手っ取り早く役に立つハウツーばかりに目を向けずに教養を身につけよ。いや、社会に出れば教養なんぞよりも実践的ハウツーだ。このテーマは議論伯仲すること間違いない。しかし、生意気なようだが、ちょっと一段高いところから見れば、どっちも正しいのだ。
精読か速読かという本の読み方にしても、いずれかが他方よりすぐれているわけではない。どちらにもそれなりの意義がある。読書という一種の学習行動は、青二才的に言うと、自己を高めるためである。精読だけが自己鍛錬の手段ではなく、即席ハウツーをスピーディに読みこなしていっても何がしかは身につくものだ。
良し悪しは別にして、ぼくは独学主義者である。ここで言う独学とは、本や人から学ばないということではない。本や人から初歩的な手ほどきを学んだら、あとは自力で学ぶという意味である。独学の必要性は英語学習を通じて身に染みた。高度なレベルに達するには、早晩鍛錬の方法を自己流にシフトしなければならない。それならば、初心者の頃からその志で進めるほうがいい、と考えたのだ。
先日このブログで紹介した拙著『英語は独習』もそんな動機から書き綴った。英語は独習できる、いや独習しかないという信念は今も健在である。強気なようだが、たいていのテーマは独習できると断言してもいい。
拙著の出版当時、友人の一人に献本した。「なかなか読み応えがあるし、勉強になったよ」とうれしいコメントをしてくれたが、続けて「でもなあ、独習と言いながら、独習の方法を教えているのは矛盾じゃないか」と批評された。う~ん、これは微妙な感想なのだが、決して矛盾ではない。学び方を知らない人に学び方を手ほどきしたとしても決して独習論とは対立しない。独学のスタートを切るには、動機づけと初動のための方法が欠かせない。
ここ数年、ぼくは「学び学」というテーマを強く意識している(ほんとうは「学学」と表したいのだが、「ガクガク」と読まれては困る)。これは「手ほどき学」でもある。根底にある考え方はリテラシー。しかも、どちらかと言えば、言語能力と活用スキルを重視する、読み書き算盤的な「古典的リテラシー」だ。大仰なものではない。ちょっとした一工夫でその後の学びの成果が天と地ほど違ってくる。成果が天の方向になるように、学びの出発点で背中を押して初動エネルギーを集中させてあげるのだ。昔の人たちは、これを「指南」と呼んでいた。あくまでも手ほどきであり、一生面倒を見てあげるというものではない。
どんな仕事をするにしてもリテラシー能力が問われる。そして、人間というのは頼もしいことに、リテラシーを高めようとする本能を備えている。知への好奇心、これをぼくは「知究心」と呼ぶ。一から十までそっくり誰かから学んでどうなるものか。最初の一つだけ学び方の手ほどきを受けたら、知究心を逞しくしてさっさと二からは独学に励む。機を見て、リテラシーアップにつながるヒントを本ブログで紹介していこうと思う。