じっとして動かない立体物の形状をじっと見る。たとえば彫刻やオブジェ。たいていの形状には直線と曲線の両方が備わっている。部分部分でそれぞれの線が機能的な役割を果たしていると、ものは魅力的に見える。直線と曲線、どっちが優れているかなどという問いは成り立たない。
平面上で直線と曲線を対比させてみる。直線はわかりやすい。定規があれば、かなりの精度で直線が引ける。曲線は少々御しがたく、フリーハンドでは望み通りの軌跡を描けない。曲線が引けるテンプレート定規もあるが、型に嵌まった線では面白味に欠ける。
しかし、それはそれ。平面上に引かれた線は、直線であれ曲線であれ、立体物に感じた時と同じように、それぞれが機能していれば美しく思える。直線だけで構成された硬派なコンポジションもいいし、曲線ばかりの柔らかなパターンもいい。
直線と曲線を動的に眺めてみる。ある物体が高速で直線的に動く様子に心が動く。ところが、直角の動きをさせてみると、いきなりぎこちなくなる。それに比べれば、直角にアールをつけて動く曲線はスムーズで優雅だ。曲線には直線にない、「遊び、溜め、包み」がある。
直線的に動くものは実直かもしれないが、軽はずみで粗削りな一面もある。いま、ぼくは人のことを語ろうとしている。真夏の出張帰りのある日、新幹線の窓際に座り、新大阪まで隣りの席が空いていてくれと願っていた。願いは次の停車駅で取り下げられた。小柄な中年男が隣りに座った。衝撃を吸収せずにドスーンと座り、座席前のテーブルをいきなりバターンと手前に倒し、バッグからビールとつまみをガバッと取り出し、テーブルの上にバシャッと叩きつけんばかりの勢いで置いた。
男の直線的な動作を描いていると擬態語が足りなくなった。リクライニングシートはガガーンと倒れ、腰を浮かせて座り直せばゴンゴンと振動が伝わってきたし、雑誌はカクカクとした軌跡でテーブルの上にバサッ。関節の造りが不出来なあやつり人形のようだった。直線的な動きとはこれほどまでに不器用で粗忽なのか……と呆れ果てたのである。
間を遊び、間を溜め、間を包むように、つまり、曲線的に動作するように心掛けているつもりだが、傍目にもそう映っているという自信はない。自分の粗忽で不器用な動きにはなかなか気づきにくい。なぜ気づかないかと言えば、心の機微のほうが先に雑になっているからだ。直線人間の数が曲線人間を大きく上回っているのが、当世の人口動態的特徴である。