書きを示す数字は消える。見出し語のすぐ下に説明文を載せれば事足りる。実際、そういう一義性の語はいくらでもある。しかし、複数の意味を持つ語も決して少なくない。

意味をいくつも備えていることばを〈多義語〉と呼ぶ。ことばに多義性があると、どの意味を示しているのか紛らわしくなる。多義語はおおむね曖昧語でもあるからだ。手元にある辞書では「やま」の見出しの中に五つの意味が解説されている。高いと一般的に形容する「あの山」だけが山ではない。

多義語のうち、二つの意味を持つ語で、どちらの意味を示しているのかわかりづらいものが〈両義語〉である。掛詞かけことばも両義語だが、たとえば「松」と言って「待つ」も意味させるように、同時に表と裏のダブルミーニングが成り立つ。教養があれば両義を汲み取れる。

両義語の意味がわかりづらいケースは、二つの意味が相反する場合だ。たとえば「適当」が、ものの状態が条件や目的によく合っていることなのか、辻褄合わせのおざなりな対応でいいということなのか……どっちの意味かわからなくなることがある。語をぽつんと置かれたり短い文中で使われたりすると、ちんぷんかんぷんである。

「霜降り」は多義語だ。①霜が降りること、②牛肉の網目のような白い脂肪、③熱湯をくぐらせたのちに冷水にさらした刺身、などを意味する。しかし、「霜降り肉」と言えば、白い脂のサシが入った牛肉のことである。ここまでは辞書の定義で明解になるが、字義の意味が明解になってもなお、霜降り肉という表現は受け手に相反する印象を抱かせる。つまり、「霜降り肉はとろけるようにうまい」と「霜降り肉は身体に毒」という両義性を感じさせてしまう。ソシュールの術語を使えば、〈記号表現シニフィアン〉は同じでも、人によって〈記号内容シニフィエ〉が変わってくるのである。


岸壁から転落に注意

こんなアイコンの場合を考えてみよう。赤い三角形は一般的に注意を促す時に用いられる。もしこのことを知らなければ、この三角形そのものが多義性を有することになる。次に絵に注目する。自動車はわかりやすい。三本の波状の線は海面を思わせる。海面だから、そこは海なのだろう。こう類推してみると、少し隠れている黒い方形は岸壁ではないかと察しがつく。絵の意味は「岸壁から海面に車が落下しているところ」であり、赤い三角形の意味を足せば、「運転中、岸壁から海への転落に注意」を示すアイコンらしきことがわかる。

ここで一つのことに気づかねばならない。本来アナログ動作であるものが、デジタル的に静止して示されているという点だ。一言のことばの両義性同様に、一枚の静止画も両義性を帯びる。動画は一連の流れを見せ、そこに「方向」が示される。しかし、一枚の写真や絵にはそれがなく、眺める者の解釈に委ねられる。向きというのはぼくたちの動作の中で意味理解を促すために重要な役割を果たしているのである。すべての常識の呪縛から解かれると、このアイコンは「海中から車が浮かび上がる」というSF世界の意味に変化するかもしれない。

多義であれ両義であれ、ことばの意味は文脈によって判断するしかない。アイコン一つ、ことば一語を他要素から切り離して提示すれば、解釈者の常識に期待するしかなくなる。そして、厄介なことに、常識というものは人それぞれなのである。すべての常識が先験的であり超越的であるとはかぎらない。ゆえに、文脈不足――意味の判断材料の不足――の状態では、両義性にともなう意思不通が頻繁に生じるのである。

記録は勝利を担保するか

「次の試合では記録よりも勝負にこだわりたい」とスポーツ選手が言うのを耳にする。世界大会への出場基準が優勝か標準記録かはスポーツによって異なる。格闘技や球技などの一対一の対抗型競技は、リーグ戦であれトーナメント戦であれ、勝って頂点に立たねばならない。だから、基準を満たすのは原則として優勝以外にない。しかし、陸上や水泳は一対一ではなく、予選から決勝までおおむね八人で競う。決勝までは順位と記録の両面で上位者を勘案する。しかし、決勝は順位がものを言う。そして、優勝しても標準記録に及ばなければ、世界選手権や五輪への資格を得られないことがある。陸上の中でもマラソンの代表選考基準が定まりにくいのは周知の通り。

陸上や水泳の解説者はことのほか記録にこだわる。ぼくのような一対一の個人対抗型競技しか経験のない者にとっては関心は勝敗だから、「勝つことは勝ったが、記録は平凡」というコメントに違和感を抱く。場合によっては、記録のほうが重要だとの印象を受けることさえある。それなら、予選を勝ち抜けるのは各組上位2名と3位以下の記録上位者救済という方式をやめて、すべて記録順に次戦への進出者を決めたらどうだと極論の一つも吐きたくなる。まあ、素人の単純な思い付きだとのそしりは受けるだろうが、記録を重視するなら全員一人で走り泳げばいい。もっとも、そんな妙味のない競技にファンが集まるとは思えないが……。

