『言語は(…以下略…)』というタイトルの本が書棚にある。興味深いテーマを拾っていることはわかる。翻訳の苦労もわかる。にもかかわらず、目次と第一章しか読んでいない。ひどい日本語に耐えられないのである。
英語には少し知識があるので、話を英語と日本語に限定する。動詞を動詞に、名詞を名詞に、形容詞を形容詞にと一対一で翻訳すると、ぎこちなくなってしまう。原文の文章構造に支配されてしまうため、英語のような日本語が出来上がる。スケルトンな構造物の中に部品が露骨に埋め込まれている異物に見えてくる。意味どころではなくなる。それが冒頭の翻訳書の問題であった。
たとえば英語の“have”を「持つ」と訳すと、たいてい日本語がしっくり行かなくなる。ぼくたちはさほど「持つ」と言わないのだ。“Before you can have a share of market, you must have a share of mind.”という文がある。最初の“have”は訳さない。二つ目の“have”を訳すが「持つ」と表現しない。すると、「マーケットシェアの前に、顧客の心を摑まないといけない」となる。「マーケットシェアを持ちうる前に、マインドシェアを持たなければならない」という日本文は英文構造の生き写しにほかならない。
外国語の読み解きとは別に、日本語をこなすという作業がいるのである。語彙力と文章構造のバリエーションもさることながら、言い換えるための類語の知識に精通しなければならない。ぼくの場合、国語の類語辞典をよく使った。そして、それ以上に類語の英英辞典も手垢にまみれページがはがれるほど活用したものである。
もう一点、典型的な悪文翻訳は、“of ~”を「~の」や「~という」へとワンパターンに置き換える時に起こる。「現代ビジネスのいくつかの要素のもっとも重要な一つは……」などの文章を読むと、原文の“of”に縛られている様子がうかがえる。「現代ビジネスでもっとも重要とされる要素は……」でいいはずである。『言語は……』という冒頭の本の翻訳者も型通りに訳した日本文を、読者視点で読み直し、こなれた文章に推敲すればよかった。
外国語を翻訳するという作業は意味の解釈であり、それを被翻訳語でふつうに書かれるように表現することである。文章構造や個々の単語にがんじがらめになる必要などないのだ。自分ならどう言いどう書くかという母語の感覚にもっと重きを置いてよい。“You’re asking the impossible.”という英文。「あなたは不可能をお願いしている」などと日本語で言うのだろうか。言わない。ぼくなら「きみ、ないものねだりだよ」と言う。当然、他にもいろいろな言い方がある。