「百聞は一見にしかず」なのか?

「百聞は一見にしかず」。聞き上手が褒められるわが国でこの諺は生まれにくかったに違いない。同じことを百回も聞く人は聞き上手に決まっている。この諺は和製ではなく、戦地に赴くことを宣帝に願い出た趙充国将軍の言に由来する(『漢書』)。何度も人から聞くよりも、自分の目で実際に見るほうが確実であるという意味で今も使われる。ここで確実と言うのは「確実に知る」ということ。何かを理解し分かるためには、聴覚よりも視覚のほうがすぐれている、見るは確実に知ることにつながる、と言う教えである。

百聞は一見にしかずか?

英語では“Seeing is believing.”がこれに相当することになっている。「なっている」というのも変だが、そう書かなかったら英語のテストで誤答とされたから、しっくりいかないけれども、そう答えるしかなかった。しかし、どう考えても、「百聞は一見にしかず」と同じではない。英文は聞くことについては言及しておらず、「見ることは信じること」と言っているだけであり、見ることの確かさについても保障してなどいない。「見たら信じられるか?」と聞かれて、ぼくは即答できない。幻覚には見落とし、見損じがあるからだ。

見ること――この目ではっきりと見ること――は、はたして物事が確かに分かることなのか。しかも、「一度見る」だけで十分なのか。自分自身のこと、周囲にいる知り合いのことを思い浮かべてみればいい。一度見ることが百回聞くよりも優るのは常ではない。人次第、正確に言えば、理解力次第である。ある人が一度だけ聞いて分かるのに、別の誰かは百回聞いても、そして百回見てもさっぱり理解しないことなどはよくある。ぼく自身、一度聞いて分かることもあるし、何度聞いても分からないことがある。ならば、聞くのをやめて、見たら分かるか。いやいや、一回見て分かることもあれば何度見ても分からないことは、聞くのと同じ程度に起こる。


この諺に異議を唱える諺がある。「心ここにらざれば、視れども見えず」がそれだ。心ここに在るとは集中力だ。集中力を欠いてぼんやりと見ているだけでは何も見えてこないだろう。ロダンの、「私は毎日この空を見ていると思っていた。だが、ある日、はじめてそれを見たのだった」という述懐には、ある時、突然集中のギアが入った印象がうかがえる。

「我々の感覚は見ていても、見えていないのである。ノートル・ダム正面玄関のロザース〔薔薇窓〕辺の石の壁面の美しさは、見ていても多くの場合、我々には見えていないのである。窓の間の壁面の美しさを何十何百とある建物の中に気がつくようになって、或る日ふとノートル・ダムを眺める時、今まで見えていなかったものが、突然見えるようになって来るのである」
(森有正 『遠ざかるノートル・ダム』)

あるものが見えるためには場数が必要である。同時に見る対象の付帯状況に身を置き、対象と一つにならねばならない。野次馬のように、対象と自分を切り離されたものとして凝視しても易々とは見えてこない。なぜなら、ものは外からのみ見るのではなく、そのものの内面からも見えるからである。内面から見えるとは、感覚を研ぎ澄まして想像力を働かせるということだ。それなら、見ることに限った話ではない。聞くことには、音によって視覚を補おうとする想像が蠢く可能性がある。

見るにせよ聞くにせよ、対象が鮮明に確実に分かるためにはある程度の時間をかける必要がある。一度や二度で分かろうなどとは調子が良すぎるのだ。ロダンにしても森有正にしても、何回も何日も熟知に至る時間を費やした。もちろん、何事かを即座に直観的に分かることもある。しかし、百聞して分からぬことはおそらく一見しても容易ではない。視覚の聴覚に対する優位性をかたくなに信じる向きもあるが、ぼくはエッシャーのだまし絵を鑑賞して以来視覚を過信しなくなったし、身近では、毎日の散歩道で日々新しい視覚的体験に驚いている。人は、聞いているようで聞いていないし、見ているようで見ていないのである。だからこそ、全身を耳にしてことばを傾聴し、全身を目にして対象を注視しなければならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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