かく言うぼくも、男子陸上100メートル競走の観戦にあたっては、世界歴代十傑クラスの9.8秒台の記録を期待している。しかし、やっぱり記録がすべてではない。大きな国際大会で優勝タイムが平凡な1003であったとしても、国歌が流れ日の丸がセンターポールに揚がれば国民も解説者も歓喜するだろう。つまり、勝つということは記録よりも重要なのだ。勝ち負けがあり、そして最後に勝つということを目指すからこそ競技は成り立つ。予選敗退者に比べれば、銀メダリストはかぎりなく金メダルに近いが、その差を僅差と見るようなスポーツはつまらない。金メダルだけが輝き、銀メダル以下はみな同じという厳しさがあってこそのスポーツである。

スポーツ界以外の実社会ではwin-winがあるし、必ずしもナンバーワンでなくてもいい。同じジャンル、同じカテゴリーで複数の勝者や成功者が生まれるのが普通である。たとえばビジネスでは、他社とは関係なく、自社の業績がよければ勝ち組に属する。とは言え、ここに「幸福」や「よい仕事」という概念を持ち込めば、業績という記録のみが勝利を担保するとはかぎらなくなる。儲かってはいるが、社員に不平不満が募る大企業はいくらでもあるし、業績に目ぼしいものがなくても、やりがいを感じる職場があったりする。


トラック

スポーツに話を戻す。昨年8月の世界陸上で日本女子チームは400メートル×41600メートルリレーで予選敗退した。悔し涙を流さねばならない場面だったのに、日本新記録を示す数字を見て選手らは肩を抱き合って歓喜に感涙した。幸せに包まれ、しっかりと満足したようであった。解説者も予選敗退のことについてはほとんど言及せず、記録を褒めたたえた。順位や予選通過などよりも記録だったのである。世界レベルに程遠い記録、しかも予選で敗退したにもかかわらず、自己ベストで慰められるとは、なんという自己満足か。

当初から予選敗退が織り込み済みなのである。勝てるとすれば力上位の他チームが失格するしかない。もし番狂わせで準決勝に進みでもすれば、解説者も記録のことなど云々せずに、勝ち抜いたことを褒めちぎるだろう。記録ならずっと記録至上主義に徹すればいいのである。日本人トップなどという基準などに拘泥することもない。但し、記録は決して勝利を担保してくれはしない。

広告業界にいた三十代半ば、仕事を取るためには広告コンペにエントリーしなければならなかった。参加企業が三社であれ五社であれ、コンペに勝たねば仕事は受注できなかった。クライアントが「甲乙つけがたい出来だったが……」と慰めてくれても、落選したら負けなのである。ここに記録の出番はない。クールな勝敗だけが待ち構えている。負ければ落ち込み、準備に注いだ努力はすべて水泡に帰する。やるだけのことはやったなどという満足もなければ、悔し涙も出なかった。ただただ強い敗北感だけが余韻になって残る。勝率は高かったし何連勝もしたことがあるが、勝利の記憶よりも敗北の記憶のほうが強い。

記録は逃げ場になる。そして、負け惜しみで幕引きになりかねない。プロフェッショナルの世界では勝敗がすべてであり、なおかつ、強者であっても負ける宿命を必ず背負う。だからこそ、負けてまず、腐らず、緩まずなのだろう。

コロケーション考

「コロケーション」はれっきとした英語表現である(“collocation”)。念のために書くが、新しいタイプのコロッケのことではない。コロッケ(croquette)はフランス語源で、コロケーションとはまったく別物だ。ただ、おもしろいことに、コロケーションにはコロッケの本質と似たところがある。ポテトやミンチ肉を包むパン粉の衣が絶妙にマッチして上質なコロッケができるように、コロケーションも語と語のこなれた結び付きによって文の味わいを豊かにしてくれる。

英語には慣用句が多い。慣用句は変化を許さないコロケーションだから、意味を共有しやすい。別の見方をすると、英語という言語は誰が喋っても書いても、あることを伝える時の表現が同じになりやすい。だから、十代、二十代で英語を独習していた頃は、ペーパーバックの小説を読んでは慣用的な表現を熱心にノートに取り、それにこなれた日本語を付ける練習をしたものだ。ネイティブスピーカーが慣用的に使っている表現を覚えるのが英語学習のコツである。勝手に英語を発明してはいけない。

