未完の書

「はじめに」の一文の後に19943月とある。そこにはこんな文章が書かれている。

本書『成功への触媒』は、混迷を極める市場環境、ひいては企業活動、組織、人材を、ぼくたちのささやかな仕事のフィロソフィを光に変えて精一杯照らし出そうと試みたものです。
その光――きわめて日常的視点からの光――が、既成の事実や価値観に新しい意味を与え、「触媒」として機能し、成功を生み出す小さな発想やきっかけになればと願っています。
「成功」ということばには数限りない定義と意味が与えられてきました。その中からベン・スイートランドのことばを借りることにします。
“Success is a journey, not a destination.”(成功は旅である。目的地ではない。)
『成功への触媒』はさしずめ「旅のお供」というところでしょうか。邪魔にならないお供にになれば幸いです。

成功への触媒

全原稿の7割ほどをぼくが書き、スタッフ78名が残りの原稿をそれぞれの視点で書いた。百数十ページの小さな本が出来上がるはずであったが、いくつかの理由があってそのまま放置された。もはや日の目を見ることはないだろう。「はじめに」で書いているように、時代性を反映するタイミングが肝心であったから、今となってはほとんどの原稿が色褪せてしまったはずである。

実際に色褪せた紙の束を手に取って懐かしく読み返してみた。ぼくの思いとは裏腹に、今でも発想の触媒になりそうな普遍的な気づきが忍んでいることに気づいた。出版しておけばよかったと、ほんの少し自責の念にかられる。未練はさておき、今もしっかりと記憶に刻まれている一つのエピソードを紹介する。


水漏れしない蛇口

 ずいぶん前にリンカーン・ステファンというアメリカ人が書いた『未完の仕事』と題するエッセイを読んだ。冒頭はこう始まる。

「水道の蛇口から水が漏れている。きつく締められない。よろしい。七歳の息子に人生のレッスンとしてやらせてみよう。息子は蛇口をつかみ、必死にねじる。無理! 息子は嘆く。『どうした、ピート』と私。息子は笑みを浮かべながら言う、『パパ、これは大人の仕事でしょ』」

 著者は続ける。
 「大人はちゃんとした蛇口さえ作れないのだ。息子のほうが水漏れしない蛇口を作れる可能性を持っている。どんな仕事においても、可能性の大きさは次の世代のほうが上回っている。何事も究極的に最善におこなわれたことはない。何事も明晰に完璧に突き止められたことはない。」
 ステファンによれば、われわれの世代が作った鉄道、学校、新聞、銀行、劇場、工場には完璧なものはない。さらには、理想的な事業を築き経営している企業も存在しない。われわれは未知なるものの1パーセントすらも発見していない。
もちろん極論であり、1パーセントという根拠もない。しかし、共感せずに通り過ぎることはできない。
 スペースシャトルが宇宙へ旅立ち、バイオが遺伝子を操作し始め、超LSIがものの見事に情報をつかさどる。ステファンの主張に反して、ぼくたちの社会の進歩は道の壁をどんどん崩していくように見える。
 しかし、ぼくたちの住まいでは、寝静まった夜に締まりの悪い水道の蛇口からは相も変わらず水が一滴ずつしたたり落ち睡眠を妨げる。大雨の日に背中や足元を濡れぬように雨をしのいでくれる傘は未だに発明されていない。車は依然として通行人にやさしくはなく、歯磨きは歯周病を完璧に防いでくれない。
 ひと頃、ハイテク型のニッチビジネスがもてはやされ、異業種交流会花盛りの趣があった。ほとんどの試みは大した成果もなく霧散した。足元のローテクに改善の余地があるのに、遠くのハイテクが優先される。緻密をモットーとし予算もリスクも大きいハイテクに比べ、ローテクは人間的で泥臭い。心意気と一工夫で見違えるような改善も可能なのだ。水道の蛇口のようなモノはもちろん、日常のサービスも、ほんの少しのテコ入れを待っているのである。


リンカーン・ステファンのように、水道の蛇口一つで息子や娘に教育できるような父親になりたいものである。ぼくたちときたら、子どもがわざわざ「なぜタイ米がダメなの?」と経済社会的問題に関心を抱いて質問してきても、めったなことではまともに受け答えしてやらない。「タイ米はまずいから」などといい加減だ。すると、子どもに「なぜまずいの?」と聞かれ、苦しまぎれに「パサパサだから」と言うと、「なぜパサパサだったらまずいの?」と追い打ちを食らう。こうなると困るので、たいていの父親は最初の質問時点で「大人になったらわかるさ」と逃げの一手で対応する。これは無責任である。大人になってもわかるようにならないのは、自分自身が証明しているではないか。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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