却下する側、される側

仕事柄、企画書をしたためて企業に提案してきた。入札の場合、競合相手がある。競合に勝ち負けは必然。この30年、勝率は8割を超えているから上々の出来である。それでも2割は負けている。勝ち負けが逆になっていたら、たぶんこの仕事の今はなかった。

企画の規模にもよるが、短くても一週間、長ければ一ヵ月近く案を練って準備をする。不幸にして、却下の憂き目に遭うと心中は穏やかではない。しかも、ほとんどの場合、却下の理由は明かされず、またコンペを勝った競合相手の案の優れた点は知らされない。敗因分析しようにも、他の案がわからないので失望をなだめるすべはない。

昨年の今頃、コンペ参加の依頼があった。得意分野の研修テーマの実施計画だったので、余裕綽々、どんな相手でも勝てると踏んでいた。意に反して、結果は負け。研修会社経由の依頼だったので、プレゼンテーションはその会社がおこなった。案は良かったがプレゼンが下手だったと思うことにして、負けを引きずらないようにした。

入札する側を何度も経験し、また入札審査する側にも立つことも多い。審査し合否を決定する側のほうが気楽である。採用案に対しては評価点が最高点だったことを示し、その理由を型通りに告げればいい。しかし、却下された案にはほとんど却下の理由は示されない。数案のうち一案だけが選ばれるわけだから、却下された他の案には「ダメでした」という結果さえ伝えれば済む。


『まことに残念ですが……』という本がある。「不朽の名作への不採用通知160選」という副題が付いている。現在超名作とされている錚々たる小説が、書かれた当初は出版社に拒絶されていた。その不採用の旨を作家に送った手紙が収録された本だ。

「まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません。」

『大地』を書いたパール・バックはこのように告げられた。本のタイトルとなった、「まことに残念ですが……」とあるだけでもまだましなほうである。

アンネ・フランクの『アンネの日記』の場合はこうだ。

「この少女は、作品を単なる“好奇心”以上のレベルに高めるための、特別な観察力や感受性に欠けているように思われます。」

『タイム・マシン』でH.G.ウェルズは次のようにこき下ろされた。

「(……)たいして将来性のない、マイナーな作家だ。この作品は、一般読者には、おもしろくなく、科学的知識のある者にはもの足りない。」

却下する側の気楽さが窺え、却下された側のやるせない思いが伝わってくる。人が他人を評価するとはこういうことなのである。ある人間の評価と世間一般の評価が同じであるはずもない。諾否を決める評価者が人それぞれの基準を持っているのは当然のことである。

しかし、今から見れば理不尽かつ滑稽な断り状だとしても、これらの不採用通知には理由が書いてあった。理由があれば、それを読んで絶望すると同時に、立ち上がる勇気の種も手に入れることができるかもしれない。“No!”の言いっ放しで済ませている当世コンペ実施側の良識と応募者への敬意はどうなっているのか。切に問う次第である。

学学

読書の方法について、図書館の活用法について、あるいは文章の綴り方や推敲のやり方について、きちんと教わったり学んだりしたことがあるか? コミュニケーションすることについて――そのために必要な読み書きの技能について――国語の授業はいったいどれほど有効なヒントを与えてくれたのか? 

しかも、こうしたリテラシー一般に関して、誰かが教えてくれないのなら、自分で試行錯誤して技能を身につけようと一念発起した人がどれほどいるだろうか? ほとんど誰もがそれぞれの生きている「ことばの環境」の中で成り行きのやり方で、さほど工夫もせずにやりくりしてきたにすぎないと思われる。「学ぶことについての学び」と真剣に向き合ったことなどまずないのである。

学び方の学びのことを、ぼくは〈学学まなびがく〉と命名して、社会人に遅まきながらも実践するように推奨してきた。本ブログでも『学び学でリテラシーアップ』と題して書いたこともある。リテラシーとはおおむね「読み書きの技能」である。しかし、読み書きの技能は読み書きだけを目的としない。言語を高度に運用するために、ひいては思考力を高めるために、読み書きの効用を再考すべきだと思う。


何事であれ、最も成果を生みやすい習慣ほど地味である。但し、並大抵ではない継続と集中を要する。自分の仕事でそれが想像しにくければ、好きなスポーツの一流選手の練習ぶりを見ればわかりやすい。ありていに言えば「コツコツとハードワークをこなしている」。自分の仕事がそれを必要としないのなら、程度はたかが知れている。もっともリテラシーのことなど放っておくという生き方の選択肢はあるかもしれない。