日本語にも慣用表現はいくらでもある。一例として、「手」と結び付く動詞を調べてみたら、60近くもあった。語につく助詞(が、に、も、と、を)によって動詞が変わる。手が足りない、手が届く。手に汗を握る、手に掛ける。手も足も出ない。手と身になる。手を染める、手をこまねく、等々。なかなか使いこなせていないし、慣用的な連語ということに横着でもある。実感と来れば「実感が湧く」か「実感がこもる」なのだが、「実感がある」とか「実感する」と言ってけろりとしている。片鱗は「示す」ものだが、「片鱗がある」で済ます。もっと言えば、「ある」とか「する」とか「なる」を名詞と助詞の後にくっつければ、コロケーションのことなど意識しなくても、たいていのことは言い表わせてしまう。語感や妙味は今ひとつだが、コミュニケーションに支障は来さない。名詞と動詞の豊富な慣用的表現に恵まれながらも、日本語の融通性に甘えて安易な文を綴ってしまうのが常である。


英語のコロケーション辞典や活用辞典は二十代の頃から何冊も手垢で染めてきた。それに比べて母語である日本語の語の結び付きには意を注いでこなかった。日本語のコロケーション辞典を初めて手にしたのはほんの十数年前である。オフィスでは2006年発行の『知っておきたい 日本語コロケーション辞典』を置いていて、たまに読んだり参照したりしている。どんな時に辞典を活用するかと言うと、語をフォローする動詞がしっくりこない時だ。文才に長けた書き手は動詞上手である。本来動詞が文章のトリを務めることが多い日本語なのに、「ある」や「する」や「なる」ばかりで終わっていてはつまらない。

コロケーションは「名詞+助詞+動詞」の慣用的な連語・結合である。定番になっているから、語呂がいい。あるいは、使い勝手と使い心地がよく、快く響くから生き残ってきたとも言える。快く響けば、文章が品格を漂わせる。「(品格のある日本語とは)しかるべきことばがしかるべき場所でしかるべき用法に従って使われている日本語」(別宮貞徳)という言は、適語が適所に配置されていることにほかならない。たとえば、「後釜にする」と書いた。しかし、何か物足りない。これは語彙の少なさのせいではなく、コロケーションに精通していないのが原因である。辞書を引けばいい。後釜に続くこなれた動詞は「据える」か「座る」であることがわかる。

コロケーションの構造

「流れ」という語のコロケーション構造を図示してみた。助詞を「に」と「を」に限れば、ぴったりくる動詞はおおむね三つ。もちろん、「流れに沿う」もありだし「流れが向いてきた」もありだろう。創意工夫の余地がないわけではない。これぞという新しいコロケーションが人口に膾炙すれば慣用化されることになる。ことばはそのようにして生き残り定番となってきた。但し、先に書いたように、語呂の良さとこなれは重要な条件である。

コロケーションなどという外来語を使って説明したわけではないが、丸谷才一は『文章読本』の中で次のように説いた。

文章の秘訣は孤立した語の選び方にあるのではなく(……)、語と語の関係にあると答へればそれですむ。言葉と言葉との組合せ方が趣味がよく、気品が高ければ、(……)品格の高い、優れた文章が出来るし、逆に、組合せ方の趣味が悪く、品がなければ、高尚で上品な言葉ばかり、雅語づくめで書いたとて、あまりぞっとしない文章になる。

言語の主役は動詞だと思っている。日本語であれ外国語であれ、動詞が機能しなければ文は体を成さない。人の語学力は動詞にありと言っても過言ではない。日記や小説では動詞に脈を打たせることはできるが、この拙文のように意見を開示したり説明を試みようとすれば動詞を生かすのに難儀する。丸谷才一の言うように、語と語の組み合わせ――とりわけ名詞と動詞の組み合わせ――が文章の秘訣であることを頭では重々承知しているが、ここまで書いてきた拙文を読み返して文末の仕上げに工夫の余地を感じる。追々推敲を重ねることにしよう。

おもしろくない人たち

他人に対して得意・苦手の意識は抱かないし、その結果としての優越・劣等の感覚も持ち合わせない。これがぼくの原則だが、あくまでも仕事に限った話。仕事から離れれば、つまり、信用や義務が薄まる日常の付き合いでは、時と場を同じくして居心地がいいか悪いかを人物評価の第一にしている。趣味や信念や思想の相違などはどうでもよく、おおむね機嫌がよく愉快であれば不満はない。裏返せば、プライベートでは唯一苦手なのはおもしろくない人物ということになる。けれども、「来る者拒まず去る者追わず」がモットーなので、おもしろくないという理由だけで振り払うべからずを肝に銘じている。

