眺める

観測データは観測のための光や観測者の存在によって変化を被る。

元々は誰かが言ったことばなのだろうが、あいにく覚えていない。〈観察者効果〉と呼ばれる現象のことである。真っ暗だと何も見えない。何かを見るためには光が必要である。その光を照射した瞬間、観測対象は変化する。同様に、観察しようとしてぼくがそこにいることによって対象はすでに変化を受けている。つまり、観測環境がつねに一定することなどありえない。

野生動物の生態を調査するという目的で、小屋を作って人が入りずっとカメラを回し続ける。そこに棲息する野生動物が小屋の存在に気づかぬはずはない。小屋ができた時点から彼らの生態は変化を被る。自然な生態というものは、観測装置や観測者不在のもとでしか存在しえないのである。


湯治村3

風景を眺める。繊細な色合いで落ち着き払っている。青系統の色が連続的な変化を織り成し重なり合う。ぼくの好む青系統の風景であってみれば、惚れ惚れと見入ってしまう。その風景にはすでにぼくの感覚的な観察視点が入り込み、他者の眺めとは違う印象と効果が生まれている。

一朝一夕にしてしつらえられた風景ではない。この眺望の一瞬のために、長い年月にわたって風土的条件が用意されてきた。そして、そこに今という時の気象条件やぼくの眺めの諸条件が加わっている。しかし、観察者としての自分がその風景の見方を「歪めている」などとは誰も思わない。お膳立てされた風景をただ堪能するだけである。対象内に人や人工的な介在物がない時、ぼくたちは一切の過去への推察から解き放たれている。理性的に理解しようなどという動機は芽生えず、ただ無意味にそこに佇んで忘我の境地で眺めるのである。

シネリーブルから地上

街中にあって窓外を眺める。先日こんな光景を目にした。自然がお膳立てしたような風景はそこにない。コンクリート空間の中に造形されたモノがあり、複数の人々がいて独特のシーンを描き出している。人々は目的があってそこに居合わせたり行動したりしている。

詮索することなしにこの光景には向き合えない。この都会的な構図における「点景」は状況理解を迫ってくる。観察時間を増やして点景を線として手繰ってみれば、意味を探れるかもしれない。しかし、この観察は疲れる。風景を眺めるのとは違って、街、人、造形物を眺める時、無意味だと片付けて知らん顔できないのである。都会に生きる者はそういう宿命を背負って生きる。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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