〈読み〉について

「読む」という、何の変哲もない、何度も使ってきた用語の意味をはたして読めて・・・いるだろうか。〈読み〉とは何と関わろうとする行為なのか? わかったようでよくわからない。一度たりともじっくり考えたことはない。

推測したことが的中することを「読みが当たる」と言い、的中しないと「読みが外れる」と言う。読みは「当たったり外れたりする」。

ある局面で見通しが楽観的に過ぎる時を「読みが甘い」と言い、見通しがよくて変化を感知できれば「読みが深い」と言う。読みは「甘くなったり深くなったりする」。

一直線で探ろうとすると「読みを誤り」かねない。だから、いろんな岐路でいろんな方向から「読みを重ねる」。読みは「誤る、誤らないためには重ねる」。

人は読みを当て、読みを外す。甘い読みに後悔し、深い読みに満足する。読みを慎重に重ねる一方で、単純に読みを誤ってしまう。本、空気、風、他人、場、状況、将来、心、思惑、作戦、手の内、時流、展開、関係、行間、意図、雲行き……すべてにおいて読みの精度を高めようとし、その難しさに苦渋しては読めない自分を嘆く。


「いったい何を読もうとしているのか?」

ひとまず当面の対象を読もうとする。しかし、その先まで読んでいるのか。仮に読んでいるとしても、読んでどこに到ろうとしているのか。たとえば、程度はさておき、本は読める。しかし、本を読む行き先はどこなのか。あるいは、手の内を読んでどうしようというのか。その手の内は相手の手の内であって、自分の手の内ではない。相手の手の内への読みがなければ、自分の手の内の読みようがない。

「なぜ読もうとしているのか?」

対象を乗り越えるためではないか。乗り越え、克服し、対象が帰属している環境に適応しようとして読むのではないか。読むという、一見受動的な行為は、他の生物と同じように、人間にとっても環境適応のための積極的な生き様なのに違いない。

イタリア現代陶芸の巨匠、ニーノ・カルーソの造形展を鑑賞した。一切の予備知識を持たず、作品の解説もろくに読まずに作品だけを眺めた。途中から、これは「神話世界の再生ではないか」と感じ、そこに読みを入れてみたら、展覧会のテーマ〈記憶と空間の造形〉とつながった。しかし、まったく釈然としない。まだまだ環境適応を意識した読みになっていないのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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