しかし、リテラシーを放置していては言語生活は豊かにならない。たいていの大人はことばを第二の天性として鍛錬することに怠慢になっている。実は、ぼくたちが抱える諸問題の大半はリテラシーの強化によって解決することができるのだ。仕事上の業務や課題はある意味で言語的なのである。うまくいかない理由のほとんどがリテラシーの機能不全に関わっている。

自然流ではいかんともしがたいのである。本を読みながら、ノートを書きながら考えるという習慣を意識的に続けないかぎりリテラシーは高度にならないし、それどころか、加齢によって劣化するばかり。どうすれば上手に学べるかという方法を教わるか、もし教われそうにないのなら自ら編み出さねばならない。

日々揮発していきそうな諸々をノートに綴ってみる。本に書いてあることを覚えようなどとせずに、何度も読んで自分の知識や経験と刷り合わせる。気に入った文章を音読しながら意味や主題を考える。こういう習慣の繰り返しによって、語感が鋭敏になり構文が作れるようになり、やがて思いとことばがつながってくる。リテラシーの強化は練習に比例する。驚くようなノウハウの練習ではない。一日三度の食事のように、普通の行いを集中して継続するだけである。

青インクの魅惑

筆記具は眠っている欲望を刺激する。ただ見るだけで、新たに手に入れたくなる。使うのか持つだけなのかはその際どうでもよく、少し贅沢かもしれない筆記具に手を伸ばしてしまう。

何十本もの万年筆やボールペンを買い込んでおきながら、ろくに出番も与えないで目新しいペン類に目を向ける。これはもう病気である。誰もが一度は患い、生涯にわたって治癒しづらい病である。

文具店やデパートの筆記具売場に足を向けないのが唯一の対処法だが、その意識と反比例するように無意識のうちに売場に近づいていく。


万年筆を使い始めた十代、まずまず使っていた二十代は黒インクだった。有名作家の青インクで書かれた原稿用紙を見てから、シェーファーに青を充填した。そこから青インクに憑りつかれてしまった。万年筆の数が増えると、青インクの種類が増える。困ったことに青だけでも、肉眼では違いが判別できないほどの多種のインクが売られている。

紙によって滲みや発色が異なって見える。デジタルで再生しても、同じ名称のインクの色が変わる。青びいきとしては、紙を変えペンを変えて色味を試してみたくなる衝動に駆られる。そして、性懲りもなく、よく似た色のボトルを買ってしまうのだ。

文字ではなく、ベタッと塗れば違いはわかる。写真の左上はプルシアンブルー。右上がフロリダブルー。左下はコバルトブルー。そして、最もよく愛用しているのが右下のロイヤルブルー。これ以外にもやや緑がかったブルーもいくつか引き出しに入っている。いやはや、青インクは魅惑的で罪な存在である。

雨の日の手紙

雨の日に手紙を書かないほうがいい?
いや、そんなことはない。
晴耕雨読があるのだから、晴耕雨書があってもいいはず。
そう考えて、雨の日の昨日、手紙を書いた。

雨の日に万年筆で手紙の宛名を書かないほうがいい?
いや、そんなことはない。
手紙も宛名も同じ万年筆でいいはず。
傘を差して、雨粒が封筒に落ちないように注意して投函すればインクは滲まない。

雨の日に万年筆で宛名を書くのはいいとして、手紙を投函するのはなるべく雨が上がってからのほうがいい?
いや、郵便ポストの投函口が濡れていたら、ハンカチで水滴をぬぐい、狙いすましたように差し出せば心配はない。

雨の日に、青いインクの万年筆で手紙を書き、ついでに宛名も同じ万年筆で書き、雨の降る中、ポストまで歩いて投函してもいいのだ。
そこに問題はない。
ただ、雨の日に手紙を水溜りに落としてはいけない。

逆説の眩しい光

1975年、新潮社が読者向けに録音テープを流すサービスを始めた。読者が電話をかけると、作家の肉声による作品紹介が聞けるという仕組みである。その後30年間続いたらしい。残っているテープのうち星新一の肉声が何年か前にテレビで紹介された。「アポロ以来、宇宙がしらけてしまって書きにくくなった。これからは日常の異常に……云々」と言って、当時の新作『たくさんのタブー』の案内が流れた。

