ネット時代のレファレンス感覚

喉元過ぎれば熱さを忘れる。喉元を過ぎるのは苦しみだけではない。歓び、感謝、恩義も過ぎていく。喉元とは体験のその瞬間の比喩である。熱さとはその瞬間の印象であり感覚である。喉元通過中は熱さをしっかりと感じるが、時間が経つと生々しい体験は思い出と化し、時には風化してしまう。それでも、自らの生に強く刻印されるような体験なら、思い出の中でも臨場感を伴ってよみがえる。つまり、時間の遠近を超越して言及できたり想起できたりする。体内時計に倣って、これを人それぞれの〈脳内レファレンス感覚〉と名付けたい。レファレンスとはものを考える際に知識を参照・照合することである。

関係のネットワーク

体内のレファレンス感覚がぶれなければ、ぼくたちは個性的な知のネットワークを構成できる。はるか昔に喉元を過ぎた情報であっても余熱を感知できる。その一方で、喉元通過中で世間が熱い熱いと叫んでいても、まったく自分にとってホットでない情報なら捨ててしまえばよい。プロタゴラスは「人間は万物の尺度である」と言った。ここで言う人間は人間一般ではなく、個人である。ある事件が、他人の尺度ではもはや冷めてしまっていても、自分の尺度では熱い状態のままであっても何ら不思議ではない。

他人が人間ならまだいい。しかし、現在では他人の役割をネットが担い、あたかも社会の標準尺度のように威張り顔をする。ネット上で日々発信される膨大な情報は、古きを捨てて新しきを拾うというスピーディーな更新が特徴だ。当然ながら、早々に水に流してはならないものが流される。蔵入りさせてはならないものが開かずの記憶庫に格納される。レファレンス感覚がネットに支配されてしまったらどうなるか。外界からの新陳代謝激しい情報に晒され続けて、知のネットワークの基本構成が揺らいでしまうのである。


ネットを情報源の中心に据えてしまうと、次から次へと押し寄せてくる目先の情報に軸足が移ってしまう。目先の情報には、本来公共社会的に共有する意味もさほどなく、また長きにわたって考察するに値しない「揮発性の情報」が多く含まれる。否応なしに衝動受信してしまうゴシップや事件の大半は、冷静に考えれば、取るに足らないものばかりだ。こういう類いの話題が高頻度レファレンスの中心になりかねない。重要だが遠い過去の出来事は薄くなり、記憶から消えていく。時間系列に忠実なネットに誘導されるレファレンス感覚は、お仕着せの関心事にしか興味を示さない思考パターンを招く。

直近情報ばかりが優先される借り物のデータベースとの付き合いをほどほどにして、自らの脳内に体験的な知のネットワークを築かねばならない。時間の遠近ではなく、記憶の濃淡をつけて重要な出来事をいつでも想起できるように配置しておくのである。あたかも昨日起こったかのように、いや、今もなお進行しているかのように、優先順位をつけるべき事象があるのだ。オウム事件、同時多発テロ、二度の大震災、数々の偽装事件……。今年1月のシャルド・エブリ襲撃テロ事件などは喉元過ぎれば熱さ忘れるの典型になっている。あの事件の生々しさは、当事者以外のどれほどの人の記憶に残っているのか。

急上昇ニュースばかり追いかけてはいけないのだろう。時事について数行で片付けるツイッターだけではいけないのだろう。将来展望もない今だけのコメントをシェアして左から右へ流すだけではいけないのだろう。誰もが同じレファレンス感覚に染まるのはおぞましい現象である。第一、十人一色ではつまらないではないか。シンクロしなければならない情報とそうでない情報を自分の尺度で精査したい。そして、「現在」のみならず、「現代」の生き証人として体験的に温故知新を心掛けるべきだろう。それが情報化社会に生きる一つのコモンセンスにほかならない。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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