苦手という表現を使ったが、困るほど苦にはしていない。齢を重ねてきて残された時間もどんどん減ってくるから、おもしろくない人間と付き合う時間がもったいないというのが正しい。「おもしろくない」と言うものの、定義も基準も示せない。「おもしろい」に固定化された定義や基準がないように。ジョークやギャグを言うからおもしろいわけでもない。アタマがやわらかくユーモアセンスが光っても波長の合わない者がいる。その一方で、ほとんど冗談も言わず静かなのに、こっちの駄弁に機嫌よくタイミングよく感応してくれる人がいる。無理にぼくの調子に合わせているふうでもない。つまり、人物そのものがおもしろくなくてもいいわけで、空気が澱まず硬直せず座がなごやかになれば不満はない。

意外かもしれないが、おもしろさの基本成分は「コモンセンス(良識)」である。天井知らずのハイテンションや底無しの冗談やしつこいナンセンスは、愉快の演出の主役になるどころか、愉快を減殺してしまう。あの赤塚不二夫が「ギャグを言う(作る)には常識人でなくてはいけない」と言った。笑いの本質を衝く卓見である。笑いが常軌や規範を絶妙に外し、凝り固まった常識に逆説や想定外の光を照射するものであってみれば、コモンセンスを弁えてはじめて成しうる仕業と言えるだろう。コモンセンスの持ち主はわざわざつまらない社交辞令で場を凌いだりしようとしない。楽しくておもしろくなるように心を砕き工夫を凝らす。コモンセンスがないから、愉快に無神経なのであり、場にも貢献できないのである。


笑い&笑い

たまにお笑いコンクールを観る。これでよく笑いのプロをやっているものだと呆れる以上に、審査員のセンスや講評のつまらなさに愕然とする。「わたしのツボだなあ。おもしろいし好きですよ、この感覚」と褒める審査員。常識的に評価すれば、まったくおもしろくなく、この審査員の笑いのセンスがずれていたのは明らかだった。何よりも会場が笑っていなかったのである。お笑い芸だけに限らない。ある時、とっておきのジョークを知人に披露した。ふつうに笑えばいいのに、笑う代わりに彼は感想を言い始めたのである。この時点でおもしろくない人だと判明する。せめて一言でまとめればいいものを、読点(、)で延々と思いをつなぎ、いつまでたっても句点(。)で言い切らない。間に合わせの、心にもない感想をだらしなく喋り続けた。挙句の果ては、「と言うわけで、おもしろいと思うんですよね」と締めくくった。ぼくのジョークが色褪せて、ジ・エンドだ。

ややこしい言い方をするが、「常識的であっていい、但し陳腐であってはならない」のである。陳腐で凡庸な表現を平気で語る人と居合わせると冷や汗が出る。スリリングな綱渡りを見ているようなのだ。コミュニケーションは人間関係そのものであるから、無難へと向かえばつまらなくなってしまう。社会全般、話がつまらなくなったのは、一つは言葉狩りのせい、もう一つは失言や舌禍を恐れるあまりの無難志向のせいである。陳腐がよろしくないからと言って、「日本死ね!!!」のように度を越してはならない。しかし、ぎりぎりの表現で意見をデフォルメする勇気を持つことはできるだろう。匿名ではなく実名で、コモンセンスにしたがっておもしろいことは言えるはずである。ここで言うおもしろさは笑いのことではない。少々いちゃもんがつくかもしれないサスペンスに心躍らせる愉快のことである。

おもしろくないのは罪だ。罰のない罪。最近聞いた話だが、「除夜の鐘がうるさい」と文句を言う人がいるらしい。除夜の鐘は真夜中に鳴り響く。そういうことになっている。それをけしからんと言う。そのクレーマーは間違いなくおもしろくない人だろう。そもそもユーモアたっぷりのクレーマーにはめったにお目にかかれない。

ところで、ぼくの勉強会は、先に書いた通りで、「来る者拒まず去る者追わず」を原理にしている。これまで、来る者の中にはいろんな人間がいた。「この勉強会の目的は何か?」と根掘り葉掘り聞く人も何人かいた。目的なんかない。しかし、無碍に「ない!」というのも大人げがないし粋ではないので、理窟っぽく明文化したり話したりすることがある。その理屈はぼくにとっては遊び心にほかならないが、それをなかなか理解してもらえない。勉強会の目的や意義を尋ねる人間におもしろい者は一人もいなかった。

バカバカしいけど書いてみた

不思議なもので、好奇心のおもむくまま気に入りそうなものを追いかけていると、モノであれ情報であれ光景であれ、自分の圏内にすっと入って来る。まるで砂鉄が磁石に引き寄せられるように。心身の調子がよい時に散歩すると「氣」が漲ってきて、意識を強くするまでもなく、波長の合うものがどんどん視界に飛び込んでくる。