アポロが月面着陸したのが1969年。この頃を境に、知らなくてもいいこと、知らないほうがいいことまでもが広く伝達されるようになったような気がする。それでも、現在の情報過剰に比べればまだまだ大したことはなかった。当時、何かを知ろうとして調べものをするにはかなりの覚悟が必要だった。欲しい情報が見つかる保障がまったくなかったからである。

宇宙もそうだが、未来や過去の魅力と不思議に触れるのは愉快である。想像の限りを尽くしてもなかなか見えない。しかし、もし何もかもがはっきりと見えたりわかったりすると、おそらく想像力は出番を失い、ロマンティシズムの芽も摘まれるだろう。リアリズムだけの世界は殺風景である。


日常の種々雑多な現象や動向に目を向けると、「何かが違う、何かが変」という感覚に陥ることがある。そう感じるのは、自分のありようが常態で当たり前だと信じているからだ。現象や動向を不可思議だ不条理だと感じる時、実は、こちらの見方がまともだという前提に立っている。「?」を投げ掛ける側もまた、投げ掛けた相手からすれば「?」の付く存在であり、異様な発想をしているように映る。しかし、逆説を唱える側は逆説がタブーなどとは考えていない。

日常の異常にケチをつける。異常をもたらしている張本人は異常と思っているはずがない。そういう連中が多数派を占めると、ケチをつける少数派が異常だと見なされるが、何が正常で何が異常かはそもそも多数決で決まる話でもなければ、判断基準があるわけでもない。だから、「そうじゃないだろう」と逆説を示そうと意地を張る。

一見真理に反しているようであるが、真理の一面を表わすのが逆説。しかし、あくまでも説であるから、反真理的考え方や言い回しの真理性については決着を見ないし、仮に証明できたとしても、真理の一面などはいくらでもあるから、別の逆説を提起されることになる。であるなら、逆説に意義などないのではないか。いや、そうではない。逆説は眩しい光を放つ。結果としての正邪は別にして、日常の価値観をご破算にして見つめ直す機会を授けてくれる。だから、そう簡単に逆説癖を改めるわけにはいかないのである。

窓と窓的なもの

ある日のオフィス。窓を拭く清掃人と目が合った。ガラスを隔てて寒い側に清掃人がいて、こちらが暖房が入った部屋の中にいるという構図。ぼくは目くばせもせず、声も掛けず、相手から目をそらした。視線を清掃人の作業する手元へ移し、机の方へ向き直った。

翌日、大通りで信号待ちしていた。所在なさそうに正面のビルの高層階に目を向けると、壁にへばりつくようにして清掃人が窓を拭いていた。命の安全を保障するロープが風で揺れているような気がした。信号が変わって道路を渡る。ビルの真下を歩きながら、ロープが切れる光景が浮かんだ。清掃人は窓枠にしがみつき命拾いした。想像の世界だったが息詰まりそうな時間だった。


窓は、開けて採光したり風を入れたりする以外にも役割を担う。十年以上前のこと。場所はフィレンツェのジョットの鐘楼。ガラスのない明かり窓が塔の階段の踊り場にあり、街並みを枠の面積の内に切り取っていた。とても鮮やかな仕掛けだった。ここから中世の面影を覗き見よ、と窓が命じた。

窓はどこかに通じる起点になる。開けたり閉めたりできるが、開閉の権利は建物内に帰属する。どこかに通じる窓の外に出た瞬間、その権利を放棄することになるが、建物から解放されれば、どこかには行けそうな期待が生まれる。窓は内と外の世界を分け隔てながら、しかし二つの世界を繋いでいる。

窓は光の比喩だ。雪が光を反射すれば「窓の雪」になる。窓の雪は勉学を暗示させる。ある朝カーテンを開けて窓が目になっていたら驚くが、確かに窓は目に似ている。

「入口の左右の壁には、煤竹を二本横に渡した楕円形の小窓が開けられていたが、その窓はあたかもこの家のふたつの眼のように見えた」
(加能作次郎『世の中へ』)

窓は開閉の比喩でもある。社会の窓と言えば、ズボンの前のファスナーのことだ。布で隔てたすぐそこが社会であり、しかも一日に何度か社会に開かれる……もっと責任と緊張感を自覚せねばならない。

Katsushi Okano
Something like a window
2018

Pastel

日にちのこと

「日にち」はある意味で冗長な用語だ。「日」と書けば済むのだが、それだと頼りなく感じるのだろうか、敢えて「ひにち」と言う。漢字で書くと「日日」。これは見た目が感心しない。しかも「ひび」や「にちにち」と読まれてしまう。ゆえに「日にち」に落ち着く。

