『徒然草』の七段にある「命長ければ恥多し、長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」は、はたして兼好の本心か。「長生きしたら恥をかくことが多くなる」という説にはうなずける。しかし、「目安として四十歳までに死んでおくのがいい」が本気なら、ずいぶん勇気のいる極論だ。兼好自身がこの随筆を書いた時点で不惑にはなっていなかったようなので、たぶん冗談半分に違いない。ちなみに、生年・没年ともに不詳ながら、兼好は七十まで生きたと伝えられている。
誰かが書いた文章をどう解釈するかは読者の勝手である。とりわけ、学者でもないぼくたちが、何百年もの後世になって徒然なるままに古典を読むに際しては、神経質なまでに厳密に解釈しなくても許されるだろう。ぼくごときのブログ記事と『徒然草』を同列に並べるつもりはないが、愚直なほどまじめに書いているつもりのブログ記事が、意に反してギャグや極論として読まれることがあっても文句は言えない。逆に、ギャグのつもりがホンネで伝わってしまってもいかんともしがたい。
兼好が『徒然草』に記したことを真に受けるか軽く読むかによって賛否が分かれる。たとえば、兼好は「物をくれる人、医者、知恵のある人」をよき友のベストスリーに挙げる。これに対して、医者と知恵者はさておき、物をくれるからいい友だちなどというのはけしからんという批判が下る。心でひそかに思うのならともかく、公然と唱えるとは厚かましいにもほどがある、というわけだ。はたしてこのイチャモン、適切なのだろうか。正直なところ、ぼく自身は物をくれる人をいい人だと信じて疑わない。
物をくれる人がいい人とは言っているが、「ゆえに、物をくれない人は悪い人」だなんて言ってはいない。それどころか、「物をくれる」はもらう人から見た客体の行為だが、同時に客体からすれば「物をあげる」行為なのである。つまり、「物をくれる人」は「物をあげる人」なのであるから、施しの精神の備わっているという賞賛にもなりうる。兼好の「良友論」は、決して己だけが得すればいいというエゴイズムではないのだ。
いや、そんな生真面目な考察などどうでもいい。これはきっとセンス・オブ・ユーモアなのだ。この随筆を真っ先に読んだのはおそらく兼好の友人たちであり、次いで有閑階級の人々であっただろう。徒然草は、物をくれる友人、医者、知識人らを読者として想定していた。この読者想定の心理は手に取るようにわかる。医者を強く意識したことはないが、ぼくのブログは、ぼくと付き合いのある人、ぼくの話を聞く機会のある人、知的好奇心の旺盛な人らを読者対象にしている。そして、兼好同様に、想定する読者にはぼくに物をくれる人(くれた人)も含まれている。
連休に入る前から立て続けに物をいただいた。まず朝挽きの新鮮な豚肉。とても食べ切れない量なので半分ほど塩漬けにした。次いで徳島から「たらいうどん」が届いた。賞味期限まで時間があるので、吉日にいただくつもりにしている。この連休中には筍と蓮根のスペシャリストMK氏から筍を頂戴した。親切にも「筍を送ります」との電話。昨年は大量の筍に夢でうなされ、毎日レシピを変えながら10日間食べ続けた。まるで苦行する僧侶のような気分だった。「今年は少なめで」とお願いした。届いた筍は昨年の三分の一ほどだった。「ちょっと少ないな」とぼく。身勝手なものだ。
豚肉、たらいうどん、筍。くれた人たちには感謝している。みんなほんとうにいい人たちなのである。