ところが、いったん波長が狂い始めると、とんでもないものばかりが見えたり聞こえたりしてくる。「バカバカしい」と内心つぶやくものの、目に焼き付き耳にこびりつき、気がつけば、見過ごせない、聞き流せない状況に陥っている。そんなこんなをバカらしいけど書いてみる。


青汁になんと乳酸菌が100億個!!
くだらない情報である。なにしろ100億個なのだ。「えっ、90億個じゃなくて、100億個!?」 まさか、そんなふうに驚くはずもない。そもそも、想像の域を超える数字に「すごい!!」などと言ってはいけないのである。「ふ~ん、だから?」というのが正しい。次に、「従来品は100億個でしたが、新商品にはなんと108億個の乳酸菌が入りました」と聞かされても、知らん顔しておけばいい。

ビジネス脱毛――昨日よりイケてるビジネスマンに
自宅のポストに入っていたチラシの見出しである。毛深い男が小ぎれいに変身して仕事ができる男というイメージを醸し出す(つもり)。それを「ビジネス脱毛」と呼ぶことにした。何という表現だ。ビジネス脱毛がありなら、プライベート脱毛、パーティー脱毛、合コン脱毛……何だっていい。ついでに、円形脱毛やミステリーサークル脱毛もメニューに加えてみればいい。まじめなつもりのコンセプトなのだろうが、結果はギャグを演出することとなった。

新聞の見出し「パナ子会社社員を逮捕……」
パナが「パナソニック」であると認知する前に、不覚にも「パナ子」と読んでしまったではないか。えっ、パナ子が会社社員を逮捕!?  パナ子は婦人警官か。

ボクシングダブルタイトルマッチの新聞記事

これも新聞記事。見出しに「ほぼ互角」とあり、「そうなんだ」と思ったのも束の間、見出しの後半には「井岡優位」と書いてある。互角なのか優位なのか決められない、優柔不断な記者。ところが、右端の縦書きを読めば「あすダブル世界戦」とあり、本文に目を通せば、何のことはない、「ほぼ互角 激戦必至」は一試合目の予想、「速さと技 井岡優位」が二試合目の予想だった。そんな勝手な「スラッシュ」の使い方はルール違反。文章だけでなく、文字の配置にもロジックというものがあるのだ。

1点リードされていますが、焦ることは――あと45分ありますから――ないですね」
NHKアナウンサーの気まぐれ挿入句。文字を読めばわかるかもしれないが、テレビの音声なのだ。「あと45分ありますから、ないですね」と聞いたのである。あるのかないのか、ありそうでないのか、なさそうであるのか。「焦ることはないですね、あと45分ありますから」と言えばいいものを。なでしこジャパンが豪州に負ける予感がした。予感通りの結果。

保育園落ちた 日本死ね!
黙殺されるだろうと思いきや、想像以上の注目を集めている。正直、驚いている。いかに正論であろうと、暴言的表現に包まれたメッセージは訴求力を失うものだ。匿名で声を荒げる証言はエビデンスにはなりえない。コワモテの萬田銀次郎が、たとえまっとうな話をしても、品性や知性を欠いて怒鳴れば、世論が共感するはずもないのである。

壊れた公衆電話

堂島で見かけた公衆電話の貼り紙
雨風にさらされた痕跡がありありの薄汚い公衆電話。受話器を触るのに少々勇気がいる。貼り紙にはこう書かれている。

大変、ご迷惑をお掛けしております。只今、この電話は調整中です。お手数ですが、他の電話をご利用下さい。 

調整中って何だろう。「故障」を体裁よく言い換えているのか。NTT西日本では「故障」は禁止用語なのかもしれない。まあ、そんなことはどうでもいい。「大変、ご迷惑……」とはなんと大仰な! 携帯・スマホの時代、公衆電話が一台故障して迷惑をこうむる者はいない。仮にこの電話が気に入っている常連さんがいるとしても、全然大変であるはずがない。実にバカバカしい。バカバカしいけど書いてしまった。

言論について (9) 類比・ユーモア・パトス

比喩と言えば隠喩や直喩を思い出すが、言論的には〈類比アナロジー〉が代表格である。類比や類推はことばの表意性に関わるが、元を辿れば数学の比例や比率のことだった。〈A:B=C:D〉はその最たるもの。この公式では「A×D=B×C」が成立する(たとえば、1:5=3:15)。