「年末年始は1230日(土)から14日(水)まで休みます」。店側の休業日程を知らされてもあまり役に立たない。結局、忘年会や新年会の日にちを決める時には、いつまでやっているのか、いつから始まるのかに置き換えることになる。それなら、「年内の営業は1229日(金)まで。新年は15日(金)から営業します」と書くほうがいい。

特定の日取りや日付は、その一日だけわかればいいから明快である。しかし、日にちと日にちをまたぐと飲み込みに少々時間がかかる。「○日ぶり」や「○年ぶり」の解釈が人によって異なることがよくある。たとえば、元日に会って7日に再会したら「6日ぶり」と言うのだが、いちいち頭でそんな計算をせずに、適当に一週間ぶりと言ったりする。


サッカーの試合が土曜日にあり、次の試合が水曜日だとする。何日ぶりと言うか。中3日なので「3日ぶり」と言う人がいる。また、土、日、月、火、水と5日にまたがっているので「5日ぶり」と言う人も稀にいる。正しくは「4日ぶり」だ。XデーからYデーまでの経過を「~ぶり」で表現する時は「(Y-X)ぶり」と言うのである。X15日(土)でY19日(水)なら、「19-15」で4日ぶりになる。

2001年に同窓会があり、ずっと顔を見せなかったクラスメートが久しぶりに2017年の同窓会に出席したら、「2017-2001」で16年ぶり。毎年出席していた会合に昨年欠席して今年出席したら、2年ぶり。抜けたのは一年だけだが、2年ぶりと言うのである。

「やあ、ごぶさたしています。かれこれ4年ぶりですね。」と言われて、4年会っていないと早とちりしてはいけない。Xデーの元日に会ってYデーの大晦日に再会したのなら、ほぼ5年経っている。Xデーの大晦日に会ってYデーの元日に再会すれば3年である。実質会っていない日数は4年ぶりと言うだけではわからない。確かなことは、会わなかった年が3年あったということだけである。

都会から「まち」へ

(……………………)

都会の断片のほとんどが意味を失ってしまったかのようだ。
都会は意味を示さないまま生き長らえていくつもりのようだ。

断片を必死に繋いでも全貌を現わす気配はない。ぼくは苛立つ。
苛立ちに呼応して、都会も焦燥感を募らせながら鈍い輝きを放つ。

今住むこの都会とどのように折り合えばいいのか、ずっと考えてきた。
折り合えばその正体がうまく暴けるのだろうか、ずっと自問してきた。

いったいどうすれば都会を知ることができるのか。
アスファルトを引き剥がせばその姿は見えるのか。

人工的な覆いの下に眠る土はもはやかつての土ではない。
空気に触れても土が懐かしい匂いを放つことは決してない。

ブラタモリのように地形を現場で検証しながら歩いてみるべきか。
ピースを組み合わせたら都会のジグゾーバズルは完成するのか。

歩くだけならいつも数千歩や一万歩は歩いている。
そぞろ歩きしながら見えざるものを見ようとしている。

(……………………)

ある日、雑居地帯のように扱ってきた都会を「まち」と呼び変えることにした。
その日から、都会は手招きするように親しげな表情を浮かべるようになった。

テーマのコラージュ

絵が描かれた板に願い事を書くのが「絵馬」。首尾よく願いが叶ったら感謝の気持ちを込めて再び絵馬を奉納する。願いとはある種のテーマ。いくつかの主題をラベルに書いてみた。

大それた決意表明ではない。紋章的な標語であり、欲張りな関心の方向性を示しているにすぎない。アンテナを立てておけば、テーマについてあれこれと思いが巡ってくれ、それが刺激になって雑文の一つも書くようになり、誰かをつかまえて語ってみたくなる。


【考える】 物事を知るだけでは役に立たない。誰もがクイズ大会に出場するわけではないのだから。知識を身につけてわかることと考えてわかることの間には埋めようのない隔たりがある。

【観察】 観察イコール客観的? いや、偏見のない観察などありえない。観察は観察者の主観でまみれている。固有の体験だからである。それで何か困ることが起こるわけではない。

【風景】 目の前に広がる光景や景色は、しばらく眺めているうちに風景と化す。風景は人間の想像の産物だ。自然は人の存在と無関係に存在するが、風景は人の認識によってはじめて姿を現す。

【にっぽん】 日本史なら「にほん」。日本郵便は「にっぽん」であり、切手には“NIPPON”と印刷されている。「頑張れ、にほん!」では頼りない。元気を出すには「にっぽん」でなければならない。

