観察とトリミング

しばし立ち止まって物事に目を凝らすこと、街角に目を向けること、人や車の動きに注視すること。考えることに先立つのが観察である。観察して初めて着眼点が見つかり、そして考えるようになる。よく観察しなければ考えることは浅く狭い。

目の前の「現実」を認識する。どこを切り取って現実と呼ぶのかは人それぞれである。現実を観察すると言うものの、あるがままの現実と観察による表象との間には誤差があり、自分と他人との表象にも相違がある。観察は客観性と結び付くように思われがちだが、実はそうではない。観察の時点ですでに主観や個性が観察対象に介入している。観察して何かを観測したとしよう。そこで得られるデータはすでに観測者の存在によって一定ではなくなっている。十人の観測者は十色の見方をする。

写真画面の一部を省いて構図を整えることや縁取りすることをトリミングという。トリミングにかくあらねばならないというルールも法則もないから、主観が反映される。同時に、観察がアレンジされることになる。写真のトリミングという行為は切り取りによってある対象を拾っているが、他方、切り取った以外の背景の図を捨てている。あるものを拾って別のものを捨てるという点で、対象に対して主観的な抽象と捨象がおこなわれているのである。


パリのオペラ座の衣装展示室から窓外をじっと眺めたことがある。窓枠に填め込まれたような光景を雑念もなく虚心坦懐に眺めたつもりだが、この時すでに現前しているオペラ座前の通りと建物の構図は、別の窓から覗くのとは異なっている。「オペラ座前の通り」と呼べば、それはぼくの見える主観的な光景にほかならない。

次いで、ポケットからデジタルカメラを取り出して撮影する。この時点で撮影者であるぼくは「ある全体」からお気に入りの対象を切り取っている。カメラによる撮影は観察である。そして、観察自体がトリミングという行為になっている。

撮影した写真をさらにトリミングする。実際は縦に長い構図であったが、下段に写り込んでいる、ぼくにとって余分な対象を捨てた。撮影前に窓を選び、撮影後に切り取った。つまり、二度トリミングしたのである。いや、もっと言えば、別の建物から眺めて「オペラ座前の通り」と呼ぶ選択肢もあった。そう、オペラ座に入館したことがすでにトリミングだった。さらに遡れば、パリへの旅を決めて別の街への旅を諦めたこともトリミングではなかったか。

きれいな花の写真がある。現実はそのすぐそばにゴミ箱があったかもしれない。何かが拾われ何かが捨てられる。トリミングは写真撮影の専売特許ではない。今こうして文章を書く作業もトリミングの連続である。「書きたいことのすべて」があるとして、全体のうち限られた表現によって限られた一部を綴り、一部の文章を編集する。ぼくの思いを「現実」だとすれば、ここに並ぶ文章群は「現実を変形させた観察結果」と言うほかない。観察には個人的な事情が含まれる。それは抽象と捨象がせめぎ合うトリミング行為なのである。

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岡野勝志(おかのかつし) 企画の総合シンクタンク「株式会社プロコンセプト研究所」所長 企画アイディエーター/岡野塾主宰 ヒューマンスキルとコミュニケーションをテーマにしたオリジナルの新講座を開発し、私塾・セミナー・ワークショップ・研修のレクチャラーをつとめる。

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