数字を概念に置き換えてみると、「弘法大師:筆の誤り=サル:木から落ちる」という類比が出来上がる。「木登り得意のサルだってたまには木から落ちるんだ。書の達人である弘法大師も稀には書き間違いをするだろう」という具合。「発展途上国にやみくもに経済支援をするのは、がん患者にモルヒネを投与し続けるようなものだ」は、「発展途上国:経済支援=がん患者:モルヒネ」で表わすことができ、そのこころは「当面の痛みを抑えることができても、抜本的治癒になるとはかぎらない」ということになる。

類比は、決まれば説得効果抜群である。しかし、どんな比喩にも少なからず強引さがあり反駁リスクを伴う。上記の例で言えば、「空海とサルを、経済と命を、一緒くたにするのか!?」と皮肉を込めて反発されるかもしれない。二つの概念の類比はあくまでも類比であって、まったくイコールではない。推論法則がそのまま当てはまるとはかぎらない。推論の境界線を大胆に乗り越えて果敢に類比に挑む際には、限界と盲点も心得ておくべきだ。

かつてのブッシュ前大統領のことばを思い出す。「すべての国家はテロ側につくか平和への道を歩むかの岐路に立っている」という表現は、「テロ側」と「平和への道」を「悪:善」で対比させたわけだが、何のことはない、「テロ側:アメリカ側」という魂胆が見え隠れしていた。

料理店に二人で入り、一人が「君は何?」と注文したいものを尋ね、もう一人が「ぼくは海鮮丼」と答える。明らかに人間だろうから、「ぼく=海鮮丼」は滑稽であるが、このやりとりに誰も非難を浴びせない。文章から何かを引くと、主述関係がおかしくなるが、置かれている状況や文脈をお互いに踏まえているから意味は通じ合える。言論にはこのような語法上の曖昧さがつきまとう。しかし、これも一つの比喩であって、詭弁や虚偽とは性質を異にする。


グラデーション

雑学系の軽い本に書いてあった話。人の頭髪は平均25万本だそうである。さて、その頭髪を一本ずつ抜いていけば、いつから「ハゲ」と呼べる状態になるのか。あるいは、完全なハゲに一本ずつ毛を埋めていけば、いつからハゲではないと認知されるのか。簡単ではない。ハゲの定義が定まらないかぎり、ジレンマは免れないだろう。

結局、言論は定義の問題も取り扱うことになる。そして、定義とは、他のことばを借りてきて概念を明らかにする作業であるから、比喩の出番も多くなる。髪の毛の本数は25万本から0本のグラデーションを構成する。表現のあやにもグラデーション効果があり、これがユーモアの隠し味になる。

比喩やユーモアは文化的な共通感覚上で作用する。共通感覚の下地がなければ理解に時間を要するし、さっぱり意味が伝わってこない。聞き手が即座に知覚し感応してこその比喩やユーモアである。この感覚の受け皿にはクオリアのように身体と精神が合流する。要するに、ツボに嵌まらなければならない。それまで隠されていたものが、あるいは腑に落ちなかったことが、比喩によってあらわになりユーモアによって謎解きの快感がもたらされる。わからないと不快だが、わかれば気持ちがよくなる。「無知から知への転換の喜び」とアリストテレスも言っている。

ロゴスに依存しないパトス的反論もある。雄弁家デモステネスは慎重な人で、決して即興の演説をしなかったらしい。弁論の内容を練りに練って演壇に上がるのを常とした。この用意周到さを弁論家ビュテアスが辛口に皮肉った。「あなたの議論には灯油の匂いがする。夜遅くまで草稿を練る鈍才だ」。この嫌味に対してデモステネスは瞬時に切り返した。「なるほど、あなたと私とではランプの用途が違うからね。あなたの場合は女と戯れるためだから」。デモステネスのこの即興の切り返しはパトス的反論であり、ロゴスやエトスとは違う効果を出している。

感情に訴えるパトスは意識に影響をもたらす。「意識が対象を変える」と言ったのはヘーゲルだが、同じ対象でも「愛しているか憎んでいるか」によって異なるものに感じる。では、「憎んでいるか怒っているか」という意識ではどんなふうに対象は変わるか。憎しみと怒りのパトスは似ているようだが、微妙に異なる。誰かに怒りをぶつけられたらつらいが、やがて辛さは静まり、逆に、怒っている相手を憐れむようになることさえある。他方、憎まれるのは禍や害悪に近いものを感じる。怒りは醒めても憎しみは根深い。時が過ぎても、自分を憎んでいる相手に憐憫の情などまったく湧いてこない。パトスは感情、意識、そして言論のニュアンスをつかさどることがわかるだろう。   

