十代から日本文学と世界文学を問わず実によく小説を読んだ。三十代半ばでばったり小説を読むのをやめて、数ページで話が完結する雑文を読むようになった。たとえば浅田次郎の小説はほとんど読まないが、エッセイ集はよく読んだ。
若い頃、小説を読みながら、文体や文章術にも興味を覚えた。名立たる小説家が『文章読本』を書いている。谷崎潤一郎、三島由紀夫、中村真一郎、丸谷才一、井上ひさしの読本には目を通した。文章読本と言うと、文章の読み方の技術のように思われがちだが、それだけではない。むしろ、文章の書き方のための読本という色合いが強い。
料理について、おいしい、安全な、清潔な、健康によい、盛り付けがきれいなどの形容ができるように、文章についても様々な評がありうる。上手な、わかりやすい、表現豊かな、正確な、などである。これらは書かれた文章に対して読み手が感じる印象だ。詩であれ小説であれ論文であれ、文章を書くのは伝えるためである。書き手の軸足が表現に置かれることもあるが、意味を明らかにして読み手に伝えるために書くのが基本である。
このところ、永井龍男の雑文をまとめて読んでいる。永井の文章は飾り気があるわけでもなく、鮮やかな表現を纏っているわけでもないが、固有名詞が多く描写も精細であるものの、読みやすい。読みやすいのは、イメージが正確に文章になっているからだろう。たとえば次の一文は、花を愛でる人たちの体験の一部を肩代わりするかのように綴られている。
桜の花の美しさは、花の数の多いことにあるが、いじめられずに、伸びのび育った木は、枝々に打ち重ねたように花を咲かせ、空を、星を、全身でおおってしまうのである。(「花のいのち」、『雑文集 ネクタイの幅』より)
同じ雑文集には「正確な文章」というエッセイが収められている。そこで、永井は「うまい文章」の「うまい」を否定する。そして、次のように断言するのである。
文章の目的は、うまいことにあるのではなく、「正確」な表現でなければならない。(……) 文章は、文章自体でなり立つのではなく、その人の思想、感情の表現として、はじめて形をなすのである。(……) (正確な文章を書く)秘訣は、文章にあるのではなく、表現したい思想なり感情を、しっかりとつかむことにある。(……) 正確な文章を書こうとするところから、文章に対する苦心がはじまり、開眼もまたそこを通してより他に道はない。
個々のことばの表現は踊っているが、単なる寄せ集めに過ぎず、まったく筋を伝えていない文章がある。何を伝えようとしているのかさっぱりわからない。なぜなら、書いている本人がわかっていないからだ。どんなジャンルの文章であれ、書くという行為はどこまで行ってもコミュニケーションである。それは意味を伝えるということだ。文章の上手下手の判断は他人に任せればよい。雑文を書くぼく自身、「上手に書きました」と言って読んでもらう自信はまったくない。しかし、「正確に文章を書く努力」こそが書き手ができる唯一の責任だと思う。この意味で、永井龍男の考え方に強く共感するのである。