松屋町筋から谷町筋の夕陽丘方面へ、口縄坂を上り切った所に文学碑がある。織田作之助の短編小説、『木の都』の一節が刻まれている。
口縄坂は寒々と木が枯れて、白い風が走っていた。
私は石段を降りて行きながら、もうこの坂を登り降りすることも当分あるまいと思った。青春の回想の甘さは終り、新しい現実が私に向き直って来たように思われた。
風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。
一節と書いたが、物語の最終段落である。〈私〉――おそらく織田作之助――はいくつもの思い出とよみがえる記憶に懐かしさと穏やかならぬ感情を併せ持ちながら、風の強い寒い日に坂を下った。ぼくはと言えば、一昨日の日曜日、何一つ難しいことを考えずに、陽射しの強い朝、いくつもある坂の一つを上ることにした。上り切った時は額に薄っすらと汗をかいていた。それが久しぶりの口縄坂だった。
小説の題名になっている「木の都」については、冒頭のつかみで出てくるだけだ。大阪が樹々溢れる緑豊かな都などと言うと小馬鹿にされるかもしれないが、口縄坂のあるこのエリアは上町台地の西端であり、寺内町でもあることから古木も多く植わっている。写真を撮って後で見てみると、緑を背景にした木が主役の構図になっていることに気づく。
多分にノンフィクション的な私小説だとするなら、この坂を上り切った「ガタロ横丁」のあたりに「名曲堂」というレコード店があった。〈私〉は時に足しげく通ったと思えば、しばらくごぶさたするという具合だったが、主人とは親しくなり、常連的存在になった。
人恋しくなった年の暮れ、〈私〉は懐かしさを覚え、風邪気味だったにもかかわらず、口縄坂を上って行く。そして名曲堂の前へ。表戸が閉まっており、そこに紙が貼ってある。「時局に鑑み廃業仕候」と書いてあった。戸をたたいたが返事はない。そして、おそらく後ろ髪を引かれるような心模様で坂を下った。
これ以上書くとネタバレになるからやめるが、坂ゆえのノスタルジー、情趣、上った手前下り、下った手前上るという構造が、ただ歩くだけの行動に意味を与えてくれる。平坦な通りを歩いているうちに、高台の緑が広がり始め、路地よりもやや幅が広めの坂が次から次へと現れる。坂が街のアート性に気づかせてくれる。くねくねする坂を蛇坂と言わずに、婉曲的に口縄坂と呼んだのは文化の遊びである。
昭和19年の作品。織田作之助はその3年後に没した。享年33歳。