《全9回 完》

言論について (8) トポスによる説得

弁論や対話でどんなに巧みにことばを操れたとしても、肝心要はそのことばの背後に「論」があるかどうかである。明快でぶれない視点が言論を形づくる。プレゼントの真価は、包装紙やリボンにはなく、プレゼントを選んだ視点にある。ここで言う視点こそが〈トポス(topos)〉であり、これが事実に即した論旨を一貫させる機能を担う。トポスとは「ありか」のこと。言論の際に論題が位置している場所であり、論述を成り立たせる拠り所を意味する。

ユダヤ格言に「人は意見(主張)で説得されるのではない。理由(論拠)によって説得される」というのがある。強く同意する。至近な話を持ち出すと、気が付いたら買おうと思っていたわけではないモノを買っていたというのは、「この商品はいいですよ」という言に動かされたのではなく、商品を買うべき理由に納得したからである。一般的には、「節度を守ろう!」というスローガンよりも、「放埓ほうらつ三昧は身を滅ぼすから」という論拠のほうがよく響くと言われる。大してすごいことを言っているわけでもないが、ここでは次のようなトポスが使われている。

Xの正反対のYの中に、Xが持っている性質“a”に相反する性質“b”が属していれば証明でき、属さなければその命題を反駁できる。

少々複雑だが、「放埓」の正反対の「節度」の中に、放埓の性質である「自己破壊」と相反する性質「自己形成」があれば、節度の優位性が証明できるということだ。これは「相反」というトポスだが、アリストテレスは説得推論のトポスを28パターン取り上げた。そのうち、相関関係、多少の比較、切り返しターンアラウンド、定義、分割、因果関係、前後関係などは現代議論法でも十分通用する。


トールミンモデル

1960年代、論理学者のトールミンは、〈証拠・確信度・主張・論拠・裏付け・保留〉という6つの要素から成る推論と証明のモデルを提唱した。これを簡略化したものが、〈主張・証拠・論拠〉を要素とした「トールミンの三角モデル」である。この三角形がトポスを強化する。主張だけでは論題は証明できない。また、証拠から推論はできるが、推論の妥当性までは説得できない。ここに「なぜ証拠から主張が導かれるか」という論拠を示すことによって、トポスがあぶり出され、論題が適切に推論され証明されることになる。

何かを主張したら、証拠と論拠について問われる。証拠は調べることができるだろう。しかし、論拠をどこからか探してくることはできない。論拠は捻り出すものである。ある論点でうまく論拠を示せたとしても、別の論点で妥当な論拠が立てられるとはかぎらない。苦し紛れにその場しのぎの説明をすれば、論点間の整合性が乱れる。繰り返すが、証拠から主張を導くだけでは不十分であって、必ず論拠を示さねばならないのである。

対話においては、「論拠探し」は「論拠崩し」と表裏一体となる。相手の論拠反駁を封じ込めることができれば、自分の論拠がすぐれているということになる。こと論拠に関しては、相手の不利は自分の不利、相手の有利は自分の有利でもある。そういう状況でしのぎを削るのがトポスによる説得である。

すべてのトポスがつねに有効なわけではない。対話に相手がいるかぎり、反駁されずに有効と見なされることもあれば、逆に反駁されて無効と見なされることもある。たとえば、「商品ABのいずれを取り扱うかを検討した結果、商品Aを販売することに決めて現在に至っているが、Bのほうがよく売れたのではないかと思う」と誰かが言った。これに対して次のようなトポスで反論可能だろう。

「あなたはBの商品の存在を知っていた。そして、それを選択できることも知っていた。何がしかの不安がある時、人はそれを選ばない。ゆえに、あなたがBではなくAを選んだのは必然で、今さらそんなことを言うべきではない」

一見妥当だが、このトポスには次の再反論が可能かもしれない。

「何が有効で何が優れているかは、実施してしばらくしてはっきりするもので、実施前にはわからない。しかも、ABかという二者択一であったから、同時に取り扱うことはできなかった」

もちろん、主張に決定的なトポスが出てくるまでは、さらなる検証が交わされ続けるだろう。それが議論というものである。

アリストテレスは28種類のトポスとは別の「有効な説得推論」を指摘している。「(説得推論においては)証明を目的とするよりも論駁を目的とするほうが人々の受けがいい」というのがそれ。証明は絶対評価の対象だが、論駁はすでに述べられた主張に相反した議論を併置させる。聴衆にとっては賛否両論を聞くほうがわかりやすく、なおかつ、後でおこなう議論のほうが巧みに聞こえることが多い。

先に言わせてから強く反論する、あるいは問わせてから切り返すように答える……古今東西、このような説得推論をおこなってきた政治家や論争家は数知れない。詭弁すらまっとうに聞こえてしまうから、劇場型論駁に惑わされぬよう聴衆自らもトポスを用意しておかねばならない。