【都市】 都市は現実であり幻想である。人は都市に生きながら、都市が内包する幻想に振り回される。万華鏡のように都市をくるくる回せば形が変わる。構築とカオス、希望と絶望、活気と倦怠……。

【物語】 人の生き方、諸々の事柄を語ることによって様々な物語が生まれた。虚構も脚色もいらない。ただ人について、人を取り巻くものについて、手を加えずに語るだけで物語になる。

【食卓】 食卓はもはやテーブルを意味しない。テーブルならテーブルと言えば済む。食卓は食事や食文化のことである。食卓を囲むとは一緒に食べること。ただテーブルに就くだけではない。

【本棚】 読んだ本を並べても、読まない本を蔵書として保管しても、本棚は本棚。一列一段でも五列五段でも本棚は本棚。背表紙をこちらに向けて本棚に並べたくなる本がある。

【生きる】 どこまで行っても生きるとは現実である。この現実に直面するかぎり、他のテーマが――仮にどうでもよさそうに見えるものでも――意味を持ち始めるのだろう。

【珈琲】 自分の生活シーンから消えてしまうことを想像できないものがある。たとえば珈琲がそれだ。これがなくなると、生き方や考え方をかなり大幅に変えなければならなくなる。

【仕事】 公的な仕事などと言うが、結局のところ仕事は「私事」である。仕事というものは、欲しい時には出てこず、もう十分と思う時に入ってくる。だから欲しいなどと願わないのがいい。

【世界】 部屋に閉じこもっても、外国を旅しても、書物で知識を得ても、世界は見えそうで見えず、ありそうでなさそうな、きわめて個人的な都合が切り取る概念である。

【知性】 知性的であろうとなかろうと、人間の差はさほど大きくないと思われる。知性は目立たないのだ。しかし、「反知性」という流れに向き合う時、知性の差がはっきりと現れてくる。

【遊び】 人類は慰みの遊び、戯れの遊びを十分にやり尽くしてきた。しかし、生き方をスムーズかつ緩やかにする余裕としての遊びの境地に到る人は少ない。機械にはそれができている。

【響き】 「打てば響く」という反応的行動は欠くべからざるコモンセンスである。響かないのは、責任を――とりわけコミュニケーション上の責任を――果たしていないということになる。

【言語】 人間のみが唯一言語的な動物である。言語を通さずには何も認識できない。だから、それを捨てて悟るのか、言語的に生きるのかをはっきりと決めるべきなのだ。

【暮らし】 どんなにだらだらと日々を送っても、どんなに生き生きと毎日を楽しんでも、暮らしから逃れることはできない。仕事に飽きても暮らしに飽きることはできない。暮らしは陳腐化しない。

【笑い】 元気になる、励まされるという理由で無理に笑うことはない。笑いのハードルは泣きのハードルよりも高いのだ。ここぞと言う時の笑いのために、常日頃大声で高笑いするのは控えるべきだろう。

「ふわっ」

昨日からいろいろ考えていたが、初硯はつすずりにこれという漢字が見つからなかった。朝から奈良に出掛けて、興福寺、春日大社、東大寺を廻ってきたので何かありそうなものだが、まったく思い浮かばない。小学生のように「春日大社」と書き初めする手もあるが、大社に筆をふるうほどの思い入れがない。今日もあまりの人の多さに途中で引き返したほどだから。

書き初めに代えて彫り初めすることにした。消しゴムに「ふわっ」を彫った。「ふわっと」ではなく「ふわっ」。「ふわっと」だと「何が?」と問われそう。いったい何が浮かんだのだ、何がやわらかく膨らんできたのだと聞かれても困る。具体的な何かをイメージしたのではなく、ただ「ふわっ」。何となくの「ふわっ」なのである。

しかし、そんな「ふわっ」がありえるのか? たぶんありえない。敢えて言えば、気分や場面や人の性格のことになるのだろうか。なごませるような雰囲気、気持のよさ、温かいさま。それなら「ほんわか」でもよさそうだ。いや、辞書に載っていない「ふわっ」のほうが面白味がある、と判断した次第。

「ふわっ」が苦手な性分である。意識すると、力が入って「ふわっ!!」になる。無理している感が漂う。「ふわっ」な感じの生き方をしている人が羨ましい。いい感じに生きているなあと思う。「ふう」と息を吐いて、少しでも「ふわっ」に近づけるようになりたいものだ。