どんな意見に対しても、社会にはイエスがありノーがありうる。また、ある意見に対して一個の人間の内でも「そうだ」と「必ずしもそうではない」が拮抗し、イエスともノーとも結論できないことがある。「そうである」と「必ずしもそうではない」を往ったり来たりしているあいだは、たぶん少しは考えているのだろう。
「(……)人がその偉大さを示すのは、一つの極端にいることによってではなく、両極端に同時に届き、その中間を満たすことによってである」(パスカル『パンセ』三五三)
「考えろ、考えろ、たとえ一秒の何分の一ぐらいの時間しか残されていないとしても。考えることだけが唯一の希望だ」(ジョージ・オーウェル『1984』)
外食に出掛けたら、何を食べるかよく考えた時ほどおいしくいただける。食べることは人生の重要案件であるから、よく考えるにこしたことはない。しかし、何も考えずに行き当たりばったりでもうまいものに出合えることがある。食に関しては考えることだけが唯一の希望ではなさそうだ。考えに考えて絶望することだってあるのだから。
「上手に勝ち、上手に負ける。上手に勝つとは、相手を傷つけず相手に恨みを持たせず、相手が潔く負けを受容して納得すること。上手に負けるとは、わざと負けたり早々に投げたり諦めたりするのではなく、精一杯戦って負けることである」(拙文、2011年1月)
十年前に書いた文章だが、今も勝ち負けに下手であったり下品であったりしてはいけないと思う。とは言うものの、「精一杯戦って負ける」ことを上手と呼んでいいものか。だいいち、「精一杯」かどうかを判断するのは自分を除いて他にない。「精一杯戦って負けたのだから仕方がない」は自己正当化のための言い訳になる。
「(本を選ぶにあたって)自分の身に付いた関心から選ぶのがいい(……)自分の内側からの欲求=好みを強烈にもつことがどうしても必要であり、そうすることなくしては、現在のこの書物の洪水、情報の氾濫から身をまもること、いやそれに積極的に立ち向かうことは難しい」(中村雄二郎『読書のドラマトゥルギー』)
読みたい本も読まざるをえない本も含めていろんな本を読んできた。ぼくのような歳になったら読まねばならない本や無理に読まされる本などはもうほとんどない。好奇心の赴くまま、書店や古書店で縁を感じて手に入れて読むばかりである。しかし、好みや欲求に応じて限られたジャンルの本ばかり読んでいると飽きがくる。時々、まったく知識のない本に立ち向かっておかないと知がなまぬるくなる。
「頑張ってください」
他人が使っているとほとんど何も意図せずに抜け抜けと言うものだと思うが、他に何も言うことがない時、「頑張ってください」はとても便利である。使わないように気をつけているが、つい使っている自分がいる。しかし、励ましのつもりが、残酷でひどいことばと化すことがある。そして、ぼくの経験上、「頑張ってください」と伝えた相手が頑張ったためしはほとんどないのだ。