言論について (7) 詭弁と虚偽への反論

「目には目を、歯には歯を」という有名な箴言。「やられたらやり返せ」と解釈されることが多いが、そういう意味ではない。これは元々、度を超したリベンジを戒めるもの。とは言え、この戒めを守ってもなお議論が泥仕合になるのは珍しくない。勝ち負けにこだわるあまり、ギリシアのソフィストたちは詭弁を多用するようになった。アリストテレスでさえ、「中傷してきた相手には中傷で返せ」と言っているが、短絡的に見習うのは賢明ではない。なぜなら、己に正当性があったとしても、悪口・中傷は人物の評判を落としかねないからである。

ソクラテス

毒矢への対処法に関しては、ソクラテスのほうを模範にすべきかもしれない。『ソクラテスの弁明』に見る冷静にして沈着、これ以外にはないというほどの連鎖的な問いと反論は相手と論点をよく踏まえている。ソクラテスは不幸な終末を迎えたが、正義と真理を背負った人間は強い。しかし、そのソクラテスでさえも強く検証反駁した背景には、自分の立場を有利にしようとする思いがあったことは否めない。

相手に反論をするということは自分の正当性を訴えることにほかならない。どんなに度量が大きい人物であっても、じっとして反論され放題のサンドバッグになってはいけないのである。明らかな誤謬なのに詭弁を弄するような相手には、黙殺という手段はもってのほかだ。

反論上手は敵の手のうちをよく読み、言論のセオリーや定跡をそのつどその場で微妙に変化させて応用することができる。極端な場合、その変化応用が180度転回しないともかぎらない。「相反する命題のどちらをも他人に説得することができなければならない」(アリストテレス)のである。この意味では、ソフィストも彼らを批判したソクラテスも例外ではない。〈XYである〉を主張するためには、相反する命題〈XYではない〉にも通じておかねばならない。コインのトスで肯定側になるか否定側になるかが決まるディベートは、この考え方を反映した典型的なゲームである。


自己批判を踏み台にする反論の方法もある。あるいは、ソクラテスのように「どうも鈍いせいか、あなたの仰ることがよく飲込めないのですよ。つまり、これこれの理解でいいのでしょうか?」という、自嘲気味にしてへりくだるような言い回しは、高圧的な論客が相手の場合に有効だ。要するに、反論の基本姿勢に「クールな頭」と「ホットな心」を据えておく。なお、「よし今度こそうまく反論するぞ」と意気込みながらも、気が動転して何も言えなくなる人がいるが、厳密に言うと、これは言論の問題ではなく、その人の共通感覚的な正義感の欠如によるところが大きい。相手が不正な議論をしたり詭弁を弄したりしているのに、遅疑逡巡するばかりで瞬発的な対応ができないのである。理不尽を前に黙してはいけない。

明らかに相手が間違っている。それにもかかわらず、「その理由をことばで説明できないのは、ほんとうはよく分かっていないからである」とソクラテスは戒める。たとえば、相手が「英雄は色を好む。私は色を好む。だから私は英雄なのだ」と言う。直観して不可解な論法である。最初の前提「英雄は色を好む」と二つ目の前提「私は色を好む」には、共通の表現「色を好む」が含まれている。このような、二つの前提をつなぐことばを〈媒概念〉と呼ぶが、色を好む者は英雄よりも私よりも大きな概念であるから、「すべて」とか「つねに」と言えるような周延はできていない。つまり、〈媒概念不周延の虚偽〉という推論になっている。「色を好むのは英雄だけにあらず」、また「あなたはつねに色を好むわけではない」と冷静に検証できなければ、虚偽の筋が通ってしまう。

これとは逆に、「私は弁護士である。私は男である。ゆえに弁護士は男である」というケースでは、一つ目の前提でも二つ目の前提でも「私」が媒概念になっている。私というのは弁護士や男よりも小さな概念であるにもかかわらず、結論部分で弁護士と男という大きな話に広げられている。これを〈小概念不当周延の虚偽〉という。

以上見たような虚偽やジレンマは言論につきものである。命題には主語と述語が含まれる。その主語と述語の集合概念の大小関係をきちんと捉えるのが論理の仕事。それを無意識に誤ったり、虚偽だと承知しながら故意にすり替える。書かれた文章なら誤謬に気づきやすいが、耳から入ってくる主張だとうっかり聞き損じてしまう。

全体について認められることはその一部についても認められ、全体について否認されることはその一部についても否認される。

これは〈全体と皆無の原理〉と呼ばれる。この原理を心得ておくだけで、ほとんどの集合概念上の虚偽を見破ることができる。揚げ足取りの話をしているのではない。論理の話である。論理が成り立つかどうかという視点で他者の意見を検証していれば、自分が論理を組み立てる時の誤謬にも気づくことができるのである。