語彙のありようについても再考してみた。ことばには聴いたり読んだりしてわかる〈認識語彙〉と、話したり書いたりできる〈運用語彙〉がある。運用を「活用、生産、発表」などと言い換えてもいい。だから語彙を考える時、わかることばと使えることばに分けて論じることができる。
聴き取りにくい発音や判別しにくい手書き文字などの例外を除けば、自ら口頭や文書で使えることばなら、通常は聴いたり読んだりもできるはずである。「私はブログを書いています」と話せる人は、誰かが「私はブログを書いています」と言うのを理解する。また、「拝啓 貴下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます」と、文例を丸々引用するのではなく、自筆で書いた人ならば他人が書くその冒頭の挨拶文を難なく読み取るだろう。つまり、認識語彙は表現語彙よりも多い。
したがって、仮に難解とされている一冊の本を読了できたとしても、そこに書いてある用語や表現のすべてを読者が使えることは稀である。いや、正確に言うと、著者自身はその一冊の本の中で書いただけの用語や表現を運用できた。そして、おそらくその著者はそこで用いた用語や表現の3、4倍の認識語彙を有しているはずなのである。わが国の大半の成人の認識語彙力が3~5万語の間に分布しているようだが、実際に使えるのはそのうちの3分の1か4分の1とされている。
語彙の体系はそれまでの学習、環境、文化、専門、職業などによって決まる。クイズの得意・不得意分野などの性向とよく似ていて、社会一般は得意だが科学や工学は苦手、政治経済には詳しいがスポーツ音痴などのように偏っている。いろんなジャンルが均等に散らばっていることは逆に珍しいかもしれない。〈スキーマ〉と呼ばれる、会話・文章を理解するときに用いる知識体系がそこにあり、同時に階層構造状に〈フレーム〉が広がっている。得意分野になると、場面設定と行為がさらに詳細になって〈スクリプト〉を形成している。
語彙体系においては、その時々のお気に入りのことばが主導的になる。同義語を緻密かつ精細に使いこなしていた人でも、たとえば「人生いろいろ」や「ぶっ壊せ」のような大雑把な用語が気に入って多用し始めると、ことば遣いもアバウトになり偏ってくるものだ。ある分野の語彙の使用頻度が高まれば、相対的にその他の分野の語彙の出番が少なくなってしまう。
とりわけ要注意なのが、口癖や常套句である。口癖はその直後に続く表現を固定させてしまう。たとえば、「やっぱり」と言った後に「重要です」と続ける知り合いがいる。「雨降って地固まる」や「貧乏暇なし」などの常套句は使用文脈を限定してしまう。使う本人たちはほとんど気づいていないが、常套句を境にしてステレオタイプな方向へと話が展開していく。何万語の語彙を誇っていても、一つのことばが語彙体系の磁場をそっくり変えてしまうのだ。宝の持ち腐れにならないためには、多種多様なことば遣いを意識し、時には少々冒険的な新しい術語にも挑んでみるべきだろう。