地球規模で見るなら、人口減少よりも人口増加のほうが深刻である。宇宙船地球号の乗客は勢いよく増え続けてきた。「人口爆発!」と題して書いたのが2011年11月。当時、世界の人口は70億人を突破した。2017年の今日5月29日午後2時半現在の推計は74億200万超だ。この5年半で4億人以上増えたのである。人口増大によって、貧富の差の拡大、温暖化、食糧不足など、近未来に解決困難な不安材料が山積している。
他方、わが国はこれと真逆の現象に直面している。人口減少の恐怖である。某週刊誌の広告に「人口8000万人の国ニッポンで起きること」という特集の見出しがあった。雑誌を買い求めてつぶさに読んではいないが、数行の記事のさわりから伝わってくるのは悲壮感を漂わせる内容だ。「人口が4000万人減ることは、こんなに怖いこと」と不安を煽り立てる。
この記事は去る4月の国立社会保障・人口問題研究所の発表に反応したものだ。推定によれば、2065年の日本の人口は約8800万人で、現在より30パーセント減の水準になるという。現象に歯止めをかける対策を強化するのか、それとも、その水準に落ち込んでもなお生産人口をある程度確保できるような策を講じるのか。少子化対策に進展が望めなければ、人口減少に甘んじながら、あるいは外国人労働力を受け入れながら、経済成長を低速させない工夫を凝らさねばならない。経済を人口という身の程に合わせる覚悟をすれば成行きでいいだろうが、この主張は経済至上主義者からの非難を免れないだろう。
ところで、人口減少と社会の崩壊は異なることをわきまえておくべきだ。半世紀後に8800万に減少しても、その水準は現在のドイツの8200万、フランスとイギリスの6200万を上回る。人口だけで言えば、また、これら三カ国の経済力レベルで妥協するのなら、何の問題もない。週刊誌の記事はまるで一気に人口が4000万人減るような印象を与えているが、半世紀かけて逓減していくのである。激変はしない。指をくわえているだけならともかく、逓減の過程で対策は講じられるはずだ。
人口問題を国家的視点から杞憂しても、対策はつねに概念的かつ総論に終始する。人口と大雑把に言ってしまうから、国家の問題になる。しかし、国家的な影響の前に人々が暮らすまちの行く末を案じるべきだろう。人口が確保できても住民構成が高齢者に偏れば、まちは機能しなくなる。まちの住民構成のうち65歳以上の高齢者が50パーセントを超えると限界集落である。冠婚葬祭などの地域活動はもとより経済的文化的活動が一気に低迷してしまう。
個々のまちから住民が去ってしまうと、仮に国全体の人口が維持できたとしても、日々の経済活動や生活は立ち行かなくなる。人口減少で憂うべきは、国としての経済成長ではなく、人々が――国民としてではなく――市町村民として日々を送る生活のほうなのだ。現在1億2000万人の多くが大都市に集中し、中山間地域は過疎化して限界集落が増え続けている。国の成長が個々のまちの安定に優先されているかぎり、半世紀後の人口減少対策も絶望的である。
国家の問題の前に地方の問題を扱わねばならない。ぼくたちは国というバーチャルな家に住んでいるのではなく、まちという現実に生きているのである。国の経済成長とは、とりもなおさず、人々が暮らすまちの、常套句を使えば「持続可能な成長」にほかならない。人口が1億2000万か8800万かということよりも、密度の偏りを是正するのが先決である。住む場所がどこにでもあるのに、まるで砂漠のオアシスに一極集中するような状況のほうが危機的なのだ。人々が地域で暮らせるまちの多様性に半世紀かけて取り組めば、国全体の人口減少などは恐れるに足りない。食糧供給やインフラ整備が追いつかない人口爆発よりは知恵を絞りやすいと思うのである。