〈そば切り 文目〉がかなりいいそばを打つらしいと聞いていた。近くに行く用事があれば寄ってみようと思っていた。ようやく機会に恵まれた。
オフィス街の外れだが、住宅地の町内で時々見かける質素な店構えだ。気根が丈夫そうな鉢植えのガジュマルが置いてある。背広姿が二人出てきた。入れ替わりに暖簾をくぐる。
そば屋は主人も店員も、たいてい藍、白、抹茶、茶、黒のいずれかの作務衣を着る。迎えてくれた初老の男は白だった。店主だと直感した。厨房は息子に任せて客応対に専念していると推理した。
「は~い、いらっしゃいまし~。奥の方へどうぞ、奥の方へどうぞ」
口調も空気も今は亡き桂枝雀に似ている。茶が出た。一口啜る。そば茶だった。客に「そばアレルギーはございませんか」などと野暮は聞かない。そばアレルギーが来ることはない。だから黙ってそば茶を出す。
「今日は何を召し上がりますか? 何がよろしいですか?」
一見のそば屋でメニューは見ない。行きつけの店に行ってもたいてい注文は決まっている。冷ならざる、温なら天婦羅そばだ。
「ざるそばをください。後で替えそばを」
ちなみに、ざるそば730円。替えそば400円。
ほどなく二八のざるが運ばれてきた。ゆるいところがまったくない麺。嚙み心地ものど越しも申し分ない。麺に合った汁にワサビ。一枚終わってしばらくして替えそばがきた。そば徳利の汁を器に足して薬味も加える。あっという間に平らげた。
「こちらそば湯です」
絶妙のタイミングだった。使い込んだ朱塗りの湯桶が置かれる。
「だいぶ膨らんだので、すみません、今日はパスで」
腹あたりをさすりながら、そう言った。
その時である。離れたテーブルに座っていた常連風の初老の男性が突然喋り出した。
「ビタミンB1、B2、葉酸、タンパク質……亜鉛、カリウム、食物繊維……ロイシン、イソロイシン、リシン、バリン、メチオニン、フェニルアラニン、スレオニン、トリプトファン、ヒスチジン等々のアミノ酸……便秘解消、食欲増進、高血圧と脚気に効能発揮……熱々の白濁そば湯、当店自慢はとろみの強いこってり系。さあ、汁に注いで召し上がれ」
調子のよい口上に、目を丸くしてたぶんポカンと口も開いただろう。お見事だった。店主を見れば、何もかも承知した上で笑いをこらえている。そば湯をすすらない客へのいつもの啓発か。
あっさりと促されてそば湯を飲み干す。そば湯をパスしかけた自分を恥じはしなかったが、そば湯目当てに足繫くそば屋に通った頃を懐かしく思い出す。そうだ、そば湯をそばの「ついで」にしてはいけない。
「ありがとうございました。またのお越しを、またのお越しを」
次の日も、一週間後も暖簾をくぐった。