「その他ファイル」の功罪

PC上ではファイルという概念をうまく利用しているつもりである。しかし、実際のペーパーをファイリングすることはめったにない。実際、いろんなファイルを買って工夫してやってみたこともあるが、しばらくすると元の木阿弥。すべて無分類状態に戻ってしまう。周囲には資料をきちんとファイルに分けている人がいる。几帳面さに敬意を表するものの、そんなことをしていったいどうなるものかと思ったりもする。

結論から言うと、ぼくは「なまくらファイリング」が一番いいと考えるようになった。至近な活用目的のためには暫定的なファイリングが便利であり、長い目で知を創造的に生かそうとするならばファイリングなど四角四面にすべきではない――これが「なまくらファイリング」。説明をしてみると何ということはない。いずれにしても、整理するだけで二度とお目にかからない資料ならファイリングは不要である。ファイリングをするのは、将来使うことを前提にしているからだ。その使うときのために検索しやすくするのがファイルの目的だろう。

一冊の本を例にとればよくわかる。五年ほど前に読んだ本だが、再読しようと思ってすぐそばの本棚に置いてある。『「心」はあるのか』という書名だ。この書名を「ファイル名」としよう。このファイルには「サブファイル」がある。目次だ。大きく三つあり、人は「心」をどう論じてきたか、「心」を解く鍵、「心」の問題を解き明かす――これらがサブファイル名になっている。

ところが、これらのサブファイルの中を渉猟すると、書名からは見当もつかない「ドキュメント」が出てくるのである。たとえば、言葉はなぜ通じるのか、言語ゲームとは何か、愛と性を考える、言葉と論理、美の感動と言葉……。これは、再読しようとした本だから、ある程度中身がわかっている。しかし、通常、ファイルには大きな概念のタイトルがついている。そのファイル名の下にどんなサブファイルを置きどんなドキュメントを含めるかは大変な作業だ。つまり、検索するのも大変なのである。


ファイルがある。きちんとカテゴリーの名称がついている。その名称に近いか、その名称に関連する属性になりそうな情報を振り分ける。どのファイルにも属さない情報をどうしているか。その情報に見合った新しいファイルを作ることもあるだろう。一つのファイルに一つの情報という状態もありうる。これがムダなのは自明なので、とりあえず「その他ボックス」に放り込むことが多くなる。住所不定の情報や、気にはなるが持て余し気味の情報はすべて、この無分類を特徴とする「その他」に入る。

時折り「その他ボックス」を開けてみると、これらの情報が、つかみどころがないものの、おもしろいエピソードとして力を貸してくれることがある。無分別、未加工、無所属、雑多と呼ばれる「その他」に身を潜めた情報、恐るべしである。ところが、「その他」をこんなふうに上手に使いこなしている人にはめったに出会わない。相当な怠け者でも情報に関しては分別心が働くようなのだ。

情報の数だけファイルを作ったら情報を分けた意味がない。だからファイルの数は必ず情報の数よりも少ない。少ないというどころか、何十何百という情報が一ファイルの傘下に分類される。しかし、「その他」を有効に活用しようとすれば、いつも頭の中に情報のディレクトリーマップを広げておかねばならないのだ。そう、見た目に無分類で「その他」扱いされている情報群をよりどりみどりで活用するには、情報のありかを記憶しておく必要がある。

情報なんか忘れろ、頭を使えという説が有力すぎて困るのだが、PCであれ図書であれ自前のファイルであれ、見覚えのある情報をもう一度探し出すにはとてつもないエネルギーを要する。どうでもいい情報はすぐに探せるのだが、真に求める情報ほど見つかりにくい。ファイリングに長所と短所があるように、ファイリングしない「その他」にも長短がある。ボーダーレス情報を使いこなすには、それらの戸籍を頭で覚えておかねばならないのだである。

投稿者:

アバター画像

proconcept

岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です