考えること、問い答えること

大阪での私塾第5講で「構想」をじっくり6時間。うち半時間弱の演習を4題。企画や構想についてのここ数年間の考えのうち、ぼくがある程度確信を抱きつつある内容を「一番搾り」感覚で語った。構想する主体としての覚醒体験がうまくできただろうか。

メディアが進化し多様化した。ここ30年の加速ぶりには驚愕する。情報インフラも激変した。ぼくたちのITがらみの情報リテラシーも大いにスキルアップした。たしかに原稿のマス目を埋めるよりも、今こうしてキーボードを叩いて文章を作成するほうがうんと楽な気はする。だが、そのことを認めたうえで、楽だとか効率がいいなどとは別次元のところにある「手の抜けない能力」はどうなのか。「生身の人間」としてのリテラシー能力のことなのだが、むしろ著しくひ弱になったのではないか。

何が便利に簡単になろうと、考えること、ことばを使うこと、他者と関わることをITで代用はできない。とりわけ「考えること」の手抜きはありえないし、あってはならない。最近こんな危機感がつのってきている。生き急ぐという表現にならえば、「考え急ぎ」している。答を出すこと見つけることに手間暇をかけず、慌てているように見えてしかたがない。


自分で考えた結果、辿り着いたアイデアや結論がすでに誰かが導き出している可能性はきわめて大きい。ぼくたち個人の人生に比べれば歴史はうんと長いのだから、誰ともかぶらないオリジナリティを容易に生み出せるはずもない。いや、それで何がまずいのか。自分は人マネをせずに自分で考えたという自負を持てばいいのではないか。調べたり誰かに教わったりする前に考える――これを〈構想主体〉とぼくは呼ぶ。

今日の講座では、話を複雑にしないために構想だけに絞り、「問うこと」までは欲張らなかった。実は、あるテーマを構想するとき、ぼくたちは経験や知識と脳内対話をするのだが、その対話には「問い」が含まれるのである。問いが「答え」を導く。答えと言っても、正解や不正解で評価されるものではない。志向する方向のような意味合いである。禅に「答えと問いは一体である。答えは問うところにある」という示唆がある。問わなければ何も見えてこない、とぼくは解釈している。

そう言えば、ヴィトゲンシュタインにも禅語録の一節のようなことばがあった。

言い表わすことのできない答えには問いを言い表わすこともできない。謎は存在しない。およそ問いが立てられるのであれば、この問いには答えることができる。

「答えることができる」ということを正答であると短絡的に考えてはいけない。妥当とか有効だとか、その答えが何かを解決できることでもない。「問いが見つかれば答えられる」ということだ。当たり前のようにさらりと言ってのけているが、すごい着眼だ。

考えること、そして問い、その問いに答えること。誰でもできそうだけれど、自分にしかできないこと。自分の経験と知識の中から見つけ出そうと努めること。これは尊いことだし、何よりも愉快だし幸福感に浸れる時間なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

「考えること、問い答えること」への3件のフィードバック

  1.  毎年,「日本語教育能力献呈試験」の対策講座の初日に受講生の皆さんに提案しています。「一緒に勉強する仲間を作り」,その仲間と「問題を出し合うこと」をした方々は全員合格しています,と。
     試験問題を作る側に回ると(そこまでできれば),どんな試験でも合格します。そのように考えています。
     松下幸之助の「あんさんに解決のできない問題なんか,目の前には来まへんわ。」という木野先生(この3年,セミナーを受け続けていますので「先生」という呼称です)の話に通ずるところがあります。というより,問題意識のないところに「問い」がないので,解決意識も生まれず,「答え」がないように思います。
     詰まるところ「答え」がないのは,その「答え」に至る「問題意識」がない,ということから出発すべきではないかと思料します。

  2. おっしゃる通りです。どんな難問であっても自ら投げ掛け出題できるならば、答えはすでに存在しているでしょうね。受験のように出題される場合は、その答えが正答または誤答と判断されます。でも、ぼくの出題する問題には正答という概念がないものが多く、また、ぼく自身は問えるけれども、数ある答えの選択肢の一つにしかすぎないという認識をしています。昨日の私塾の一番最後の問いは、「(将来を見据えた)私と社会との関わり」。みんな無事に答えてくれました。ぼく自身も答えを示しました。自分が答えを導いた事実と、他者がその答えに感心したか首を傾げたかという事実は、同じ次元でとらえることはできないと思います。自分で答えを出そうとしなくなった時代、答えを出そうとすることを評価することが第一義でしょう。

  3.  「正答」も「妥当」もないというのはいいですねぇ。
     試験ネタをもう一つ。「検定試験対策グループ」の問いかけ合いを聞いている(といっても通りすがりにですが)と,外国人の名前などで音の転倒を起こしていることがあります。「ガッテーニョ」が「ガッテニョー」になったりしているわけです。そこで,相手方に指摘され,双方大笑いになり,その結果「正しく」覚えるということが度々見かけられます。問いかけ合っている時点では,「正答」でも「妥当」でもない「適当」なのですが,たぶん選択式の問題には「適当」ぐらいでいいのかな,とも思います。

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