ことばを知れば視界良好

ぼくたちは知らないことを「ことば」や「体験」によって知る。体験できなければ、とりあえずことばで説明を受けて知ることになる。絶対とは言わないけれど、ことばの数と知識の量はおおむね比例する。意味のない多弁やおびただしい空言は批判されるべきだが、ことばが少なければ小さな世界観しか持てないだろう。

ある人が「たこ焼き」の話をしたら外国人に「それは何だ? 」と聞かれた。聞かれて、次のような内容を英語で説明しようと試みた。

水と出汁で溶かした小麦粉を鉄板の丸い凹の部分に流し込み、そこに小指の第一関節くらいの大きさに切った茹でた蛸、ネギ、揚げ玉、紅しょうがなどを入れてよく熱し、機を見計らってアイスピックみたいな道具でくるりとひっくり返し、球のごとく仕上げる。それにソースか醤油を刷毛で塗って青のりと鰹ぶしを振りかけて、やけどしないように食べる。

説明しようとすることばの中に、スライスした蛸、揚げ玉、紅しょうが、ネギ、青のり、鰹ぶしなどのわが国固有の名詞がふんだんに含まれ、英語で表現するにはいかんともしがたく、にっちもさっちもいかなくなってしまった。

ことばでは説明しきれない概念がある。たこ焼きは説明するものではなく、体験してもらうものである。好き嫌いはさておき、試食したうえで、それが「たこ焼き」であることを覚える。次回から誰かと会話するとき、わざわざ「水と出汁で溶かした……」と延々と語らなくても、「たこ焼き」という四字で済ますことができる。


話し手は極力わかりやすいことばを使うべし――これに異論はない。なるべく相手の辞書機能に合わせた説明をするべきだと思う。しかし、相手が知らないという理由でことばをどんどん因数分解していっても限度があるし、わかりやすくなるという保障もない。

あまり聞き手市場になってしまうと、話し手の持ち味が損なわれてしまう。テーマから話が逸脱して、ことばの定義ばかりしてしまうことになるのだ。たとえば、ぼくの私塾で「質と量」の話をするとき、ぼくはそれ以上は説明しない。質と量の概念をわかっているという前提で話をする。たこ焼きとお好み焼きの違いも取り上げない。そういう聞き手のボキャブラリー・レベルを想定して話をする(この”ボキャブラリー・レベル”ということばも微妙だ。かと言って、「語彙水準」と言い直しても、よけい分からなくなる人がいるだろう)。

わからないという理由だけで、初耳のことばを拒絶しないことだ。概念が不明であっても、とりあえずなじんでみる。子どもたちは意味がわかってからことばを覚えるのではなく、訳がわからないまま語感やリズムでまずことばを覚え、それから徐々に意味の輪郭をはっきりさせていく。大人も例外ではない。

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proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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