勘違いしてはいけない。不可能が可能になるのではない。もともと可能的なものが現実に可能になるのである。
〈不可能〉に挑戦すると言えば、聞こえはいい。しかし、いきなり〈不可能〉に? 性懲りもなく〈不可能〉に? そんな時間があるのなら、今はできていないが、何となくできそうな予感が湧くことから始めるのが筋ではないか。
不可能だと思っていたことが可能にならないわけではない。先入観で勝手に不可能のラベルを貼っていたことが、何かのきっかけでラベルが剥がれる。あるいは、実際に何度かチャレンジしてできなかったが、その後技能が向上してある日できるようになることもある。
しかし、再びよく考えてみよう。できないことにはいろいろなレベルがある。不可能としか思えないこともあれば、不可能と断定できないこともある。他にいろいろやらねばならないことを抱えている時に敢えて前者に挑む理由はなく、可能的なことにひとまず着手してみるのが妥当だろう。
どちらの食材も食したことはないが、食べられないと思うものと、食べられるかもしれないものを比較して、ぼくたちは食べられそうなものから口に入れる。食べ物は目に見えたり触れたりできる現実だからわかりやすい。しかし、不可能や可能というラベルで現れてくるのは「もの」ではなく「こと」。見えづらく摑みづらい。よくわからない。そして、よくわからないことに対して、人は何となく不可能なほうを選んでしまうものだ。
もし類まれな眼力が授けられるなら、不可能なことと可能的なこと――できそうもないこととできそうに思えること――を見分けることに役立てたいと思う。「人生は短い」とセネカは言った。これまでの経験と持ち合わせている才能をよく見極めて、可能的なこと――何の根拠もないが、不可能よりもよほどましだと予感すること――に力を注ぎたい。