今から35年か40年程前に、通勤せずに自宅で仕事をするという発想が生まれた。コンパクトなパーソナルコンピュータが普及し始めた時期と重なった。わが国で現在「テレワーク(teleworking)」と呼ぶ仕事形態のコンセプトはアメリカで最初に生まれたが、当時は「テレコミュート(telecommuting)」と呼ばれることが多かったように記憶している。
テレワークでは「仕事」に焦点を当てられ、テレコミュートでは「通勤」を重視する。つまり、会社から離れた場所で仕事をするのが前者、通勤しないで自宅で仕事をするのが後者である。「(tele)」には「離れた」とか「遠くの」という意味があり、テレビもテレフォンもそういう機能を持つ。「リモート」も同じような意味だ。
当時のテレコミュートはほぼ在宅での仕事を指していたが、昨今のテレワークの場所は必ずしも自宅とは限らない。出張先のホテルの部屋で仕事をすれば、それもテレワーク。家の近所のカフェで仕事をしてもテレワーク。どこにいても仕事ができる人、わざわざ出社しなくてもいい人がおこなうのがテレワーク。
さて、テレワークはいいのか、テレワークがいいのか、テレワークもいいのか、テレワークでいいのか……。人それぞれの思いがあるはず。
長い歴史の中で、人は孤立しては何事もできず、人と人は共に働き生活し、直接出合っていろんなことをこなしてきた。このことを持ち出してテレワークに異議を唱えると、速攻で「感覚が古い」と言い放たれる。しかし、テレワークだけで仕事の任務をすべてこなせるのは、10人に一人もいないというデータがある。テレワークではいかんともしがたい仕事・職種が世の中の大半を動かしているのだ。
都会はコロナで危険だ、ローカルのプチ別荘でリモートすればいい……トレンドに敏感な連中はこのように考える。考えるだけでなく、すぐに行動する。少なからぬ人たちがそうしようとするから、地方の空き家や古い別荘が値上がりし始めたらしい。慌て者が束の間のバブリーな流れを作ってしまう。
緊急に対応すべきはリスクであって、ライフスタイルやワークスタイルではない。歴史上に生活や仕事の大転換期は何度もあったが、変革は可逆的であり、反省や改良を通じてある程度元に戻る。二、三カ月自宅で仕事をした人も、やがては会社に呼び出されて以前と同じワークスタイルを再開する。
テレワークに期待しない立場は保守的かもしれない。しかし、ファックスやメールが普及しても顧客先への訪問機会は減らなかった。メールで送ればいい文章なのに、打ち合わせをしたいと呼ばれてスタッフは先月上京した。会うことには儀式性があり信頼と安心がある。どんな仕事であれ、人と人はある程度会わねばならないのだ。人と人が居合わせてわざわざ執り行う仕事を――その機微やニュアンスまで――ITが感じ取って画面とメールでこなしてくれるなら、もちろん、それはそれで歓迎しないわけではない。