落葉と孤独

「落ちる」ということばを聞いて歓喜して小躍りしたくなるか。決してならない。「恋に落ちる」を唯一の例外として、落ちたいなどと思う人はいない。同音の「堕ちる」も「墜ちる」も字姿が危なっかしい。葉は芽吹いて青くなり、季節が巡ってやがて紅葉し、枯れて落ちる。せつない。落ちるよりはでるほうがいい。墜ちるよりは翔ぶほうがいい。

落葉はやるせなさを募らせるし、別に悲しくもなんともないのに、まばらに路肩に撒かれたような落葉を見ると感傷的になってしまう。それらの落葉は公園通りで掻き集められ、大量に袋に詰め込まれて清掃車を待つ。このように扱われると、せつなさもやるせなさも漂ってこない。もはやただのゴミである。

パリの落葉 2011年もの

子どもたちが落葉を拾っている。黄色、赤色、褐色の葉を集めてはしゃいでいる。その嬉々とした姿を見ていると、落葉の光景から哀愁が消える。3年前の今頃、ぼくも子ども心に戻って十数枚の落葉を拾っていた。場所はロダン美術館のある庭園。その時の落葉は、今では水分をすっかり失って枯れ切ってしまい、おそらく乱暴に扱うとパリっと割れるか粉々になるだろう。


ロダン公園

ロダン美術館はロダンの邸宅だった。1917年に没するまでロダンは10年間ここで過ごした。美術館には多数の作品が展示されているらしい。「らしい」というのは、足を運んだのに美術館に入館していないからだ。ぼくはまず庭園を歩いた。広大な庭園内を歩きながら、青空を眺め、深呼吸し、落葉を拾い集めた。その合間に屋外に置かれている『考える人』や『地獄の門』を鑑賞した。美術館に戻ってきた時、もう十分に芸術とパリの秋に堪能していたのである。

パリから持ち帰った落葉を見るたびに、半月ほどの滞在の日々をかなり濃密に回想することになる。この時期に振り返る街角、広場、舗道、カフェなどのシーンには物悲しいシャンソンがお似合いだ。孤独に陥る寸前の自分に別の自分が視線を投げて少々陶酔している図も見えてくる。

ロダンは名声を得る前、孤独だった。だが、やがておとずれた名声は彼をおそらくいっそう孤独にした。名声とは結局、一つの新しい名の回りに集まるすべての誤解の相対にすぎないのだから。
(リルケ『ロダン』)

孤独とは厄介な心理である。無名であろうと有名であろうと人は孤独に苛まれる。孤独から逃げ出すために群衆に溶け込もうとしたものの、意に反して強度な孤独に襲われて眩暈に苦しむ。一、二枚の落葉も孤独の誘因になりうるが、大きな孤独を招かないためのワクチンだと考えればよいのである。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です